第7話 壁の奥が、金色に光った
西暦2447年。
学校が終わったあと、俺はナギのもとへ向かった。
「一緒に帰ろう」
口ではそう言いながら、ポケットから小さな紙を取り出して見せた。
〔このあと、“かべのひび”を探しに行かない?〕
ナギは目を丸くした。
しばらく紙を見つめ、それから小さくうなずいた。
口にはできなかった。
声を出したら、その瞬間にマザーの“眼”がこっちを見つけてしまう。
―
二人で並んで歩きだすと、白い道の上に、靴音だけが響いた。
まわりには、ほとんど人がいない。
作業体ロボの姿もなかった。
(……今日は、べつの“ひび”を探しに行く)
この広い〈マーセレス〉に、“そとにつながる穴”が一つだけとは思えなかった。
あの日見つけたのは、ただのきっかけ。
本当はもっとあるかもしれない。
もし大きな“割れ目”があったら――
その先に“そと”の景色があるのかもしれない。
俺は紙を取り出し、上から見えないよう胸もとで書いた。
〔“ひび”は、前に見つけたところだけじゃない。
今日は、“向こうにつながるところ”を探しに行こう〕
ナギはそれを見ると、緊張したように息を飲み、それでもまっすぐうなずいた。
彼女は、ただの友達じゃない。
この白い世界では、みんなマザーの言う通りに生きて、朝起きて、味のしないご飯を食べて、また眠る――それが“正しい”毎日。
その中で“かべのそと”に興味を持つことは、この町では“異常”だ。
でもナギは、俺と同じだった。
この世界に、どこかおかしいところがあると感じている。
二年間いっしょに過ごして、はっきりわかった。
それがわかるからこそ――
彼女は、俺にとって唯一の“仲間”だった。
――二人でなら、見つけられる。
俺は、そう思っていた。
―
学校の周囲をまわり、住宅ブロックのはずれへ向かい、さらにその先へ。
ここまで来ると、人の姿はほとんどない。
でも――監視塔の“眼”は、まだ俺らを見ているかもしれない。
だから、建物の影をぬって慎重に進む。
今の俺とナギの幸福指数は100。
“安定した子ども”として扱われているぶん、監視は弱いはず。
それでも油断はできない。
(……大丈夫。今の俺らは“ただの良い子”だ)
白い壁ぎわを歩いていると、ところどころ壁の質感が違うことに気づく。
つるつるとした場所もあれば、ざらりとこすれるような場所もある。
前までは、ただの“白い壁”として見ていた。
でも――“ひび”を知ってしまった目で見ると、世界はまるで違って見えた。
ナギは、壁から少し距離を置いて歩いていた。
天井の灯りが髪に触れるたび、金色がやわらかく揺れる。
その色は、この町ではほとんど見ない色。
(……いつ見ても、綺麗だな)
同じ町で生まれ、同じ空気を吸ってきたはずなのに。
ナギだけは、どこか“ここじゃない場所”の雰囲気を纏っている。
髪色だけじゃない。
顔立ちも、他の誰とも違う特別さがあった。
だから、ふと目が吸い寄せられる。
―
足が疲れてきて、どれくらい歩いたのか分からなくなったころ。
ナギが、ぴたりと立ち止まった。
「……?」
俺が声を出す前に、ナギは壁に指先をそっと置き、軽く叩いた。
コン……
乾いた、でも“響く”音。
(……ちがう。いつもの壁じゃない)
俺も壁に近づき、耳を押し当てる。
……コ……ン……
奥のほうで、なにかが反響している。
空洞の音――。
(……ある。ここにある)
ナギの指が壁をなぞると、白い粉がさらさらと落ちた。
触れるたびに、壁の表面がわずかに崩れていく。
(これは……)
前に見つけた“ひび”とは違う。
もっと深い。
もっと大きい。
子ども一人なら、身体を横にすれば通れそうな――
そんな“隙間”が、そこにあった。
俺は紙に急いで書く。
〔……穴、ある?〕
ナギは目を大きく見開き、静かにうなずいた。
指先を、その細いすき間へそっと近づける。
ほんの刹那――
向こう側から、光がこぼれた。
淡くて、やわらかな明るさ。
白い世界とは、どこか質が違う。
ナギは慌てて手を引いた。
心臓が、どくん……と跳ねる。
「……っ」
声を出しかけて、慌てて口を押さえる。
俺はすぐに紙を差し出した。
〔なにか……わかる?〕
ナギは震える指で、ゆっくりと文字を書いた。
〔……むこうに……光がある。
あったかい……気がする〕
光――。
体の底からぶるり、と震えた。
でも、感動している時間はなかった。
――ドン。
金属の足音。
(やばい……こんなときに……!)
