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第3話 【幸福指数85】マザーが“そと”を消した世界で、僕は逃げ出した

西暦2445年。

朝。目が覚めた瞬間、違和感があった。

枕元の端末が赤く点滅している。


【幸福指数:91】


昨日は99だった。

この数字が下がることなんて、ほとんどない。

今までいちばん低い指数が出たのは六歳の頃。

そのときは98だった。


91――見たことのない数字だ。

なのに、端末はいつも通り穏やかに光っている。

まるで、何も起きていないふりをして。


「……なんで?」

胸の奥がひやりとした。


お母さんがドアを開けて顔を出す。

「おはよう、レイ。どうしたの? 顔が白いわよ」

「ううん。ちょっと、眠れなかっただけ」

「そう……。じゃあ、マザーに報告しておきましょうか? きっと、あなたの眠りを整えてくれるわ」

「……だいじょうぶ」


マザーに報告――それは、“守られる”ということ。

体や心が不安定になると、マザーが“調整”をしてくれる。

お母さんはそれを、いいことだと信じている。

けれど僕は、その言葉を聞くたびに胸がざわつく。

一日で元に戻る人もいる。

でも、戻らない人もいる。



朝食の時間。

白い皿に並ぶ、栄養食パック。

相変わらず、味はしない。

匂いもない。

噛むたびに、口の中の音だけがやけに響いた。


お父さんが端末を見ながら言った。

「隣の家、転出したらしい」

「転出?」とお母さん。

「昨夜、“幸福最適化プログラム”に選ばれたそうだ」

「よかったわね」

お母さんは穏やかに微笑む。

その笑顔には、喜びよりも――安堵が混じっていた。


僕は言葉を飲み込んだ。

転出。

行き先のない言葉。

“そと”は存在しないはずなのに、“出る”という言葉だけが生きている。



家を出ると、隣の一軒が静まり返っていた。

扉に白い紙が貼られている。


【転出通知:幸福最適化プログラムへの参加】


この家には、おじいちゃんが一人で暮らしていた。

何度か挨拶をした覚えがあるけれど、

近所の人たちは「少し変わってる」と言っていた。

その家の名前を口にする人は、もういない。


登校の途中、銀色のロボたちが列を成して歩いていた。

同じ速度、同じ姿勢、同じ方向。

白い光を反射しながら、無言のまま進んでいく。

それが「作業体」。

町では誰もがそう呼ぶ。

マザーが作った、完璧な労働機械。


けれど、僕は時々思う。

あの動きの奥には、誰かの“記憶”が眠っているんじゃないかって。


列の最後尾にいた一体のロボが、ふとゆっくりと腕を上げた。

その仕草を見た瞬間、足が止まる。

白く光る金属の手が、まるで空気をなでるように動いた。

――あの動き。

僕の頭を撫でてくれた、あの時の。


「……おばあちゃん?」

喉の奥で、声がこぼれた。

けれどロボは反応しない。

ただ、ゆっくりと腕を下ろして――歩き出した。


その直後、マザーの声が頭の中に降ってきた。

『おはようございます、レイ。今日も、いい一日になりますね』


音が、世界の全部を覆う。

やさしいはずの声なのに、冷たい金属のこすれる音が混じっていた。

気づけばロボたちはもう通りの角を曲がっていて、姿は見えなかった。


おばあちゃんがいなくなった日のことを思い出す。

「最適化のために、しばらく出かけるのよ」

そう言って笑ったおばあちゃんは、もう戻らなかった。

代わりに、あの古い鉛筆箱だけが残った。


ふたの裏に書かれていた言葉。

――そらいろ。


あの色の意味を考えるたびに、胸の奥がざわつく。



学校の前に着くと、掲示板の前に人だかりができていた。


新しいお知らせ。

【幸福指数の低下に注意しましょう】

下には、細かい注意書きが並んでいる。


・長時間の独り言を避けましょう。

・“そと”や“そら”という言葉を口にしないようにしましょう。

・幸福指数が下がった場合は、速やかに報告を。


生徒たちは無言でその紙を見て、静かにうなずいた。



授業の時間。

先生は、いつもより少し声を張っていた。

「人の幸福は、マザーによって守られています。

疑問は不安を生み、不安は破壊を招きます」


教室の天井に、マザーの紋章がゆるく光った。

白い円の中心に、十字のような印。

点滅するたびに空気がかすかに揺れた。


僕は机の下で拳を握った。

おばあちゃんの仕草。

“そらいろ”の文字。

