第8話 影が生まれる場所
西暦2447年。
壁の穴をくぐる前、俺は一度だけ振り返った。
白い世界が、静かに広がっていた。
どこまでも白い道。
白い壁。
天井から降り注ぐ、均一すぎる光。
そこは、生まれてから十年間ずっと見続けてきた“世界”。
だけど――
(もう、戻れないのかもしれない)
その予感は、じわじわと心の中に広がっていった。
父さんや、母さんの顔が浮かぶ。
それでも――この世界に疑問を持ってしまった今、もう前みたいには生きられない。
俺はナギに紙を見せる。
〔……ナギ。
もし、この先に行ったら……もう“戻れない”かもしれないよ?〕
ナギは少しだけ考えて、紙にゆっくり書いた。
〔……しらないふり、もうしたくない。
レイだけじゃなくて、わたしも“ほんとのもの”見たい〕
それだけで十分だった。
ナギが俺の袖を、小さく引っ張る。
俺はうなずき、小さな穴へ身体を押しこんだ。
穴は狭く、体を横にしないと入れない。
金属のような壁の内側が頬に触れ、ひやりと冷たかった。
ごそ……ごそ……
身体をねじらせて、ようやく抜けた瞬間――
空気が変わった。
―
「……っ」
思わず息を止めた。
そこは、白さが一つもなかった。
空気が“重い”。
鼻の奥に、鉄と油がまじりあったような匂いがまとわりつく。
息はできるけれど、胸の奥がじわっと圧されるような違和感があった。
天井は黒ずんだ鉄のパイプでぎっしり埋まり、むき出しのケーブルが何十本も走っている。
ひとつのケーブルが、時々“バチッ”と火花を散らす。
その一瞬の光が、俺とナギの影を壁に大きく揺らした。
(……影?)
白い世界では影なんて気にしたことなかった。
光がいつも“真上”から降っていて、影は足元に薄いシミみたいにしか出ない。
でも今は――
俺らの影が、はっきりと“形”を持って、地面に落ちていた。
まるで、白い世界では隠されていた“ほんもの”が、ここでは出てきてしまうみたいに。
(影って……こんな形なんだ)
ただそれだけのことが、胸を締め付けるほど不思議だった。
床は金属製で、踏むたびに“ぎしっ”とたわむ。
ここが古く、壊れかけているのはすぐにわかった。
ひゅう…… ひゅう……
前より、ずっと強くなった“あの音”がする。
まるで、俺たちをこの先へ誘っているみたいに。
すべてが“いびつ”で、全部が“本物”の音だった。
――そのとき。
――ジ……ッ……ガ……ガガッ。
頭の奥で、何かが弾けたような衝撃が走った。
(……マザー……?)
聞き覚えのある声のはずなのに、まったく違う。
ゆがんでいて、折れていて、どこか遠くから無理やり引っ張られてくるみたいな声。
『……レ……イ……ナ……ギ……探索行動……けい……こ……警告……システ……む……』
途中でノイズが混じり、声が押し潰される。
“壊れかけた何か”が、マザーの声の形だけを真似しているような。
ナギがすぐに耳を押さえた。
「や……やだ……この声、こわい……」
手が震え、肩も小さくふるえている。
俺もぞくっと鳥肌が立った。
いつもは優しかったマザーの声が、いまは、壊れた機械がどこかで泣き叫んでいるように聞こえる。
(……ここ、マザーの声がちゃんと届かないのか?)
