第9話 白い世界の“そと”へ
西暦2447年。
――光の向こうをくぐり抜けた瞬間。
俺は思わず目を細めた。
まぶしいせいじゃない。
白い世界の光よりずっと弱いのに――
色が、あった。
空気そのものが、色を持っているみたいだった。
「……っ……これ……」
ナギも隣で息を呑む。
頭の上には、白でも灰でもない、教室で習った色とも違う。
淡い赤茶色の――“そら”が広がっていた。
白い天井の下では、決して見たことのない色。
空気はひやりとして重くて、白い世界のどこにもなかった“ざらざらした匂い”を運んでくる。
胸の奥に入ってくる感じさえ、ぜんぜん違う。
ナギが小さく息をのむ。
「レイ……ここ、ほんとに……?」
俺は、喉がひゅっとなるのをこらえて、ゆっくりうなずいた。
――そのとき。
「っ……!」
息が、できない。
空気がざらざらしていて、吸いこむたびに喉の奥がひりついた。
胸がきゅっと縮んで、酸っぱくしびれる。
ナギも胸を押さえて、その場にしゃがみこむ。
「はぁ……っ……はぁ……っ……くるしい……」
(……なんで……?)
体が勝手に“足りない、足りない”と叫んでいた。
胸の中がスカスカになるような感じ。
頭の奥がビリビリして、足に力が入らない。
(……ここ……息が……)
視界の端がにじんだ。
それでも、ゆっくりと息を吸って、吐く。
それを何度か繰り返すうちに、少しずつ落ち着いてきた。
呼吸が安定し、ナギの方を見る。
「……ナギ……?」
ナギも胸に手を当てたまま、息を整えていた。
さっきより、苦しそうな表情が薄い。
「なんか……さっきより……息ができる……」
俺は、さらにゆっくりと息を吸い込んでみる。
すると、さっきよりも肺に空気が入ってくる。
(……慣れてきてる……?)
理由はわからない。
ただ――確かに、俺たちの体は“そと”の空気を受け入れはじめていた。
数分かけて呼吸を落ち着かせ、ようやく立ち上がる。
そして――初めて、“そと”をじっくりと見た。
「……うわ……」
ナギが目を丸くして、言葉を失った。
地面は赤茶けてひび割れ、細かい砂が休むことなく舞い上がっている。
白い世界の、あのつるつるとした床とはまったく違う。
踏みしめるたび、ザリッとした音が靴底にまとわりついた。
頬に――“なにか”が触れた。
冷たくもなく、温かくもない。
ただ、皮膚の上を通り過ぎる“存在”。
ひゅう……ひゅう……
白い世界の壁のすき間から聞こえていた音の正体が、ようやく分かった。
(……これが、あの音の正体だったのか……)
ナギが震える声で俺を見上げる。
「これ……ほんとに、世界……?」
「……うん」
ただの一言しか返せなかった。
白い世界では絶対に見えなかった“色”が、目の前に広がっていたから。
どこまで行っても白い壁しかなかった場所では、“先”なんてものは存在しなかった。
でも今はちがう。
はるか向こうまで、赤い地面が揺れるように続いている。
頭の上から、白い世界では感じたことのない
“あたたかい光”が降り注いでいた。
光の向きがひとつだけになっていて、それが俺らの影を長く、はっきり地面に落としている。
光って……こんなふうに落ちてくるものなんだ。
―
歩きたいのに、足が重い。
地面に吸いつかれているみたいに、前に出そうとすると抵抗がある。
空気の薄さが、湿った布みたいに体にまとわりついてきた。
ナギも同じらしく、一歩進むたびに体が揺れて、ふらりとよろけた。
とっさに、俺の腕をつかむ。
「あ……ごめん……」
「いいよ。……ゆっくり行こう」
そう言ってから、本当に“ゆっくり”って、こんなに遅いものだったかと思う。
一歩、足を出す。
地面を確かめる。
体重を乗せる。
それだけで、息がひとつ増える。
二人で肩を並べ、荒れた地面を確かめるように進んだ。
砂が靴の中に入り込み、歩くたびに、ざくざくと乾いた音が鳴る。
小さな石が転がって、足を取られそうになるたび、ナギの指が俺の腕に強く食い込んだ。
少し進んだところで、ナギが、ぽつりとつぶやいた。
「ねえ……この空気、さ……」
