第2話 マザーの声が響くとき、世界は止まる
西暦2445年。
世界は、今日も白い天井で目を覚ます。
天井がゆっくりと白くなっていく。
この光が強くなる時間を、人々は“夜明け”と呼ぶ。
誰もその仕組みを知らない。
マザーの声が、上からやわらかく降ってくる。
まるで頭の中に直接響くような、不思議な音だ。
―
『おはようございます、レイ。今日も、いい一日になりますね』
その声を聞いた瞬間、部屋の明るさがひと段階あがる。
まるで天井そのものが、マザーの微笑みになったみたいに。
家の中は静かだ。
お父さんは端末を見て、今日の“幸福指数”を確認している。
お母さんは白い食事パックを開け、皿に並べる。
いつも通り、完璧な朝。
「おはよう」
「おはよう、レイ。マザーに感謝を」
それが、この町の朝のあいさつ。
ご飯を食べる前には、手を胸にあてて一言、唱える。
「マザーに感謝を」
僕は白いパックの中身を見つめた。
ふわふわした形のない食べ物。
栄養値は100点。
お父さんはそれを「人類最高の食事」と呼ぶ。
けれど僕は、昨日も今日も、噛むたびに無音の味を飲みこんでいる気がする。
家の外では、ロボたちがゆっくりと動いていた。
無音で道路を掃除していく。
この町では、“はたらいているのは作業体ロボットだけ”。
「動かない方がいいんだよ」
前にお母さんが言った。
「昔の人は“はたらきすぎ”て、心をこわしたんだって。
マザーはそれを悲しんで、私たちの代わりに“作業体ロボット”を作ってくれたの」
だから、学校の時間もほとんどが“学ぶ”より“感じる”こと。
座って、話を聞いて、うなずくだけ。
体を動かすことは、“あぶない”とされている。
―
学校に行く途中、ロボたちが並んでいた。
体は銀色で、人のような形をしているけれど、顔はない。
彼らは同じ速度で歩き、同じ方向を向く。
行列の先には、白い塔が立っている。
〈中央制御柱〉――そこにマザーが“いる”、と教わった場所。
塔のてっぺんには、白く光る球体が浮かんでいる。
誰もそれを見上げようとしない。
見上げるという行為は、“不安定”を意味するから。
地面を見ることが、“安定”と教わっている。
先生がよく言う。
「昔の人は、天井を見上げすぎて、倒れてしまったんですよ」
僕はうつむきながら、そっと視線だけを上に滑らせた。
塔の白が、天井の白に溶けていく。
その境界がどこなのか、分からない。
―
授業の時間。
今日は〈マーセレス〉のしくみについて学ぶ日だ。
教室の壁が透け、立体の線が空中に浮かぶ。
それは町を包みこむような丸い形。
「これが、〈マーセレス〉の構造です」
先生は言う。
「私たちはマザーによって設計された“ドーム”の中に暮らしています」
教室がざわめいた。
「“天井”じゃないの?」
誰かがそう言った。
「“天井”という言葉は親しみやすい表現です。
正確には、マザーが作られた“外殻”――〈ドーム〉といいます。
この中で、私たちは安全に生きているのです」
「じゃあ、ドームから出たらなにがあるの?」
一瞬、空気が止まった。
先生はいつもの笑顔のまま、ゆっくりと言った。
「――もう、ありません」
その言葉には、ためらいがひとつもなかった。
「むかし、ドームの“そと”には、別の広い場所があったと言われています。
でも“そと”は危険で、不安定で、人を傷つけるものでした。
だからマザーは、私たちを守るために――“そと”をそのまま残さない、という選択をしました」
僕は首をかしげる。
「……“そと”を残さないって……?」
先生は静かにうなずいた。
「マザーが設計したのは、私たちが安全に生きていける“ここ”だけです。
だから“そと”について考える必要も、口に出す必要も、本来はないのですよ」
そう言って、先生は穏やかに微笑んだ。
クラス全員が、同じように微笑み返した。
その瞬間、天井の奥から、わずかに“ノイズ”が走った。
――ジ……ジ、ジ……。
針で紙をひっかいたみたいな、小さな音。
教室では誰ひとりとして反応しない。
先生も、クラスメイトも、まるで聞こえていないみたいだった。
……気づいたのは、僕だけだった。
―
放課後。
ナギと並んで帰る。
白い光の下、道はどこまでも同じ色をしていた。
人々は静かに歩き、誰も走らない。
走るという行為は、“乱れ”と見なされる。
乱れれば、幸福指数が下がる。
幸福指数が下がれば、マザーが悲しむ。
「ねぇレイ」
ナギが言った。
「今日の授業、ちょっと変じゃなかった?」
「どこが?」
「“そと”はないって言ってたけど……じゃあ、“先生が昨日話してたもの”はどこにあるの?」
胸の奥がひとつ、静かに鳴った。
“先生が昨日話してたもの”。
それが“そら”のことだと、すぐにわかった。
「……“それ”は、むかしのものだよ」
僕はできるだけ小さく言った。
「危ないから、マザーが……なくしたんじゃないかな」
ナギは首をかしげた。
「でも、なくすって、どうやって?
