表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
17/18

第17話 希望と呼ぶには、早すぎた

西暦2388年。

保守モードが起動して――一年が経った。

俺たちの生活は、緩やかに形を成していった。


水は煮沸すれば飲める。

緑は少しずつ増えていく。

食糧庫で見つけた固い食べ物も、まだ数年はもつ。


そして何より――

アオイがいる。

それだけで、十分だった。


……そう、思っていた。


だが、赤い“そと”の環境は想像以上に容赦なかった。


(俺が……“そと”へ出る)


太陽光パネルの清掃も、砂の除去も、外壁の点検も。

すべて俺がやった。

“そと”の空気は、アオイの体に悪い。

だから――俺がやるしかなかった。


最初は大丈夫だと思っていた。

だが、数ヶ月が経つころ――

足の感覚が鈍い。

指先はしびれ、息もすぐ切れる。


説明書には、こう書いてあった。


ーー長期的な“外活動”は、身体を蝕む可能性。


そのページは、アオイの目に触れない場所へ押し込んだ。

見せれば、きっと“そと”に出さなくなるから。


(……俺は、大丈夫だ)


そう言い続けた。

アオイを守るためなら、足が壊れようと――

そう思っていた。


けれど、本当に壊れていくと……

自分でも、認めざるを得なかった。


(……怖い)



ある日の夜。

船内の灯りは落としてあり、薄い非常灯だけが赤く滲んでいた。

静かな空気が、かえって不安を膨らませる。


アオイが、布団の端をぎゅっと握りしめて言った。

「タクト……私……赤ちゃん、できたみたい」


呼吸が止まった。

音が全部、遠ざかった。


「……ほんとに……?」


「うん……たぶん……そうだと思う」


アオイがそっと、自分の腹に手を当てる。

その仕草があまりにも大切そうで、胸がきゅうっと痛くなった。


「ねぇ……タクト……」


アオイは笑おうとして、うまく笑えなかった。

目の奥が、涙で揺れていた。

「……嬉しい。ほんとうに嬉しいの。

でも、この赤い“そら”の下で……

この子は、ちゃんと笑えるのかな」


その言葉が、胸に刺さった。


(……守る。絶対に守る。どんな場所でも……)


そう言いかけた。

でも、喉の奥で言葉がひっかかった。


――足の感覚がない。

――体の芯まで、じんじん痛い。


(……俺は、どこまで生きられるんだ?)


アオイと子どもを守るって言えるほど、俺の体は、もうまともじゃない。

不安は、押しつぶせないほど大きく膨らんでいく。


アオイは震える声で続けた。

「タクト……もし……もしこの子が生まれたら……

名前……つけたいな」


「……ああ」

言いながら、胸の奥が締めつけられる。


「この世界でも、幸せになれるって……信じたい」


その小さな願いが、痛いほど真っ直ぐだった。

アオイは涙を隠すように、俺の胸へ顔を埋める。

「怖いよ……タクト……

でも……ひとりじゃないから……

大丈夫だよね……?」


動かない足の代わりに、

俺は震える彼女の背中をしっかり抱き寄せた。

「……大丈夫だ。

俺が……守るから」

そして、必死に未来を掴もうとするように言葉をつなぐ。

「この子……“希望”の名前にしないか」


「……希望……?」

アオイが顔を上げる。

涙が光の中で揺れた。


「ああ。何もない世界でも……

ゼロからでも、幸せを掴めるように。

そんな名前……」


少しの沈黙。


やがてアオイは、ゆっくりと笑った。

「……うん。いいね、それ」


強がっていた声は、どこか弱く、でも確かに未来へ向かっていた。

船内の薄い灯りが、二人分の影を長く引き伸ばす。


その影は――

まだ見ぬ明日へ必死に手を伸ばしているみたいだった。



それから数ヶ月――

“あれ”は、音もなく忍び寄ってきた。


モニターに映る〈マーセレス〉。

その周囲に、黒い点がぽつぽつと灯り始めた。


最初は小さかった。

ただのノイズだと思った。

でも、それは増える。止まらない。

無数の黒が群れを成して、まっすぐこちらへ向かってくる。


「……タクト、これって……」


アオイの声は震えていた。

俺は息を吸えないまま、画面を睨んだ。


――マザーだ。


俺たちを“生きたまま取り戻すために”。


“そと”から、音が近づいてくる。


――ブウゥゥゥゥン

――ガシャン……ガンッ……


ドローンの羽音。作業体ロボの足音。


逃げなきゃいけない。

でも――


「タクト!立って!!」

「っ……無理だ……!」


俺の足は、とうとう俺を裏切った。


立てない。

歩けない。

アオイにしがみつかなければ、前へ進むこともできない。


(……邪魔だ……俺が)


アオイの支える手が震えていた。

俺の重さが彼女を押しつぶしている。


その瞬間――

アオイの指が、自分の首元へ伸びた。


“そらいろ”。


あの日交わした約束の証。

この世界で一番、大切なもの。


アオイはそっとそれを外すと、小さな箱へ戻した。

そして服の裏ポケットへ、深く、深く隠した。


「アオイ……何してるんだよ……」


声が震えた。

答えなんて、聞きたくなかった。


「タクト」


アオイは振り返る。

涙を溜めた瞳で、笑った。


「あなたまで消されたら……

全部がなくなっちゃうの」


震える指が、自分のお腹に触れる。


「この子が生きた証も。

ここまで一緒に歩いてきた日々も。

全部……“なかったこと”になる……」


心臓が引き裂かれる音がした。


「だから、私だけでいい」


アオイは、泣き笑いのまま続けた。


「全部忘れたっていい。

絶対に思い出すから。

あなたのことも……この子のことも……

“本当に大切だったもの全部”……

取り戻してみせるから」


俺は叫びたかった。

でも喉が閉じて、声が出ない。


アオイは俺の手を強く握った。

あたたかかった。

その温度の分だけ、絶望が深く突き刺さる。


「タクト。あなたは生きて。

あなたが生きてないと、思い出せないから」


そして――

アオイは立ち上がった。


「アオイ!!戻ってこい!!

