敗者
天と地の、その狭間の曖昧な領域から法衣の男は無様に転がり落ちた。そして今、焼け爛れたコンクリの上で、耳障りの悪い奇妙な音を立てながら無様に転がり回っている。膝から下は消し飛んでいるが、血液も体液も何一つ出ていない。ふむ?これはおかしい、と素朴な疑問をもって俺は首を傾げた。以前ネットで学習した知識との齟齬が発生している。
人類が取り返しの付かない程の負傷をすれば、色々な物質が噴出するはずだ。現実空間に存在する生物は、殆んど99%までが水分で構成されているらしい。それ程水分が多ければ定常的な形を維持するのも難しいはずだが、そこは規律とか世間体とかいうもので、ギリギリ維持しているらしい。だが俺はその世間体やら、残りの謎の1%も含めて足を消し飛ばしてやったのだ。色々な物質やら思いやらが惜しげもなく溢れ出してもおかしくないはずだ。しかし、或いはそういった物質が放出されない状況というものも存在するのかもしれない。プラシーボ効果だの、カクテルパーティ効果だの、つり橋効果だのと色々面倒くさい補正があったと記憶している。本当にそういう所だけは一丁前の惑星のようだ。
弟の言ではないが、もう少し合理的な技術昇華を早急に進めるべきではないのか等と俺らしくもないことを思考してしまう。
「どうです、赤髪法衣さん。いわく"魔法"など、時と場合によっては何の役にも立たないということが少しは解ってもらえましたかね。郷(星)に入れば郷(星)に従うような存在ばかりではないのですよ。この宇宙は」
「特に俺は、そういったご都合主義的なバランスだとか、空気読めよ、とかそういう思想に非常な嫌悪感を感じる性質ですのでね」
砕け散ったステンドグラスの上で、おどけるようにフヨフヨ浮遊しながら、そう宣言した。
そして脂汗を浮かべる奴の顔を遠く見下ろしながら、スカートの裾をつまみあげ軽くお辞儀をする。この一連の動作で、相手に圧倒的な印象を与えられたはずである。惜しむらくはもう少し髪を伸ばしておいたほうが良かったか。まぁそこは次への反省点に挙げておこう。
憔悴しきった顔をさらに歪めながら赤髪がこちらを見上げる。
「ぐぅう……ッぅ……何だお前は……。何故我々の邪魔をした……」
憎しみと疑念と恐怖で混濁した瞳で、苦々しげにそう呟いた。
そう、俺は何かしら彼らの邪魔をしてしまったらしい。思えば、今日も元気に学園へ通学する途中、最寄の駅の近くに建っているオフィスビルの中から違法な取引が行われている気配をキャッチしたのだった。そこで分析をしてみると、電子ドラッグとか?魔法サプリとか?学園法規で禁止されているモノが現場に相当量存在していることが把握された。俺は口にくわえていたトーストを大急ぎで飲み込むと、オフィスビル内に転移し、取引を行っていた輩達の驚愕した面に向かってひと通りの挨拶を済ませ、自分が公権力を持った身分の者ではないこと、でも違法物質は押収させて頂きますという旨を伝え、取りあえずそこにいたヤカラの半数ほどを同時に細切りにした後、飛び交う怒号の中、違法物質を隔離空間に転送し、そして最寄の駅に転移していつも通り学園に向かったのだった。
勿論、後で何かあった時のために、学園の生徒手帳をコピーしたものを現場のすぐ目につく所にちゃんと置いておいた。そして何故か、この宗教テロリストさんが学園の授業中に窓をぶちやぶって教室の中に乱入してきたのだ。まぁ途中で気づいてはいたので、学園敷地外のリュート渓谷の辺りに行ってきますと担任の先生に伝え、テロリストともどもその場所へ強制転移したのだ。
そして今、この有様である。
「そんな能力はあり得ん……。極北大陸の異能者か……?あの魔境が何故今更…何のためにこんな……」
完全に混乱の極地の中でブツブツ呟いているが、仕方がないだろう。
極北大陸、それはこの星のまさに極北に位置している。かなり巨大な大陸国家群が存在し、其処に居住している五億一千万人程の民は、全員須らく強力な"魔法"体質を有しているという。いや、強力というより<異質>とでもいうべきものらしい。
ティオキア連邦、1000年程前の世界大戦でそう名付けられたその国家群は、それから現在に至るまで他のあらゆる大陸との交流を完全に絶っていた。ティオキア連邦以外の主要先進八カ国の全通常戦力を投入しても、その強固で異質な極北の混沌を突破することは不可能と言われている。或いは現時点で人類が保有しているあらゆる大量破壊兵器の類を総動員したとしても。ちなみに現在この星の総人口は約百四十五億人程である。
「極北大陸。うむ…、話を簡単にするために、その地域を今すぐ物理的に消去しても構わないんだけど、君の愚鈍な頭をスッキリさせるためにそこまでするのは少々美学に欠けるかな。もしかしたらその地域にも何かしら興味深いテーゼが存在するのかもしれないし。それよりは君のほうを消去したほうが断然早いだろうね?」
困惑と諦念を綯い交ぜにしたような表情を浮かべながら、赤髪法衣の男は呻く。
「なに……?気でも違ったか……。誇大妄想狂か……。何者だ、一体……」
ごぼッ、と盛大に吐血しながら、勢いよく顔面から地に伏す男。
「計算したところ、君にそれを知る価値はゼロのようだよ」
視たところ、もうそう長くはない命のようだ。もっと多くの情報を聴きだす必要がある、とは思わない。こいつと同じ属性の個体を検索して尋問すればすぐ解る。脳をスキャンすればすぐ解る。こいつの所属しているらしい"原理教"とかいう組織を丸ごと採取してもいい。それに死ぬ、とは何だ、生体活動を再構成すれば蘇る。何千回、何万回でも。
だが俺はもう、こいつには殆んど興味は無かった。
「さぁ、"死"を凝視する時間だ」
俺は男にそう告げる。電車の到着を告げるアナウンスのように、チェーン店のマニュアル化された接客用語のように、極めて無機的に且つ自動的に。
男はまだ何か意味の殆んどない言葉の断片を紡いでいたが、俺がコマンドを入力するとともに物言わないナニカになった。
「メメント・モリ」
俺は口に出してそう言った。