第三話 庭の桜
春。
この日を境に、三兄妹の長男である青年は親元を離れ、この地域を治める大名の元へ奉公に出る事になった。
最近では隣国が攻め込もうと画策しているらしく、近々大きな戦があるらしい。
青年は旅支度を整え、屋敷の門の前に立った。
手にしている荷物は風呂敷包み一つだけだ。
父親である当主は、腰に差していた家紋入りの小太刀を青年に手渡した。
「これをそなたに授ける。立派に奉公するんだぞ」
「わかっています。じゃあ、行くから。お前たちもしっかりやるんだぞ?」
二人の姉妹も見送りのために駆けつけていた。
そのうち、アヤメは今にもこぼれ落ちそうな涙を必死に堪えている。
キキョウは涙こそ流さなかったが、青年を直視できないようだ。
明後日の方向を見ながらも、彼の身を案じて言葉を掛けた。
「…私は兄上の方が心配じゃ」
「兄上…どうかご無事で」
「あぁ。心配するなって。それじゃあ、行って来る。さらばだ!」
そう言って青年は屋敷を後にした。
三人は青年の後ろ姿を見えなくなるまで、ずっとこの場所を離れずに眺めていた。
その夜、二人の部屋からはすすり泣く声が聞こえていたと言う。
翌年の春。
長男に遅れてキキョウが屋敷を離れる事になった。
奉公先は、東国を治める大名で、長男が奉公に向かった大名とは協力関係にある。
領地も拡大中で、天下取りに一番近い大名とも言われているらしい。
「今度はお前が奉公に行く事にはるとは…」
当主は家を離れる娘の目を見ながら男泣きをしていた。
普段は、“英雄豪傑”と謳われるほど、戦場で数々の武勲を上げる人物ではあるが、娘の前では一人の父親の顔になっている。
その隣では、姉の身を案じたアヤメがいた。
「姉上…どうかご無事で」
「何、私の事は心配しなくともよい。それより、私の心配は父上だ。よいかアヤメ、しっかりと父上を支えるのだぞ」
「はいッ」
「では、迎えの者を待たせているので行くとしよう。達者でな」
キキョウは名残惜しい様子を一切見せる事なく旅立っていった。
彼女にとって、”獅子”の運命を自覚した時からすでに覚悟ができていたようだ。
しかし、心の内は不安と期待が入り混じり、心中は大きく波立っていた。
それを悟られないよう、普段通りの飄々とした雰囲気を意識していたようだ。
その晩、アヤメは目を腫らして泣き続けた。
キキョウが屋敷を離れて数年の歳月が流れた。
そして、庭の桜が満開の見ごろを迎えた頃、アヤメも独り立ちの時を迎えた。
「兄上と姉上が大好きだった桜も満開…“あの頃”を思い出します」
「アヤメ、とうとうお前まで奉公に行く歳になってしまったとは…」
「はい。ご心配はいりません、立派に勤め上げてみせます」
「うむ…いい眼だ。お前はこの数年で随分強くなった。それは、精神的にも肉体的にもだ。今ではこの父を上回るほど剣術の腕も上達した。誇るがいい」
当主は成長した末娘を愛しそうに見つめている。
そんな当主は、すでに一線を退き、現役時代の勢いがなくなっていた。
それだけに、これから戦場に向かう娘の身を案じ、落ち着かない表情をしている。
「…よいか、これだけは伝えておく。敵に背を向ける事は、“獅子”の者としてあるまじき事だ。しかし、例外もある…。それは、同族と戦う時だ。その時は必ず合図を交わせ。よいな?」
「わかりました」
「もし、その時、相手が引かぬ場合は逃げても構わぬ。それは、“獅子”の血を絶やさぬために必要な事だ。よく肝に命じておけ」
それだけ言うと、当主は顔を伏せてしまった。
そんな父親の心の内を悟ったアヤメは、着物の袖を破って父親に手渡した。
「私は死んだりしません。これは私の代わりです。父上はこれを持っていてください。そして、私の活躍をいつまでも応援していてください」
「…わかった。達者でやるのだぞ」
アヤメは出来る限りの笑顔を作ってそれに応えた。
彼女が奉公に向かうのは、朝廷と繋がりのある貴族で、武家とも強い繋がりを持っている。
それに加え、天皇に代わり、各地の大名たちを監視する役目を担う名家だ。
そのため、戦となれば自前の兵を出し、情報収集や暗殺といった影の仕事を行う。
彼女が配属されるのは、まさにその中枢である諜報活動部隊であった。
彼女の役目は、忍の者と協力し、敵陣で情報を集める事だ。
時には色香を使い、時には武力を行使して相手を制圧しなければならない。
「よいか、決して死ぬでないぞ」
「わかっております。では、私はこれにて。行ってまいります!」
そう言ってアヤメは住み慣れた屋敷を離れていった。
父親は離れていく娘の姿を見つめ、膝から崩れ落ちて音もなく泣いた。
それとは対照的に、満開を迎えた庭の桜は、去っていくアヤメを無言で送り出した。
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