第2話 辺境の森、孤高の銀狼と不思議なオムレツ
王都の重苦しい空気から解放され、私はひたすら東へと歩を進めていた。目指すは、地図の端に辛うじて記された「ミルダの村」。追放された料理人が静かに再起を図るには、それくらい辺境の方が都合がいい。
数日が過ぎ、私は「精霊の吐息」と呼ばれる深い森へと足を踏み入れていた。見上げるほどの巨木が連なり、足元には湿った苔と、野生のミントやタイムの爽やかな香りが漂っている。王都の喧騒とは無縁の、生命力に満ちた静寂。私は立ち止まり、深く息を吸い込んだ。
「……空気が、美味しいわ」
誰かの体調を気に病むことも、効率を求められることもない。ただ、自分の足で歩き、自分の食べたいものを決める。その当たり前の自由が、今の私には何よりの贅沢に感じられた。
その時だった。茂みの奥から、微かな、しかし苦しげな唸り声が聞こえてきた。
警戒しながら歩み寄ると、そこには一頭の狼が横たわっていた。いや、それは普通の狼ではなかった。陽光を弾くほどに美しい、白銀の毛並み。額には小さな角があり、その体躯は馬ほども大きい。伝説に語られる聖獣、銀狼だ。
しかし、その美しい毛並みは汚れ、脇腹には黒ずんだ深い傷を負っていた。魔物の呪いを受けた傷だろうか。傷口から魔力が霧散し、彼の命の灯火を削っているのが見て取れた。
「……ひどい。これでは、魔力が枯渇してしまいますわ」
銀狼は私に気づき、鋭い金色の瞳で睨んできた。低く唸り、最期の力を振り絞って威嚇してくる。けれど、私は怯まなかった。かつてS級パーティーで命のやり取りを間近に見てきた私には分かる。この子はただ、怖がっているだけだ。
「大丈夫ですわ。貴方を傷つけるつもりはありません」
私はゆっくりと跪き、隠しユニークスキル《無限料理庫》を展開した。今の彼に必要なのは、強力な回復魔法ではない。衰弱した体に無理なく染み込み、散り散りになった魔力を繋ぎ止める「芯」となる栄養だ。
私はウィンドウから、最高の食材を選択する。《天上の白卵》、《熟成発酵バター》、そして——《深淵の黒トリュフ》。
私は鞄から使い慣れた小さなフライパンを取り出すと、即席の魔導コンロに火をかけた。まずはバターを。熱を得たバターが、シュワシュワと白い泡を立てて踊り出す。森の中に、一気に芳醇な香りが広がった。
ボウルに割り入れたのは、一点の曇りもない黄金の卵液。そこに、贅沢にスライスした黒トリュフを散らす。「黒いダイヤ」と呼ばれるその芳香が、バターの香りと溶け合い、銀狼の鼻先を掠めた。
トントン、とリズム良くフライパンの柄を叩く。卵は熱せられた表面だけが薄く固まり、内側はとろりと半熟の状態を保つ。職人技で巻き上げられたその姿は、まるで黄金の繭のようだ。
仕上げに、ほんの一滴だけ魔力を込めたハーブオイルを垂らす。《トリュフ香る、ふんわりとろけるプレーンオムレツ》の完成だ。
「さあ、召し上がって。少し熱いので気をつけてくださいね」
私はオムレツを白磁の皿に載せ、銀狼の鼻先へそっと置いた。銀狼は訝しげに鼻を動かしていたが、やがて抗えない誘惑に負けたように、舌を伸ばした。
一口。その瞬間、銀狼の瞳が大きく見開かれた。とろけるような卵の食感と、鼻を抜けるトリュフの官能的な香り。そして、私の魔力が込められた食材が、彼の体内で枯渇しかけていた魔力回路を優しく繋ぎ直していく。
銀狼の体から、眩いばかりの銀色の光が溢れ出した。脇腹の黒ずんだ傷が、見る間に浄化され、新しい肉が盛り上がっていく。汚れにまみれていた毛並みが、本来の輝きを取り戻した。
「……くぅん」
先ほどまでの殺気はどこへやら。銀狼は立ち上がると、私の手に自分の大きな頭を擦り寄せてきた。まるで、「ありがとう」と伝えているかのように。
「ふふ、元気になって良かったですわ。……ハク、と呼びましょうか。貴方の毛並み、本当に綺麗なんですもの」
ハクは嬉しそうに尻尾を振り、私の周りを軽やかに跳ね回った。伝説の聖獣が、まるで一匹の大きな子犬のようだった。
ハクの回復を見届け、再び歩き出そうとした時——ハクが私の服の裾を咥えて、森のさらに奥へと導こうとした。
「……あちらに、何かあるのかしら?」
ハクの後に続いて深い藪を分けると、そこには古びた大樹の根元にうずくまる、小さな影があった。
「……えっ?」
それは、一人の少女だった。ボロボロの服に身を包み、頭には長い兎のような耳がある。獣人の少女だ。彼女はひどく顔色が悪く、唇を真っ白にして震えていた。
「もしもし、大丈夫ですか?」
私が駆け寄り、その肩に手を触れると、少女はうっすらと目を開けた。
「……おなか……すいた……」
その掠れた声を聞いた瞬間、私の胸が締め付けられた。彼女の細い腕、汚れにまみれた頬。どれほどの空腹と孤独に耐えてきたのだろうか。かつて王都の路地裏で、誰にも気づかれず消えそうになっていた自分自身の姿が、一瞬重なって見えた。
「大丈夫。もう、怖くありませんわ」
私は優しく、彼女の小さな頭を撫でた。
「私はルシア。料理人ですわ。貴方を元気にする、とびきりのご飯を作ってあげますからね」
少女——ミナは、私の言葉に縋るように、細い指で私の服を握りしめた。その様子を、ハクが静かに、しかし力強く見守っている。
追放された料理人と、孤独な聖獣。そして、居場所を失った少女。森の緑が、私たち三人を祝福するように優しく揺れた。
家族というにはまだ頼りないけれど、私たちは静かに、その第一歩を踏み出したのだ。 私の料理が、彼女の……ミナの未来を照らす灯火になることを願いながら。
つづく




