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第16話 指輪の代わりに、“そらいろ”を

西暦2387年。

保守モードのおかげで、少しずつ環境はマシになっていった。


壁の一角から、細いパイプが伸びている。

そこをひねると、濁った水がちょろちょろと出てきた。

そのまま飲むと腹を壊す恐れ、と説明書に書いてあったので、俺たちは古い鍋にその水をためて、火を起こして煮沸した。


「……なんか、鉄臭い」

「でも、のどはちゃんと潤う」


それだけで、十分だった。


栄養生産モジュールと書かれた区画には、小さな箱が並んでいる。

茶色くて柔らかい素材の上に、小さな丸いものを植えた。

光の色を変えたり、水の量を調整したりしながら、説明書をなぞる。


やがて、ほんの小さな緑が顔を出した。


「……出た……」

アオイが、今にも泣きそうな顔で笑った。

「タクト、見て……“緑”だよ……」


白い世界には、木や草はなかった。

絵本の中でしか見たことがない“色”。


「……きれいだな」

それしか言えなかった。


“そと”には相変わらず、赤い空気が渦巻いている。

船の“そと”に出るのは、最低限にした。

短時間だけ、置いてあった古い防護服のようなものを着て、砂を払ったり、太陽光パネルの汚れを拭いたりする。

“そと”にいると、頭がじんじんして、肺の奥が焼けるみたいに痛くなる。


特に俺は、アオイよりも早く気分が悪くなった。


「……タクト、顔真っ青」

「大丈夫。ちょっと息が苦しいだけだ」


そう言いながらも、足に変な重さを感じ始めていた。

説明書の端に『放射線』という言葉が書かれていた。

あまり理解できないけれど、“長く浴びると体を壊す”らしい。


(……俺、こういうところは弱いのかもな)


軽く笑ってごまかした。

まだ、そのときは――本気でそう思っていた。



そんな生活が続くうちに、時間の感覚がだんだんあいまいになっていった。

天井の灯りは、白い世界のように時間ごとに変わったりはしない。

自分たちで時計を見て、「朝」「夜」を決めるしかなかった。


ある日の“夜”。

俺たちは、再びモニターの前に座っていた。


画面には、〈マーセレス〉の図が出ている。

円形のドーム。

その中で、小さな点が動いている図。


「……あそこに、まだ人がいるんだよね」

アオイがぽつりと言った。

「みんな、自分が“檻”の中にいるって知らないまま、幸福指数を気にして……」


「……そうだな」


「戻れって言われても、戻らないよ」

アオイははっきり言った。

「だって戻ったら……タクトのことも、“そと”のことも……

きっと全部、消されちゃう」


胸がぎゅっと縮まる。


アオイは少し黙ってから、俺のほうを見た。

「タクト」


「ん?」


「……結婚しようか」


「ぶっ……」


変な声が出た。


「い、いきなりだな……」

「だって、わたしたち、もうドームには戻らないんでしょ?