マザーの“眼”は、白い世界を全部見ているはずだ。
でも――ここはその裏側。
細くて暗い“想定されていない場所”。
だから、声がふつうに届かない。
真っ白な部屋では完璧だった音が、ここでは途中でちぎれて、ぐしゃぐしゃになってしまう。
『……レ……イ……警……けい……こ……』
またノイズがささる。
(ここ……監視の死角なんだ)
その考えが急に現実味を帯びて、背中に冷たい汗がにじんだ。
『……れ……い……戻……れ……危険領域……』
最後の言葉は、ほとんど溺れたように消えた。
(マザーは……この場所を危険だと思ってる)
それは、俺にとって逆に“確信”を強める材料になった。
マザーが止めようとする場所なら――
そこには“真実”がある。
(もう壁の“そと”にいることはマザーにバレてる。
なら、もう戻るわけにはいかない)
―
少し歩くと、通路が急に開けた。
「……わぁ……」
ナギの声が震える。
そこは、巨大な空洞だった。
白い世界の外殻を支えている骨格が、むき出しのまま天井へ向かってそびえている。
太い支柱が、何本も何本も立ち並び、見上げてもてっぺんが見えないほど高い。
まるで巨大な生き物の腹の中にいるみたいだった。
そのうち何本かは折れ、傾き、むき出しのケーブルが垂れ下がっている。
ぶら下がったケーブルの先が、“ブツン”と火花を散らした。
その光が空洞に反射し、鉄の匂いが鼻についた。
(……ここ、誰も来てないんだ)
掃除も補修もされていない。
マザーが完全には管理できなくなった場所。
白い世界〈マーセレス〉を支える“裏側”。
誰も知らない、もうひとつの世界。
―
奥の方で、金属が床に当たる鈍い音がした。
ナギが、震える声で俺の袖をつまむ。
「レイ……あれ……」
暗がりの向こうに転がっていたのは――
白い円盤のような“機械”。
片側の羽のような部分が折れ、外装はひしゃげ、内部の光る回路がむき出しになっている。
パチ……パチッ……
火花が散り、弱々しく明滅しては、また沈む。
近づくと、側面に印字された文字が見えた。
《保守補修ユニット No.5》
(……修復用の機械)
壁のひびをふさぐための“ユニット”。
でも、それはもう動けないまま捨てられていた。
(修復するはずの機械が……壊れてる?)
じゃあ、だれがこの世界を直してるんだ。
つまり、壁の劣化は直されていない。
ずっと前から“崩れ続けている”。
ナギが、一歩ちかづいた――その瞬間。
――ピ……ジ……ガガッ。
壊れて動かないはずのユニットの“光る部分”が、ぱちりと点滅した。
(……動いた?)
ありえない。
電力も残っていないはずなのに。
その光が――
ゆらり、とナギのほうへ向いた。
「ひ……っ!」
ナギは反射的に俺の背中に隠れた。
次の瞬間、光がわずかに揺れる。
ふっ……
まるで焦点を合わせ直すみたいに、一度だけ明滅してから、消えた。
(……今の、なんだ)
見失った、というより――
“維持できなかった”ように見えた。
ナギが、俺の服を握ったまま、小さく息を吐く。
「わたし……なにも、してないよ……?」
「うん」
そう答えながらも、俺の視線は、光が消えた空間から離れなかった。
(ナギは何もしてない。
問題があるとしたら……あっちだ)
ロボのときも、同じだった。
一瞬だけ、判断が遅れた。
処理が詰まったみたいに、動きが鈍った。
最初は、ただの誤作動だと思っていた。
でも――
こうも続くと、偶然じゃない。
ナギはまだ震えている。
俺はそれを背中で感じながら、この違和感を、言葉にしないまま飲み込んだ。
―
さらに奥へ進むと、通路がみるみる狭くなっていった。
鉄の壁がすぐ横にせまって、空気が重い。
そのとき――
かすかな光が瞬いた。
ふわりと揺れたわけでもない。
まして、どこかから湧いたようにも見えなかった。
ただ、金色の粒みたいなものが、一瞬だけ空中に残った。
ナギが息をのむ。
「いま……光った……?」
俺は、返事ができなかった。
(……見間違いじゃない)
次の瞬間、その粒は細く伸びて――消えた。
空気が動いた感じはない。
音もない。
ただ、光だけが途切れた。
(……導いてる?)
そう思いかけて、すぐに否定する。
違う。あれは、意味のある動きじゃない。
光が消えた先の暗がりで、別の明かりが、ぽう……と点いた。
白じゃない。
天井の光でもない。
もっとやわらかくて、あたたかい光。
(……あれ……)
胸がぎゅっと熱くなった。
知らないはずなのに、懐かしいような光だった。
ナギの手が、少し震えながらも俺の手を強く握っていた。
俺はうなずく。
――もう進むしかない。
“そら”も、“そと”も、おばあちゃんが帰らなかった理由も。
ずっと胸の奥で疼いていたすべての疑問は――
きっと、この光の先にある。
俺たちは歩き出した。
白い世界の裏側を抜け、はじめて見る“ほんとうの光”へ向かって。