二人とも、反射的に壁へ体を押しつけた。
ナギの手が小刻みに震えている。
俺の心臓は、音が聞こえそうなくらい激しく脈打っていた。
足音が近づくたび、白い床が低く鳴り、足元が揺れる。
……ドン。
……ドン。
……ドン。
そして――角を曲がったその瞬間、ロボが現れた。
銀色のボディ。
反射する冷たい光。
一定すぎて不気味な歩幅。
まるで、俺たちの存在を計算に入れていないみたいな動き。
けれど――
(昨日の……違和感と同じだ)
歩幅に乱れがある。
重心が少し傾いている。
関節の“鳴り”が、ほかのロボと微妙に違う。
“何かが混じってる”音。
ロボはゆっくり近づく。
あと十歩。
八歩。
五歩。
逃げられない。
走れば見つかる。
声を出してもアウト。
ナギの手が、強く俺の手を握る。
それだけで、指先から体温が逃げていく気がした。
息を吸うことすら、許されない。
ロボのセンサーがこちらへ向いた。
冷たい金属の視線に、背中が凍りつく。
(だめだ……見つかった)
そう確信した。
――なのに。
ロボは、一度だけぎこちなく頭を振ると、ちょっと迷ったような動きをした。
そして、何も見ていなかったかのように、ゆっくり通り過ぎていった。
……ドン。
……ドン。
その音が遠ざかるまで、俺もナギも、呼吸を思い出すことができなかった。
やっと肺に空気が戻り、肩が大きく上下する。
震える手で紙に書く。
〔なんで……見つからなかった?〕
ナギは唇を噛み、首を横に振る。
〔わかんない……
怖くて……ただ、動けなかっただけ〕
ナギの字は震えてかすれていた。
俺だって、同じだった。
(……運が良かっただけ、なのか?)
そう言い聞かせようとしても、胸の奥には、針みたいな不安が残る。
もしあのロボが、あと一歩左に向いていたら。
もし俺たちが、さっき息を吸い込んでいたら。
全部が終わっていた。
静けさが戻ったはずなのに、息苦しさは消えなかった。
――さっきのは、偶然じゃない。
そう思った瞬間、胸の奥で何かがはっきりと形を持った。
否定しようとする声は、もう出てこない。
理屈で説明しようとすればするほど、それは「確信」に近づいていく。
そんな言葉が、心のいちばん深いところで――
何度も、何度も、囁き続けていた。
――偶然じゃない。
――見間違いじゃない。
――ここに、何かがある。
そのとき――
“ひび”の奥から、ひゅう……と、音がした。
前よりも、はっきりと。
前よりも、深く。
壁の向こうから、こちらを呼ぶみたいに。
空気が、わずかに震えた。
そして、次の瞬間。
穴の奥が――
金色に、光った。
ほんの一瞬。
まばたきをすれば、消えてしまうほどの短さ。
けれど――
確かに“そこにあった”。
俺は、呼吸を忘れた。
ナギも、同時に息を呑んだ。
言葉は要らなかった。
視線を交わす必要すらなかった。
(……向こうに、なにかがある)
それは直感だった。
疑いようのない、本能みたいな確信。
天井から降る白光とは、まるで違う。
管理された光でも、測定される色でもない。
この町のどこにも存在しない色。
俺は震える指で紙を取り出し、強い筆圧で、言葉を書いた。
〔……行こう〕
迷いはなかった。
逃げでも、衝動でもなかった。
“選択”だった。
ナギはその文字を見つめ、一瞬だけ目を伏せ――
そして、顔を上げた。
その表情は、決まっていた。
迷いを捨てた目。
怖さを抱えたまま、前を向く目。
彼女は、しっかりとうなずいた。
この白い世界では、誰も心を揺らさないはずなのに。
感情は、管理されるもの。
疑問は、芽吹く前に消されるもの。
――なのに。
いま、確かに脈打っているのは、俺たち二人だけだった。
この瞬間から――もう、戻れない。
でも。
それでも。
俺は知っていた。
この一歩が、俺たちの人生を“生きたもの”に変えるということを。
白い世界の向こうで、金色に光ったこの場所が――
すべての始まりになるということを。




