コーヒー・マグ
コーヒー・マグ 秋企画 銀杏編
これで荷物は全部。
私はバッグのファスナーを閉めた。
窓の外では傾き始めた陽を受けて銀杏が金色の葉を光らせている。
もう、秋もずいぶん深まった。
そして今日、私はこの部屋を去る。
キャリーバッグは小さいけど、ここで暮らした1年半の思い出はたくさん詰まっている。目には見えないけれど。
「荷物、片付いた?」
声に振り向くと、彼がマグカップの載ったトレイを手に立っていた。
「ええ・・・」
そう言ってカップを受け取る。コーヒーのいい香り。
同じように淹れているつもりなのに、なんの秘密があるのか、彼の淹れたコーヒーは私が淹れるものより美味しかった。
かった・・・。
そう、過去形。
彼の淹れたコーヒーを飲むのはこれで最後。
私は白、彼は黒。色違いのマグカップ。
一緒に暮らし始めたとき、お互いに一目ぼれして買った。
「どうしてこんなに波長が合うんだろうね」
「きっと運命だよ」
交わした会話が思い出される。
あのときは、たった1年半で終わりが来るなんて思ってもみなかった。
そう、私たちは波長が合った。
いや、合いすぎていた。
同じものに感動し、同じものに喜び、けれどそれは・・・
同じものを嫌悪し、同じものに絶望するということでもあった。
彼が自分を好きになれないとき、そういう彼を私は好きだと言ってあげられなかったし、私が自分を嫌悪せずにいられないとき、彼もまたそういう私を嫌っていた。
生きてゆくのはけっこうつらい。
少しずつ、少しずつ。
喜びよりも、苦しみのほうが心の中に澱のように溜まっていく、そのことをお互い痛いほど感じながら、お互いどうすることも出来ない日々が続いた。
そして、
ある日。
二人で顔を見合わせたときに。
お互いに気づいてしまった。
もう、限界だと。
コーヒーを飲み干す。美味しかった。
でも、一杯のコーヒーで引き止められるほど私たちの絶望は浅くはない。
「もう、行くね」
「ああ・・」
「コーヒー美味しかった、ありがとう。それから」
「なに?」
「このカップ、もらっていっていい?」
「ああ、いいよ」
カップを手にしたまま、私は玄関に向かった。
最後に、彼に微笑みかける。
彼も、微笑み返してくれた。
最後は、笑顔で。
お互いそう思っていた。
アパートの階段を下りる。靴音が響いた。
この音を聞くのもきっと最後。
もう、二度とここを昇ることはない。
階段を下りたところで、カップを持った手を開く。
カップはコンクリートの上で粉々に砕けた。
そして私は金色の葉をひらひらと舞い散らせる銀杏並木の下、駅へ向かって歩き出した。
一度も振り向かず、一度も立ち止まらなかった。
けれど
私は確かに、黒いマグカップの割れる音を背中で聞いていた。