第10話 砂の世界で出会った“生きている人間”
西暦2447年。
足元の砂が、ざく……ざく……と音を立てる。
二人の影は、赤茶色の“そら”の下で長く伸びていた。
影がはっきり見える世界なんて知らなくて、どこかこわい。
でも――こわいだけじゃない。
言葉にならない感じが、胸のあたりでふわっと広がった。
砂がふわりと舞い、ひゅう……ひゅう……と乾いた音を立てる。
そのとき。
――ぐぅぅ~~。
ナギのお腹が、はっきり鳴った。
彼女は顔を赤くし、ぎゅっとお腹を押さえた。
「……やだ……レイ、ごめん……」
「謝ることないよ。俺だって……お腹、空いてる」
言葉にした途端、胃の奥がずきっと痛んだ。
白い世界では、毎朝決まった時間に決まった“栄養パック”を食べていた。
味のない、匂いのない、同じ形の食べ物。
でも、それは確かに飢えを防いでいた。
今は――胸の奥まで、しびれるみたいな空腹が広がっている。
息はまだ重いのに、喉の奥だけはひどく乾いていく。
(……水も、食べ物も……なにもない)
ポケットを探る。
何か……なにか……。
でも、出てくるのは鉛筆と、小さな紙切れだけ。
(そもそも今日は、“ひび”を探しに行くだけのつもりだった。
“そと”に出られるなんて……思ってなかった)
準備なんて、ゼロ。
食べ物どころか、水すら持ってきていない。
そのとき、指先に固いものが触れた。
(……あ)
取り出してみると、それは――
おばあちゃんにもらった“そらいろの鉛筆箱”だった。
なんで、ポケットに?
(……そうだ。
今日、ナギに見せようと思って入れてたんだ)
箱から鉛筆を取り出し、先端をじっと見つめる。
淡い青。
白い世界では見られない、やわらかい色。
だけど――
「……これはさすがに、食べられない……」
思わず苦笑いがこぼれた。
ナギは鉛筆を見て目を丸くした。
「レイ。それなに?……鉛筆?」
「ああ……うん。鉛筆なんだけど、ここ見て」
“そらいろ”と書かれた文字を見せる。
「“そらいろ”……?」
「これ、おばあちゃんからもらったんだ。
でも……“そらいろ”って言うのに、教室で教わった色とも、いま頭の上にある色とも違う。へんだよね」
ナギは少し考えてから言った。
「きれいな色だね。むかしの“そら”って、こんな色だったのかな」
(……おばあちゃんにも、聞いてみたかったな)
でも――もう聞けない。
―
しばらく歩いたのに、さっき見た“光”の場所には近づいている感じがしない。
本当に光ったのか、それとも……見間違いだったのか。
白い世界では感じたことのない“空腹”と“乾き”が、少しずつ体を弱らせてくる。
歩くたびに、足の力がすうっと抜けていく。
(……何か持ってくればよかった。
でも……もう戻れない。戻ったら“調整”される。
いや……“最適化”される)
白い世界に戻ったら、もう二度とここには来られない。
あの町に戻るという選択肢は、最初からなかった。
だから、歩くしかなかった。
ナギが弱い声で言った。
「レイ……わたしたち……どうしよう……」
俺はすぐには答えられなかった。
進んでも、なにがあるかわからない。
それでも――立ち止まるわけにはいかなかった。
俺はナギの手を握り、震えを押し殺して言った。
「……行こう。
この先に……なにかあるはずだ」
ナギは小さくうなずいた。
そして俺たちは、乾いた砂の大地を歩き続けた。
――ひゅう……ひゅう……
音が鳴り、遠くの砂丘が揺れる。
歩くたび、影が長く伸びて、不安が胸の奥でざわつく。
足が重く、胸は苦しく、喉は焼けつくように乾いていく。
「……はぁ……はぁ……」
それでも、俺たちは歩いた。
―
どれくらい歩いたのか、もう分からない。
時間の感覚も、距離の感覚も、少しずつ溶けていった。
振り返っても、来た道は砂に消えている。
“そら”はずっと赤茶色だった。
境目もなく、ただ同じ色が、どこまでも続いている。
二人の影が、足元でゆらゆらと揺れる。
その影の先――
何かが、あった。
「……レイ……あれ……」
ナギの声が震えた。
指差す先を見て、俺も息を止める。
赤い砂に半分埋もれた、巨大な金属の影。
丸く膨らんだ外殻は大きく割れ、中身をさらしたまま、黒く焦げついている。
片側には、折れた“翼”のようなパーツ。
反対側には、崩れ落ちた脚のような支柱。
俺は、思わず息を呑んだ。
(……建物、じゃない。
なにか……“乗り物”だったもの?)
