第6話 白い世界の、かすかなズレ
西暦2447年。
あれから、二年がたった。
八歳で初めて“ひび”を見つけたあの日から、俺はずっと白い世界の秘密を考え続けてきた。
壁の“そと”には何があるのか。
“そらいろ”とは何なのか。
“作業体ロボット”は、どこから生まれているのか。
そして――なぜ“マザー”は、俺たちを“監視”しているのか。
十歳になった今、これらの疑問は消えるどころか、ますます膨らんでいる。
そして一つだけ、はっきりとわかったことがある。
――この世界は……どこか“おかしい”。
―
この二年間、俺はずっと――“いい子のふり”をしてきた。
マザーにさからわない。
“そと”や“そら”って言葉は、ぜったいに口に出さない。
声は低く、動きはゆっくり。
授業ではちゃんとうなずいて、家では笑顔を作る。
母さんは、「レイはほんとうに手がかからない子ね」と、やさしく頭をなでてくれた。
俺はにっこり笑った。“いい子のふり”が、ちゃんとできている証拠だ。
腕の端末の数字は、
97、98、99……と、すこしずつ上がっていった。
そして今朝。ついに――
【幸福指数:100】
数字が変わっているのを見た瞬間、
胸の奥で、なにかがひっそりとほどけた。
(……二年もかかったけど、これで監視が弱まる)
そう感じてしまう自分に、自分で少し驚いた。
本当はこの町では、100点は「いちばんいいこと」のはずだ。
でも俺にとっては――
“マザーから注目されないための数字”になってしまっている。
幸福指数が低いとき、俺は何度も“圧”を感じた。
頭の奥をつままれたみたいな、キーンとした痛み。
それに続いて降りてくる、マザーの声。
逆に、100点だったころの記憶をたどると――
マザーの声は、『おはようございます』と『おやすみなさい』くらいしか聞こえなかった。
(数字が高いほど、“ふつうの子”に見える)
そうすれば、マザーは俺を「問題のない子」として扱う。
わざわざ調整したり、見張ったりする必要はない。
だから俺は、二年間ずっと完璧な“普通”を演じた。
―
最近になって――
白い世界の“完璧さ”が少しずつ崩れてきている。
毎朝、天井の光はゆっくり明るくなっていく。
それは前から変わらないはずだった。
でも、今は――
光が、ごくわずかに“揺れている”。
白い光の層の奥に、細い線が走っているような、そんな揺れ。
マザーの声も、どこか前と違う。
『おはようございます、レイ。今日も、いい一日になりますね』
この言葉のあいだに、以前はなかった“ほんのわずかな間”がある。
ひと呼吸ぶんか、それより少し長いくらい。
それは、気づく人間がほとんどいないほどの小さなズレ。
作業体ロボもそうだ。
前は、全員がまったく同じ歩幅で歩いていた。
足音も、姿勢も、首の角度さえも、
まるでひとつの“型”をそのまま写して増やしたみたいに。
けれど今は――
いくつかの個体が、ほんの半歩だけ歩幅がずれている。
腕の振りが、他よりわずかに大きいものもいる。
(……なにかが、ズレてきてる)
それが何を意味するのかは分からない。
でも、見て見ぬふりはできなかった。
―
学校が終わると、ナギと別れて、俺は一人で家とは逆の道を選んだ。
「今日は用事があるから、先に帰ってて」と言うと、
ナギは少し不満そうにしながらも、「また明日ね」と手を振った。
俺は小さく手を振り返し、そのまま人の少ない通りへと足を向けた。
足音が響かないように、
かかとではなく、つま先で静かに床を踏む。
〈中央制御柱〉の上のほう――
白い塔のてっぺんに浮かぶ、まるい光の球。
マザーの“眼”。
その視線から外れるように、建物と建物のあいだ、細い通路を選んで進む。
ときどき通りを横切る作業体ロボの列も、遠くから確認した。
もし近くを通る気配がしたら、すぐに壁ぎわに寄ってやりすごす。
(……見つからないように)
そう思うたびに、腕の端末の数字を見たくなる。
でも、いちいち確認するのは、かえって不自然な気がして我慢した。
―
しばらく歩いて、俺は足を止めた。
二年前にも来た場所だ。
白い壁が、高く天井へ伸びている。
どこまで続いているのか分からない、果てのない白。
俺は喉を鳴らし、そっと壁に近づいた。
指先で、その“くすんだ部分”をなぞる。
ざら……
前に触れたときと同じ感触。
ただ、ひびの線は以前より太くなっていた。
指先が少しだけ沈む。
そこには、うっすらとした“すき間”がある。
耳を澄ます。
――ひゅう……
かすかな音。
壁の向こうから、息をするみたいに漏れてくる。
(二年前と同じ音だ……)
顔を近づける。
白い壁の冷たさが、鼻先に触れた。
その瞬間、頬にまた、“なにか”が当たった。
目に見えないのに、はっきり分かる。
少し冷たくて、すぐにあたたかくなって、ゆっくり通り過ぎていく。
前に感じたときよりも、強い。
そう思った、そのとき。
……ドン。
硬い床を叩く重い音がした。
……ドン。
……ドン。
金属の足音。
(ロボ……!)
