不機嫌な弟
<「社会」ではなく「世界」自体に接続すること..>
『世界は今や、蓄積された不必要な言語的イメージによって重くなりすぎた。然らば、減らさなくてはならない。世界に充溢する新たな視線が、住人たちを無限の変革へと導くことだろう』 -- 「最終知覚者」より--
「兄様はアルコールの飲み過ぎで少々オカしくなっていらっしゃるのですよ。そうに違いありません」
そう呟く弟の潤んだ瞳は、うそ偽りのない心配を湛え、震える水球と化して俺を見つめている。
俺の弟、「レイン」はいつだって世界が望む最高の姿で傍に佇んでいるのだ。
フランス人形のごとく調った顔に、インクを垂らしたような美しい黒髪と、あらゆる光を吸い込む漆黒の瞳。生まれたばかりの海洋生物を思わせる小さな唇。熟練の職人が大理石から削りだしたような完全に均整の取れた肢体。小さな所作の一つ一つに、神々しく青白い燐光を纏っている。全てが渾然一体となって、奇跡的な生物学的芸術作品を存在せしめているようだ。疑いようもなく、俺の自慢の弟である。異論は認めない。
「そうかもしれないけど、俺はまだ自分が何を言っているか正確に把握しているつもりだよ」
濁った瞳で俺は、弟へ顔も向けずに目の前の薄汚れたディスプレイを睨んでそう呟く。
視線の先には、明滅するボーカロイドやら仮想コミュニケーション空間やらが拡がっている。
「この現実空間に来てからの兄様は以前より更に<アーキテクチャ>とのリンクが弱まっています」
「今現在のリンク係数は'80+'、前回の現実空間接続時の係数が'210+'でした。これはもはや看過できない由々しき事態です」
部屋の隅におかれた年代物のマホガニー製の椅子に座りながら、俺のほうをじっと見つめて、変声期前の少年のように透き通った声で現在の状況を淡々と説明する弟。
レインが言っている「現実空間」というのは、数億年前に我々の祖先である知的生命体が文明を営んでいた、宇宙中に散らばる様々な星系のことである。
<アーキテクチャ>とは何かと問われれば、それは「我々」そのものであるとも言えるし、我々の住む世界であるとも言えるだろう。アーキテクチャとは、我々が現実空間と呼んでいる<物理的領域>を覆い尽すように張り巡らされた、途方もなく巨大な情報ネットワークだ。そしてそのネットワーク上に、自我を持った俺や弟のような「自律思念」と呼ばれるユニットが、これまた星の数ほど存在している。
今、俺たちが接続している現実空間は、アーキテクチャの影響力が及ぶ星系の中でもかなり辺境に位置しているが、興味深い色々な文化活動が行われている。原住民の言語で地球と呼ばれるこの星には、他にも幾らかの我々の同類達が興味本位で滞在しているようだ。
「別にアーキテクチャとのリンクが弱まっても構わないよ……。まぁ、またあの"博士"とやらが派遣されてきて、延々と訳の解らない話に付き合わされるのは勘弁して欲しいけど」
キーボードを高速で叩きながら、吐き捨てるようにそう言うと、レインは肩を落としてひどく狼狽した様子で返答する。
「また、そのようなことを……。一度リンクが切れてしまったら、二度とアーキテクチャに接続できなくなる可能性だって……。実際、そうなってしまって現実空間に構築した肉体の寿命とともに、自我が消滅してしまったオートノミーだっているらしいんですから……」
悲しげな顔でそう言うと、細く白い指を神経質そうに組み替えながら、黙って下を向いてしまった。
「それでも別に構わないけどね」
若干いたたまれなくなりつつも机の上に置いてあるポリプロピレン製の袋からポテトチップスを無造作に取り出して食べる。ウェットティッシュで指を拭う。そしてキーボードを高速で叩き続ける。
ポテチと呼ばれるこの9.9割方が油で構成されている食物を摂取していると、生体組織に異様な負荷がかかり、混乱した神経伝達物質が何ともいえぬ不健康な快楽を、とめどなく脳内に送りこんでくる。実に素晴らしい感覚だ。この食物の虜になり社会生活に支障をきたす可能性があるため、この星の多くの国家では、数百年程前からポテトチップスの摂取を厳格に禁じているらしい。無許可で栽培することも許されていない。地球上にはポテチ以外にも似たような効能を持つ食物が数多く存在するが、人類社会に甚大なる悪影響を与えるとして総じて厳重な規制が敷かれているようだ。先ほどインターネットのサイトで新たに学んだ知識だ。