「うん?」
間があった。
言葉を探している間みたいな、短い沈黙。
「……ちょっと、あたたかい」
俺は、足を止めた。
たしかに。
冷たいわけでも、焼けるようでもない。
ただ体のまわりに、“包まれている”みたいな温度があった。
何もない世界なのに。
なのに、なぜか――胸の奥に、覚えのない感覚が広がっていく。
怖い。
でもそれと同時に、理由の分からない“安心感”があった。
白い世界では、感じたことのない感覚だ。
「ナギ……たぶん、“そと”の世界が、俺らを……」
言いかけて、口を閉じた。
その先を言葉にしたら、もう戻れなくなる気がした。
白い天井の下に、もう一度同じ気持ちで立てなくなる気がした。
ナギは、俺の腕をつかんだまま、視線を前に向けていた。
「レイ……」
一度、息を吸ってから、言う。
「わたしたち、ここで生きられるんだと思う」
その声は、震えていなかった。
強くもない。
ただ、まっすぐだった。
まるで、ずっと探していた場所を、ようやく見つけた人みたいに。
ひゅう、と音がして、二人の間を“なにか”が通り抜ける。
砂が舞い上がり、長く伸びた影が、地面の上で揺れた。
俺は、もう一度足元を確かめてから、ゆっくりとうなずいた。
「……そうだね」
その一言を口にした瞬間、胸の奥で、何かが静かに決まった気がした。
そのとき――
遠くの“境目”で、なにかが光った。
地面と空気の色が、ぼんやりと溶け合う、その先。
輪郭の定まらない場所で、ちいさな光が一瞬だけ脈を打つ。
見間違いかと思うほど、短い。
でも、確かに――“動いた”。
ナギが目をこすりながら、そっと指をさす。
「レイ……あれ、いま光った……よね?」
「……わからない。でも……」
続く言葉が、喉につかえて出てこなかった。
白い天井の下で見てきた光とは、違う。
警告でも、装飾でも、管理のための色でもない。
(……あれは、“なにかがまだ残ってる”合図だ)
人かもしれない。
壊れかけた機械かもしれない。
あるいは、俺たちが名前を知らない“別の存在”。
ナギは不安そうに見えた。
それでも、その目の奥には、ほんのわずかな――期待の色が混じっていた。
白い世界の“そと”には、なにもない。
ずっと、そう教えられてきた。
けれど、頭上に広がるこの“そら”は、学校で教わった色とはまるで別物だった。
(……なんで、嘘をついたんだ?)
胸の奥がきゅっと縮んで、そのまま、じんわりと熱を帯びた。
マザーは、俺たちを“幸福指数”という言葉で包んでいた。
疑問が生まれる前に、不安が形になる前に、すべてを“最適”に整えて。
――最適化。
その言葉の、本当の意味。
俺は、まだ何も知らない。
たぶん、知り始めたばかりだ。
白い世界には、もう戻れないかもしれない。
父さんや母さんの顔を、二度と見られないかもしれない。
それでも――
(ここには……俺が、ずっと知りたかった答えがある)
考えるより先に、ナギが俺の手をぎゅっと握った。
「レイ……行こう。あっちへ」
迷いは、もうなかった。
足を前へ出す。
その一歩で、赤い砂が乾いた音を立てて舞い上がる。
白い壁の内側では決して感じなかった重さが、足裏に伝わった。
光が、強い。
容赦なく、逃げ場もなく、まっすぐに降りそそぐ。
目を細めても、防ぐことはできない。
それでも――嫌じゃなかった。
痛いほどの眩しさの中で、胸の奥がはっきりと熱を持つ。
はじめて“そと”を歩く俺たちの身体の中で――
白い世界では、決して鳴ることのなかった鼓動が、確かに、力強く響いていた。
早くて、不揃いで、落ち着きがない。
でもそれは、不安じゃない。
(……これが、自由)
そう思った瞬間、呼吸が少しだけ深くなった。
俺たちは、荒れた大地を踏みしめて進む。
赤い砂に足跡を刻みながら、消えるかもしれない証を、それでも残しながら。
まだ見ぬ“誰か”のもとへ。
そして、白い世界が隠し続けてきた“真実”のある方へ。
戻らない。
振り返らない。
この一歩は、逃走じゃない。
選択だ。
俺たちは確かに――
生きるために、前へ進んでいた。