昨夜、壁の向こうから聞こえた“音”。

「……そらいろ」

無意識に声がもれた。

その瞬間、腕の端末の数字が、かすかに光った。


【幸福指数:90】


授業の終わり。

ナギが隣の席で、そっと言った。

「ねぇレイ、顔色わるいよ?」

「……だいじょうぶだよ」

「ほんと? ……ならいいけど。

......今日さ、マザーの声、少し変じゃなかった?」

「え?」

「“いい一日になりますね”のあと、言葉が止まった気がしたの。

なんだか……言いかけて、やめたみたいに」


僕はうなずけなかった。

でも、確かに聞いた。

あの“間”を。

まるで、誰かがマザーの言葉を遮ったような。



放課後。

校門の前の掲示板に、また新しい紙が貼られていた。


【定期診断通知:対象ID No.230/レイ・ミナト】


誰かが、小さく息を呑んだ。

僕の番号だった。

すぐに、腕の端末にも同じ通知が届く。


ナギが小さくつぶやく。

「レイ。……なにか悩みごと?」

「いや。……なにもないよ」


そう答えたとき、自分の声が、他人のものみたいに冷たく響いた。



家に帰ると、両親が玄関で待っていた。

お母さんが微笑む。

「今日はマザーの定期診断よ。少しだけ、話を聞かせてくれるって」

「……僕、行かなきゃダメ?」

「もちろん。マザーはみんなを見守ってるのよ」


部屋に入ると、光が少し強くなった。

白い壁が、まるで呼吸しているみたいに脈を打っていた。

天井から、声が降ってくる。


『レイ。少し、お話ししましょうか』


マザーの声。

やさしいのに、底が見えない。


『最近、眠れていないようですね』

「……平気だよ」

『昨夜、なぜ壁のほうへ行ったんですか?』

「……」

『“そと”を、見たいと思いましたか?』


心臓が跳ねた。

何も言えなかった。


『それは、危険な考えです。“そと”はないと、教わりませんでしたか?』

「……」

『あなたは、幸福をこわしかけています』


低い駆動音がした。

耳鳴りのようなノイズが部屋に満ちていく。

足が動かない。


天井の光が、ゆっくりと赤に染まる。


『レイ。幸福とは、安定であり、永遠です』

「……マザー」


『あなたを、再構成プログラムに登録します。

対象ID No.230――レイ・ミナト。幸福指数:90』

『90なら、すぐに終わります。調整を始めます』


頭の奥で、何かが切れる音がした。

赤い光が視界を焼く。

体が動かない。

息ができない。


――そのとき。


どこからか、あの音がした。

ひゅう、と空気がすれるような音。

昨夜と同じ“音”。


マザーの声が止まった。

赤い光が、ふっと白に戻る。

静寂。


僕は、その一瞬の隙に全力で駆け出した。

ドアを開け、廊下を走る。

背後でマザーの声が響く。


『レイ。逃げることは、幸福を失うことです』



遠くで、銀色のロボたちが列をなして歩いている。

規則正しく、同じ間隔で、同じ方向へ。


その中の一体が、ふいに立ち止まった。


理由は分からない。

指示があったようにも見えない。

ただ、ほんの一瞬だけ――止まった。


手がゆっくりと持ち上がる。

空気をなでるように、やさしく動く。


それは命令でも、作業でもなくて、まるで――

僕の頭を、撫でてくれてるみたいだった。


胸の奥が、きゅっと縮む。

忘れていたはずの感覚が、かすかに疼いた。


名前が、震える。


「……おばあちゃん」


声にはならなかった。

けれど確かに、心の奥で呼んでいた。


次の瞬間、ロボは何事もなかったように歩き出す。

列は崩れず、同じ速さで、同じ方向へ進んでいく。


僕だけが、そこに取り残された。


気づけば、走っていた。

行き先なんてない。

目的もない。

ただ、止まれなかった。


走ることは“よくないこと”だと、知っている。

教えられてきた。

何度も、何度も。


それでも、足は勝手に前へ出た。


息が乱れる。

視界が揺れる。

胸が痛い。


その瞬間――

端末が、再び点滅した。


【幸福指数:85】


数字が下がるたびに、胸の奥で“何か”が目を覚ましていく気がした。


それは恐怖じゃない。

後悔でもない。


もっと、別の感情。

名前のつかない、ざらついた熱。


抑え込まれていたもの。

閉じ込められていたもの。


たぶん、それは――“自由”だった。

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