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【小説】ノース戻り橋イースト

掲載日:2025/12/15

 在来線の特急を降りると、潮風がふわりと鼻をくすぐった。

 思ったより暖かい。日差しのお陰でもあるだろう。

 コートを着る事は無かったし、中に保温シャツを着なくても平気そうな陽気だった。

 向かい側の改札があるホームに向かう長い渡り廊下で、彼女は急に立ち止まってぼくに訊いた。

「本当にうちに来て挨拶してくれるの?」

「もちろん、行かせてくれよ。何度もぼくが訊いただろ」

 やっとだよ、そう笑って見せると彼女は「ウェーイ」と言ってグーを向けて嬉しそうに笑った。

 それにしても暑い。

 小春日和とは言え、少しどうかしている。

 もしかしたらぼくが緊張して火照っているだけかも知れない。虎屋の羊羹を持つ手が痺れている。


「ねぇ、もう一度服が乱れてないか見てくれないか」

 先に改札を出た彼女を呼び止める。

「家を出てから何回目よ」

 彼女はぼくを振り返らず、バス停の時刻表を見ながら答えた。

「気になるんだよ、完璧でありたいんだ」

「わかるけど」

「裾が捲れてたり糸が出てたりしないかな」

 緊張していると思う。

 何が良くて何が悪いのか、頭の中からすっぽりと抜け落ちている。

「髪型…自然でよし。シャツは身体にもスーツにもラインが合っていてよし。

 スーツは糊が効いていて皺もないしストライプも下品過ぎないのでよし。

 革靴も先が尖り過ぎていない綺麗さがあってよし。

 腕時計も華美じゃないのでよし」

 彼女の指差し確認ひとつひとつに安心する。

「顔はテカってないかな」

「それもよし。髭も綺麗に剃ってあるし全てよし」

「よし、なら大丈夫だ。行こう」

 勇気が出てきた。

 ロータリーにやってきたバスは黄色いサングラスをした運転手がハンドルを握っていた。

 広告の無さと塗装の色褪せたボロさ。今ならそんなバスに乗る勇気だってある。

「ちょっと、私のは見てくれないの」

 彼女は急に大きな声を出した。

「実家なんだろ?大丈夫だよ。それに君はいつだって美しい」


 鼻を鳴らして笑うようにプシューと派手な音を立てたボロいバスは、やはり肩を揺らして笑うようにガタガタと車体を震わせながら田舎道を進んだ。

 山。田畑。日本家屋。

 ジブリ映画にでも出てきそうな風景が車窓に切り撮られては流れていく。


 彼女はこの景色の中でどう過ごしたのだろう?

 ぼんやりと浮かぶような、幼い頃の彼女を窓の外に走らせていると、ブザー音が聞こえた。

「つぎ、止まります」

 彼女を振り向くと、ゆっくり頷いた。



「道はこっちで合ってるの」

 バス停で降りて、山の中に入っていく。

 彼女は愉しそうに笑った。

「あの橋を渡ったところにあるのが私の家」

 彼女が指さした先にあるのは、なんとも立派な日本家屋だった。

 尻込みしそうになるが何とか気合で抑え込む。

「本当に大丈夫?何があっても驚かないでね」

 彼女は不安そうな声を出した。

「わかってるよ、大丈夫さ」

 根拠のない自信が湧いてくる。

「今までも何回か来たんだけど……」

「ああ、聞いたよ。みんな橋を渡ったところで驚いて逃げちまうんだろう」

 ぼくは違うよ、大丈夫。そう言って笑っても、彼女はまだ不安そうだった。

「うん」

 全員そう言ったもの、と言うことばを飲み込んだように見えた。

「ぼくをそこらの奴と一緒にするなよ。スタートアップで会社を成功させたんだ、気合が違うよ」

「……震えてるのは」

「武者震いだよ。そっちこそ、何があっても驚くなよ」

「私は大丈夫だけど……」

 ぼくは大股でずかずかと歩を進めた。

 立ち止まっていると怖くなりそうだった。



 先ほど彼女が指差した橋に差しかかった。

 見たところ、橋は至って普通の橋だ。

 近くには立ち木も茂みもなく、誰かが隠れてぼくらを驚かそうとできる空間は無いように見える。

 振り返ると、彼女はまだ不安そうな陰を残して無理矢理に笑った。


 もっと別の何かがあるのだろう。

 それが何かは分からないが、きっとぼくはその困難を乗り越えて見せると胸に決めていた。

 ぼくは荷物を片手にまとめると、空いた手で彼女の手を握った。

 そして歩調を併せると、一緒に橋を踏んだ。


 真上に輝く太陽がぼくたちの影を真っ直ぐ下に落としている。

 橋はぼくたちを乗せたが何も反応しない。

 ぼくは彼女を見えて微笑み、ひとつ頷くと彼女を引っ張るようにずんずんと進んで一気に橋を渡り切った。

 迷信だ、田舎の。



 渡り切ったところで大きく息を吸って全部を吐き出すと、自身に何も変化が無い事を確認して「どうだ」と彼女を振り向いた。

 そう、彼女を振り向いたはずだった。

 だがそこに立っていたのは白いワンピースを着た男だった。

 日に焼けた肌は赤黒くひび割れており、大きく張った顎はたくましく、その先端は二つに割れていた。

 鬼おろしでも擦れそうな頬髭は黒々としており、落ち窪んだ眼窩にらんらんと輝く眼球が相貌を凄まじくさせていた。


 彼女は俯くと悲しそうな声で「だから驚かないでって言ったでしょ」と言った。

 頭と同じ太さの首から出た野太いその声はまるで地響きの様にぼくの肚を振るわせた。


 負けてなるものか。

 砕けそうな足腰に力を入れた。

「大丈夫だよ、顔を上げて」

 彼女の手を取り、そのまま顎を引き寄せて口づけをした。

 彼女の大きく見開かれた目がとても印象的だった。いや、今は彼だろうか。


「ほらね、だから大丈夫だって言ったろう」

 ぼくのブラウスははちきれんばかりに膨らんでいた。ジャケットは肩からずり落ち、スラックスは腰パンになった。

 革靴はぶかぶかになり、腕時計は今にも外れて落ちそうになっていた。


「そんな……」

 彼女は……いや、彼は毛深い手で口を覆うと、大きな目から大きな涙をこぼした。

「あぁ、ぼくもここの村の子孫なんだよ」

 ぼくはブラウスのを引っ張って胸の谷間を彼女に見せつけた。

「いやだ、そんなの見せないで」

「おっとごめん、ついつい悪ふざけしてしまったね」

 わたしは彼をそっと抱きしめた。

 逞しい腕越しに、欄干に戻り橋と言う札が掛かっているのが見えた。

 明日になったら外そう、もうわたし達は戻らない。

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