白い世界には、こんなものは存在しない。
用途も、名前も知らない。
それでも――見た瞬間に、分かった。
これは、“むかしの人間”が使っていた何かだ。
砂にここまで埋もれているということは、想像もできないほど長いあいだ、ここで時間に晒されてきたということだ。
ふらつく足で、ゆっくり近づく。
もう、足にはほとんど力が入らない。
外殻に触れると、ひんやりと冷たかった。
白い世界の人工物みたいな、“使われ続けている温度”がない。
これは、ずっと前に止まった機械の冷たさだ。
「……すごい……これ……なんだろ……」
ナギは青ざめた顔でつぶやく。
「……レイ……
わたしたち……ここに来て……
ほんとうに、よかったのかな……」
そのとき。
――ピッ……ピ……ガガッ。
金属の奥から、壊れかけた機械が悲鳴をあげるような音がした。
ナギがびくっと跳ね、反射的に俺の背中へ隠れる。
(……なに……今の音……?)
ナギの呼吸が、背中越しに小さく震えている。
俺は身を固くしたまま、音のする方へ耳を澄ませた。
すると――
残骸の裂け目が、ゆっくり……ほんの少しだけ“動いた”。
ぎ……ぎ……
金属が軋む音が、静寂を引き裂く。
そして――中から。
「……誰だ!!」
怒鳴り声が飛び出した。
ナギが悲鳴をあげる。
「――っ!!」
反射的にナギを抱き寄せ、一歩、後ろへ下がる。
裂け目の奥から、“誰か”が、ゆっくりと姿を現した。
ひび割れた皮膚。
白い世界では絶対に見ない、真っ黒な肌。
深く刻まれた皺が、時間の長さを物語っている。
そこには――
間違いなく、生きている“老人”がいた。
ぼさぼさの髭。
擦り切れた服。
そして、異様なほど鋭く光る目。
老人は俺たちを見て、はっきりと目を見開いた。
その視線は、俺やナギを捉えているようで、どこか――
俺たちの“向こう”を見ているみたいだった。
「……アオ……」
何かを口に出そうとして、そこで止める。
声はかすれて、言葉の形にならない。
俺もナギも、声が出なかった。
ただ固まったまま、老人のその目を見返すことしかできない。
老人は一歩、こちらへ近づいた。
俺たちの顔、髪、服――
全身を、食い入るように見回す。
そして、ひどくゆっくりと、つぶやいた。
「……まさか。
“ドーム”から……出てきたのか……?
そんなはずは……いや……まさか……」
世界が、止まる。
喉がひゅっと細くなり、ようやく声を絞り出した。
「……あなたは……誰……?」
老人は、しばらく黙っていた。
まるで、何十年もこの瞬間を待っていた人のように、ゆっくりと息を吸う。
赤茶けた砂ぼこりが、老人の背後でかすかに揺れた。
「……信じられん。
おまえら、ほんとうに“あそこ”から……」
老人は喉を鳴らし、言葉を探すように沈黙したあと、やがて、ぽつりと名乗った。
「……わしはタクト。
タクト・ミナト。かつて、“ドーム”にいた人間だ」
ナギが、息を呑む。
俺の心臓は一瞬止まり、次の瞬間、破裂しそうな勢いで脈を打った。
(……ミナト……?
俺と……同じ名前……?)
老人は、まるで長い問いの答えを一つずつ確かめるように、ゆっくりと、深くうなずいた。
急ぐ様子はない。
その動きには、時間そのものが沈殿しているようだった。
皺に刻まれた顔が、わずかにこちらへ向く。
その目が――俺たちを捉える。
まるで俺たちを――
今日、初めて出会った存在としてではなく、ずっと前から、どこかで知っていたかのように。
あるいは、いつか来ると分かっていた者たちを迎え入れるように。
老人は何も言わない。
それでもその沈黙が、俺の胸の奥に、重く、静かに落ちてきた。
(……この人は)
言葉になる前に、確信だけが先に、心に染み込んでいく。
この出会いは、偶然じゃない。