ここで、一緒に生きて、一緒に死ぬんだよね」


アオイは、まっすぐな目で言った。

「だったら……“夫婦”でよくない?」


あまりにも真っ直ぐな提案に、返事が遅れた。

胸の奥が、ぐらぐら揺れる。


「……そういうのはさ」

思わず、頭をかいた。

「本当は、俺から言うやつだろ……」


「言わないから、言ったの」

「悪かったな」


自分でも笑ってしまう。

でも、答えは最初から決まっていた。


「……アオイ」


「うん」


「……結婚してくれ。

俺と、一緒に……この変な世界で、生きてほしい」


言葉にした瞬間、顔から火が出そうだった。

アオイはしばらく黙って――それから、ゆっくり笑った。


「……うん。よろしくお願いします、タクト」


それだけの会話なのに、胸の奥まで熱くなった。


しばらくして、ふと思った。


「……でもさ」

「なに?」

「こういうときって、何か渡したりするんだよな。

本で読んだことあるんだ。丸い輪っかみたいな……」


「指輪?」

「そう、それ。……でも、ここにはそんなもの、どこにもない」


見渡しても、錆びた工具と金属片と古い箱ばかりだ。

記念になるようなものなんて、何もない。


「……別に、いいよ」

アオイは笑った。

「ここで一緒に生きること。それが一番大事だもん」


「いや、でもさ」

どうしても引っかかっていた。

「何も渡さないのは、なんか嫌だ。

俺はさ……アオイが“目に見える何か”を身につけてくれてたら……

きっと、それを見るたびに“守らなきゃな”って思える気がする」


自分で言って、ちょっと恥ずかしくなった。


アオイは一瞬ぽかんとしたあと、ふっと目を細めた。


「……タクト」


「なんだよ」


「じゃあ――“そらいろの鉛筆”がいい」


「え?」


「わたし、あれ見たときから、ずっと欲しいって思ってたんだ。

でも、最初に見つけたのはタクトでしょ。

だから、ちゃんと“もらいたい”」


「……あれは、一緒に見つけたようなもんだろ」


「ううん。あれは、タクトのもの。

だから――“タクトからもらった”って形がいい」


アオイは真剣な顔をして言った。


「わたし、あれを首から下げたい。

いつでも、どこにいても、“ここから始まったんだ”って思えるように」


少しのあいだ、言葉が出なかった。


古びた箱の中。

薄い青の鉛筆。


(……確かに、白い世界にはない珍しいものだけど……

それが本当に嬉しいのか?)


迷いが胸の中で少しだけざわつく。

だけど――アオイが欲しいと思ってくれたなら、それが一番だ。


「……わかった」


俺は、小さな箱をもう一度開いた。

“そらいろ”の文字が、薄い灯りの中に浮かぶ。


「じゃあ……改めて」


アオイの前に立ち、深呼吸した。


「アオイ・シラセ」


「はい」


「これを……受け取ってくれ」


そらいろの鉛筆を両手で持ち、差し出す。

アオイは、ゆっくりと両手を重ねて受け取った。


その指が、少し震えていた。


「……ありがとう、タクト」


アオイは、まるで宝物みたいに鉛筆を胸に抱いた。

それから、工具箱のところへ行き、何かを探し始める。


「なにしてるんだ?」

「首から下げたいから……」

アオイは、細い金属の輪と、丈夫そうな紐を見つけ出した。

「鉛筆、全部は長いし、尖ってるから……ちょっとだけ分けてもいい?」


「……折るのか?」


「少しだけ。

中身が出ないように、金属の筒に入れて、ここに穴を開けて……」


説明しながら、アオイは信じられないくらい丁寧な手つきで作業を進めていった。

鉛筆の端を短く切り取り、細い金属のカバーで包む。

カバーの端に、小さな穴を開けて紐を通す。


やがて――薄い青を宿した小さな飾りが、紐の先で静かに光った。


「……どう?」


金属製の筒が、灯りを受けて控えめに光る。

さっきよりずっと小さくなった“そらいろ”。


俺は、うまく言葉にできないまま、ただ見つめてしまった。


「タクト、つけて」

アオイが紐を差し出す。

「……首の後ろ、結んで?」


「あ、ああ」


アオイの首の後ろに手を回す。

指先が少し触れて、変に緊張した。

紐を結び終えると、アオイは“そらいろ”をそっと握る。


胸のあたりで、“そらいろ”が小さく揺れた。


「……これでいい」

アオイは、小さく笑った。

「この“そらいろ”が何の色なのか、まだわからなくても……

この色を見るたびに思い出せる。

白い世界じゃない場所で、

タクトと一緒に“ここから始めたんだ”って」


その言葉を聞いた瞬間、何かが喉につかえた。

泣きそうになっている自分に気づいて、慌てて息を吸う。


「……アオイ」

「うん」

「いつかさ」

言いながら、自分でもそれが“叶うかどうかわからない願い”だとわかっていた。

「本当の“そら”が、どこかにあるなら……

その下で、この色を見よう」


アオイは、“そらいろ”を握りしめたまま、まっすぐ俺を見た。


「……うん。約束」


アオイはそっと胸に手を当てた。


その日から、アオイはずっと、その“そらいろ”を首からさげていた。


船の中で水を沸かすときも。

小さな緑に水をやるときも。

ときどき、遠くの赤い“そら”を、狭い裂け目から見上げるときも。


“そらいろ”が、いつも胸元で揺れていた。


――そんな日々がしばらく続いた。


再びあの“機械の羽音”が聞こえ始める、その日が来るまでは。

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