行くな……行くなよ!!」


俺は床に爪を食い込ませた。

足が、動かない。

体が、言うことをきいてくれない。


ただ、大切な人を失いたくないだけなのに――

世界は、残酷すぎる。


アオイが俺を見て、微かに笑った。

その手が、そっと俺の腕から離れる。

手を離した瞬間、アオイは駆けた。

止まらない。もう止められない。


金属の足音が迫る中、彼女は勇敢すぎるほど真っすぐ突き進む。


そして叫んだ。


「私のお腹には……子どもがいる!!

抵抗なんてしない!!

だから――この子だけは!!」


ロボが電子音を響かせた。


『胎児反応確認。母体優先保護。回収処理を開始』

『個体名タクト:汚染値上限超過。回収対象外。

現位置にて放棄する』


アオイの周囲に、金属の影が集まる。

伸ばされた腕。

無表情なセンサー。


「やめろぉぉぉぉっ!!」


叫んだ瞬間、涙も声も床に落ちた。


必死に這う。

腕が切れても、膝が砕けても。

それでも――届かない。


アオイは振り返った。

最後の笑顔を浮かべて。


「タクト――愛してる

いつか必ず……“そら”の下で会おう……」


触れられる距離だったはずなのに。

もう届かない。


金属の腕がアオイを掴む。


「アオイぃぃぃぃぃ!!!!」


俺は壊れた体で何度も叫んだ。

声が枯れて、血が出ても。

手を伸ばして、地面を掻きむしり、這いつづけた。


ロボットが背を向ける。

光のほうへ運ばれていく。


叫びすぎて声が枯れた。

涙も声も、出ていってしまった。


ただ――

胸の中の全部が裂けていく。



アオイが金属に連れ去られたあと、俺は地面に爪を立てて、這いずり始めた。


爪が剥がれるまで砂を掻きむしり、血をにじませながら這いずる。


(アオイ。必ず……連れ戻す……)


足が動かなくても、腕が折れても。

痛みは、感じなくなっていた。


白い世界の壁が見えた。

俺たちが“そと”へ出た場所。


だけど――


“穴”はなかった。


跡すらなかった。

継ぎ目もない、完璧な白。

まるで最初から、“穴”なんてなかったかのように。


「……返せ」


声にならない声で呟き、そして、拳を振り上げた。


――ゴシャッ。


骨が折れた音が、自分の体から聞こえた。

血が白に溶け、すぐ乾く。


拳を変えて、また叩く。

皮が裂け、指が曲がり、腕がぶらりと下がる。


それでも――叩いた。


「返せぇぇぇえええッ!!」


喉が裂ける。

声は、自分に跳ね返るだけ。


白い壁は、微動だにしない。

俺がいない世界を守るように。


膝が崩れ、顔から倒れこむ。

額が壁に当たり、乾いた音。


「……アオイ」


かすれた一言が、自分でも聞こえなかった。


空っぽの世界に、俺の声だけが残る。


返ってこない。

もう絶対に。


アオイはいない。


俺の世界は、たった今――終わった。



そして――年月が過ぎた。


十年経っても、壁は、ただそこにあった。


十一年目の朝、這い寄ろうとして腕が折れた。

それでも、俺は床の砂を掻いて前に進んだ。


二十年。

壁の前まで辿りついたが、叩く力はもう、ほとんどなかった。


「……アオイ」


呼ぶたびに、声は少しずつ消耗していった。


三十年。

自分の指の形を忘れた。

爪も、ほとんど残っていない。


四十年。

壁に刻んだ「A」の字が、赤い砂に埋もれた。

俺は掘り返した。

何度埋まっても、何度でも。


五十年。

立つことのできない体は、もはや地面に貼り付いた影のようだった。


呼吸をするのも痛い。

息を吸うたび、肋骨が擦れて軋む。


――それでも、生きることをやめなかった。


六十年。


もう、“そら”を見上げる首の力もない。

白い壁だけが俺の世界だった。


日が昇っても、沈んでも、それに気づける感覚すら薄れていった。


ただ、心臓がまだ動いていることだけが、俺をこの地獄に縛り付けていた。


「……アオイ」


その名前を呼ぶと、乾き切った胸の奥に、かすかな熱が残っているのが分かる。

六十年前と同じ場所で――

その炎だけはまだ、消えていなかった。


いつかアオイが、“そらいろ”を持ってここへ来る。


そのときを待って――

俺は今日も、壁を見つめていた。



そして――

その時が来た。


――ザッ…

――ザリ…ザリ…


砂を踏む、確かな足音。

耳がそれを捉えた瞬間、心臓が痛いほど跳ねた。


何十年もの間、聞いたことのない「生き物の音」。

喉は枯れているのに、声が勝手に震え出した。


「……誰だ!!」


錆びついた扉に体を預け、軋む音とともに、わずかな隙間を作る。


光が滲む。

その中に、影が二つ。


やせた黒髪の少年。

白い肌、まだ幼い顔。

その隣には、同じくらいの年頃の少女。


二人とも、息を呑んだように、こちらを見つめていた。


俺は声にならない声で、息を漏らす。


「……アオ……」


言葉が喉でちぎれた。

似ている。

でも違う。

それでも、似ている。


重く、長く閉ざされていた心臓が――

ゆっくりと、大きな音を立てはじめた。


六十年止まり続けた世界が、ひび割れながら動き出す。


まだ――終わっていない。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