ちなみにアーキテクチャ内には支配星系に関する膨大な情報を記録したデータベースのようなものが存在するが、個別の星に対する詳細な情報についてのアクセス権を我々は持っていない。アクセス権を保持しているのがナニモノなのかについても開示はされていないのだ。そのため、こうやって現実空間に接続して地道に情報を拾い集めるしか方法はない。
「情報収集だよ、情報収集。この星のここ数百年の文化活動には非常に興味深いものがある」
リッチコンソメ味のポテチを咀嚼しながら、いい加減な弁明を述べ立てる俺。
「そんなことを言って、ネットゲームやらアニメやらに熱を上げているだけではありませんか……」
不満そうに口を尖らせながら、レインはふわりと無重力に体を浮かせ、クルクルと回転しながら窓のほうへと移動する。
「一見無駄なように見えるものに多くの可能性が含まれている。それが文化というものだ、と。この星の住人は考えているらしいよ。せいぜいが数千年程度の文明ではあるけれど、この星の文化からはアーキテクチャも何かしら学べるものがあるかもしれないんじゃないかな。我々も昔は持っていた概念なのかもしれないけれど、今はもうとっくに失われてしまった」
「そんなもの、合理性の欠片もない原始文明の感傷的態度ではありませんか。。我々オートノミーの存在理由からすると、非効率極まりない」
心底理解できないといった様子で頭をフルフルさせると、使い古したチューブラータイヤの如く、小さな唇から細長いため息を漏らす。
「レインもやってみればいいじゃないか。この怪物ウォッチャってゲームとか発想がランダムで実に面白い。こんなに色んな種類の怪物を出す必然性は全くないように思うけど、彼ら"地球"人の宗教的観念の一つである、汎神論的発想から来ているのかもしれない」
窓の外に広がる巨大な都市の夜景を眺めながら、俺の弟は少し眠たげな視線をこちらに向ける。
「あまり興味がないです。僕には、他の星系の原始文化と大して違いがあるように思えません」
「そう……」
ちょっとばかり頭が固いところが唯一の欠点だな、まぁそこがまた逆に良かったりもするんだけど。と、兄バカな評価を下しながら赤ワインを一口嚥下する。ふぅむ、少し酔いすぎたようだ。まぁ体内のアルコールを強制的に分解すれば即時ノーマルな状態に戻れるわけだが、そのような野暮なことはしない。ノーマルでいたければわざわざこんな現実空間に接続する必要もないのだ。
「明日はまた学園に行かれるのですか?」
「まぁ、生徒なのだから一応毎日行くよ。飽きない限りは」
「そうですか……では僕も兄様が飽きない限りはご一緒しましょう」
「ふむ……」
俺達が通っている学園リュケイオンは、科学者やら呪術者やら魔法使いやら職業軍人やら哲学者やら作家やらの卵が、切磋琢磨、ときどき抗争したり闇討ちしたりされたりしながら過ごしている至極愉快な高等教育機関である。ちなみに学園といっても、ちょっとした政令指定都市と同程度の規模を誇り、国内外の有力企業が様々な投資を行い、学園で養成されたエリート達は、この国の官僚、政治家となって国政に多大な影響力を行使しているのだ。
そして自称17歳の我々にも勿論この学園で教育を受ける権利を有している。我々の能力を駆使して、快適な学園生活が送れるよう色々と調整させてもらったわけだ。
「それではお先にお風呂いただきますね」
そう呟くと、クルクル回転しながら俺の前をゆっくりと横切って行く。
「覗いたら駄目ですよ?」
振り向きざま、こちらを凝視して人差し指をピッと立てる。
暗黒色に輝く双眸が、キラキラと威圧の光を放っている。
「いや……覗かない……けど……」
「冗談です」
誰にも気づかれない程度に口角を上げ微かに微笑むと、
ポポイと服を脱いで、浴室へと消えていった。