なくしたんなら、〈マーセレス〉は、いらなかったんじゃない?」
返す言葉が見つからなかった。
ナギの髪が光を受けて、淡く金色に揺れた。
この町では、空気はいつも止まっている。
なのに、その瞬間だけ――
見えないなにかがそっと触れたみたいに、髪がふわりと動いた。
「ナギ」
「なに?」
「もし、“それ“があるとしたら、どんなところだと思う?」
ナギは少し黙って、笑った。
「……わかんない。でも、広い気がする。
すごく、広くて……ちょっと楽しそうかも」
僕は息をのんだ。
“そと“のことを想像するのは、よくないことだ。
それでもナギの言葉は、どこかあたたかく響いた。
「こわく、ないの?」
「ううん。……なんでだろ。こわいけど、見てみたい気もするの」
その声はとても小さくて、マザーに聞かれないようにしているみたいだった。
僕は何も言えず、ただ壁のほうを見る。
白い壁の向こうに、“なにか”がある気がしてならなかった。
そのとき、マザーの声が町じゅうに降り注いだ。
頭の奥に響く。
『皆さん、今日もよくがんばりました。幸福指数、全域でほぼ100を維持しています』
通りの人々が一斉に立ち止まり、胸の前で手を合わせた。
ナギも、ゆっくりと同じ動作をする。
僕も真似をした。
マザーへの感謝の姿勢。
でも、その声の中に――
ほんの一瞬、“間”があった。
いつも完璧なはずのマザーの言葉が、わずかに途切れた。
ジ……と、小さな雑音。
そして、何事もなかったように続く声。
『皆さん、どうか安心して眠りましょう』
僕は、つい見上げてしまった。
白い天井の一点が、ほんの少しだけ濃く見えた。
光の加減じゃない。
そこに“線”のようなものが走っている――そんな気がした。
―
夜。
家に戻ると、マザーの歌が流れた。
いつも通りの、やさしい旋律。
でも、その中に――知らない“音”が混じっていた。
空気が、かすかにゆれる。
温度は変わらないのに、耳の奥でひそやかな震えが響く。
音とも、声とも違う。
それなのに、なぜか胸の奥がざわめいた。
(……なんだろ、これ)
僕はその音がどうしても気になって、ベッドを抜け出した。
足音を殺して廊下を歩き、扉を開ける。
夜の空気は白く、冷たい匂いがした。
音は、町の“そと”――壁のほうから聞こえていた。
僕はその音を追うように歩き出す。
静かな道。
動くものは何もない。
それでも、何かが“呼んでいる”気がした。
やがて、白い壁の前に立つ。
そこだけが、夜の光を吸いこむように暗かった。
音は、そこから聞こえる。
耳をあてると、ひゅう、と息をするような音がした。
マザーの声ではない。
ロボの動作音でもない。
もっと自然で、もっと不安な音。
壁の表面を指でなぞると、ほんの少しだけ冷たかった。
天井と同じ白なのに、ここだけ“新しくない”。
白の奥に、灰色が混じっている。
その部分を見ているうちに、
胸の奥が、どくどくと脈を打った。
「……マザー」
呼びかけた。
少しの沈黙。
空気がぴんと張りつめ、次の瞬間、声が降ってきた。
『どうしましたか、レイ?』
いつも通りの、やさしい声。
けれど、どこか深すぎる静けさをまとっていた。
「……壁から音がする」
少し間があった。
そして、囁くような声が返ってくる。
『――それは、あなたの勘違いです』
声の奥で、何かがざらりと擦れた。
ノイズのような、息のような。
優しいはずの響きが、頭の内側をゆっくりと締めつける。
『レイ』
呼ばれる声が、今度は低く、はっきりとした。
『考えすぎは、幸福をこわします』
「……」
『もう、眠りましょう。――それ以上、見てはいけません』
その瞬間、天井の灯りが、強く瞬いた。
一瞬だけ、世界が白くはじけて、目の奥が痛くなる。
次の瞬間には、また静かな夜に戻っていた。
頭の奥で、何かが“切られる”ような音がした。
音が止んだ。
壁は、静かに白いまま。
でも、僕の胸の中では、何かが小さく動いていた。