俺はあわてて壁から顔をはなした。
音のする方向をちらっと見て、すぐに身をひそめる。
白い通路の向こうから、銀色の作業体ロボが一体、こちらへ向かって歩いてくる。
天井の光を受けて、からだ全体が白く反射している。
顔はない。
関節が、こきり、こきりと一定のリズムで鳴る。
……はずだった。
なのに、そのロボの歩き方には、ほんの少しだけ“違和感”があった。
右足のほうが、わずかに深く踏みこんでいる。
左肩が、ほんの少しだけ沈んでいる。
腕の振りも、ほんの気持ち大きい。
(……おかしい)
息を殺しながら、俺は目だけを動かしてロボを追った。
ロボは、通路の真ん中を淡々と進んでくる。
あと数歩で、俺の隠れている壁のすぐ横を通りすぎる。
緊張で体が強ばって、空気すら重たく感じた。
(……くる)
息を止めた瞬間、時間がゆっくりになったように感じた。
足が床を踏む瞬間の振動。
関節がこすれる微かな音。
金属の重さが床を伝い、壁に伝わってくる揺れ。
ロボの頭部が、ぎっ……と動いた。
黒いセンサーのような部分が、ゆっくり、こちらへ――
(見つかる……!)
心臓が、どくん、と大きく鳴る。
呼吸が止まる。
しかし、ロボの動きも――そこで止まった。
頭部が、途中で固まっている。
こちらを向ききる前で、止まっている。
関節だけが、かすかに震えていた。
一秒。
二秒。
もっと長く感じる時間。
胸の奥で、鼓動だけがやけにはっきり響いた。
ぎっ……
やがてロボは、つっかえた歯車を戻すみたいに、ゆっくり頭を元の方向へ戻した。
まるで、見失った何かをあきらめるみたいに。
そして、なにもなかったように前を向き直り、また一定のリズムで歩き出した。
……ドン。
……ドン。
足音が、だんだん小さくなっていく。
完全に姿が消えた瞬間、俺は壁に手をついた。
膝が笑う。
心臓が、まだうるさいくらい鳴っている。
(……いまの……なんだったんだ)
ロボに見つかりかけたのか。
それとも、ロボの中で何かが“ひっかかった”のか。
どっちにしても――
さっきのは、前に見た“おばあちゃんの仕草”をしたロボと似ていた。
あの時も、ほんの一瞬だけ、“なにか”を思い出したみたいに、動きが変わった。
(やっぱり、ロボって……)
“最適化”の言葉が頭によぎる。
『最適化プログラムへの参加』
転出通知の紙に書かれていた文字。
「最適化のために、しばらく出かけるのよ」と笑った、おばあちゃんの顔。
あのときのおばあちゃんの目は――
今思えば、どこかさみしそうで、その奥に、子どもの俺にはわからない“なにか”をひそめていた。
バラバラだった記憶が、少しずつつながり始めている。
けれど、まだ“答え”には届かない。
ひゅう……
壁のひびから、またあの音がした。
頬をかすめる、見えない“なにか”。
俺はそっと顔を上げる。
白い天井。
その向こうにある、まだ名前も知らない“なにか”。
(……もっと、知らなきゃ)
そう心の奥でつぶやき、
俺は静かにその場を離れた。
明日は――ナギと行く。
そう決めた瞬間、胸の奥の怖さと同じくらい、小さな“楽しみ”がふっと生まれた。
この白い世界で、何の疑いもなく生きていく。
俺には、それがどうしてもできなかった。




