第1話 禁じられた“そら”の話
西暦2445年。
世界は、白い天井でできている。
それは、誰も疑わない“当たり前”。
だからこそ、誰も気づかない。
その“当たり前”が、もうひび割れはじめていることに。
―
僕の名前はレイ・ミナト。八歳。
白い天井の町〈マーセレス〉で生まれて、白い天井の下で眠っている。
朝になると壁が少し明るくなり、夜になると少し暗くなる。
お父さんはいつも言う。「今日もいい一日だ」
お母さんは笑ってうなずく。「ね、マザーは優しいわね」
二人とも幸せそうで、僕も笑う。
この町では、みんな“幸せ”でいることがいちばん大事だから。
“マザー”は天井の奥にひそむ大きな声だ。
話しかければ答えてくれるし、眠れない夜は歌を流してくれる。
転んだときは『痛いの、もういいよ』と言って、痛みをどこか遠くへ連れていく。
だからこの町では、泣くことはあっても、泣く理由はすぐに消えてしまう。
みんなは、マザーの言うとおりにすれば大丈夫だって言っている。
だけど――僕には、それがずっとふしぎだった。
胸の奥で、ひっそりとざわつくものがある。
誰にも言ったことはない。
でも、マザーの声を聞くたびに、まるでどこかで“じっと見られている”ような、そんな気がした。
―
その日、学校で「安全のおはなし」の時間があった。
教室の壁が静かにひらくと、天井いっぱいに映像が映った。
先生の声が響いた。……だけど、どこかマザーの声にも似ている。
「むかしむかし、“そら”という危ないものがありました。
とても広く、冷たく、気まぐれで、人を悲しませるものでした。
“そら”は時にあめを落とし、いかづちを落とし、人の住む場所をこわしました。
だからマザーは考えました。“そら”から守ってくれるおうちを作ろう、と。
こうして白い天井の町が生まれました。
だれもぬれず、だれもこごえず、そしてもう誰も泣かなくなりました。めでたし、めでたし」
天井がゆっくりと暗くなり、白の奥から色がにじみ出した。
灰と黒のあいだみたいな、冷たい光。
深くのぞくほど、息が苦しくなる。
「これが、“そら”というものです」
先生の声が言う。
「むかし、人々はこの色を見上げすぎて、心をこわしました」
子どもたちは静まり返る。
小さな子が泣き出しそうになり、誰かが手を握る。
胸の奥がくすぐったくて、少し痛い。
こわいのに、なぜか目が離せなかった。
授業の終わり、先生の声が静かに言った。
「今日学んだ“そら”の話は、ここまでにしましょう。
これ以上考えたり、口に出したりしてはいけません。
……マザーが悲しみますから」
教室がしんと静まる。
誰も息をする音すら立てなかった。
先生はにこりと笑う。
その笑顔は優しいはずなのに、どこか硬かった。
「いいですね? これはぜったいのお約束です。
私たちはマザーと白い天井、白い壁に守られているのですから。
その“正しさ”を忘れないようにしましょうね」
その言葉に、クラスの全員がいっせいにうなずいた。
反射みたいに、同じ角度で。
そして、全員が同じタイミングで「はい」と返事した。
僕もつられて声を出したけれど――
(……これって、ぼくだけ“変”に感じてるのかな)
返事の響きがまだ教室に残っているのに、みんなはもう何もなかった顔で席に座っていた。
さっきまでの話題に、一切の興味を失ったみたいに。
その光景が、いちばんこわかった。
―
放課後、ナギが笑いながら近づいてきた。
「ねぇレイ、今日の映像、すごかったね!」
「うん。すごかった」
ナギの髪は、光に当たると少し金に見える。
この町では、髪も目もだいたい黒か灰。
けれど、ナギみたいに”少し違う”色を持つ子が、ときどき生まれる。
目の色が淡い青になったり、髪に光が混じったり。
それでも、誰も気にしない。
この町では、“色”で人を分ける言葉がないからだ。
僕はただ――「ナギは僕とちょっと違う」と思うだけ。
ナギは目をきらきらさせて言う。
「“そら”……こわかったね。黒くて、飲みこまれそうだった! ……でも、ちょっときれいだった気がする」
「ナギ!」
思わず声が上ずった。
その言葉を“口に出すこと”――
さっき授業で、”言ってはいけない”と習ったばかりだ。
ナギは驚いたように僕を見たが、すぐに笑って首をかしげた。
「あはは……ごめん。つい言っちゃった」
笑っているのに、その声は少し震えていた。
僕は息をのんだまま、何も言えなかった。
“マザーを悲しませた”――そんな優しい言い方じゃない。
胸のどこかで、
(……怒らせてしまった)
と、勝手に思ってしまったからだ。
ナギはすぐに笑顔を作って言いなおす。
「マザーってすごいね。あんな危ない“もの”をなくしてくれたんだもん」
「……うん、すごい」
その言葉は正しい。
けれど、ナギの口から出た“もの”という響きが、やけに冷たく感じた。
僕の胸の奥が波のようにゆれた。
ナギが言った“そら”という言葉が、耳の奥でいつまでも消えなかった。
―
家に帰ると、白い皿の上に丸い食事パックが三つ並んでいた。
見た目はおいしそうなのに、口に入れても味がしない。
お父さんは端末を見て言う。
「よし、今日も“幸福指数”、100点だ」
お母さんは嬉しそうにうなずいた。
“幸福指数”。
それは、この町での“健康”とか“心の安定”とか――そういうものを表す数字だと、教えられている。
100点の日は体が軽くて、よく眠れる。
ほとんど毎日が100点で、それ以下になることはめったにない。
でも、もし90点、80点と落ちたらどうなるのか――?
考えちゃいけない。
そう思うほど、頭の中で大きくなる。
「レイ、学校はどうだった?」
「“そら”のお話だったよ。……あ……」
それは、口に出してはいけない言葉だった。
お父さんとお母さんが、動きを止めて見合わせた。
ほんの一瞬の沈黙。
その直後、マザーの声が天井から降りてくる。
『いいお話ですね、レイ。けれど“そら”はもう必要ありません』
お母さんは安心したように笑った。
そのとたん、のどの奥が少しだけつまったような気がした。
―
夜。
天井の灯りがぽつぽつと灯る。
僕は引き出しから、古い鉛筆の箱をこっそり取り出した。
大好きな、おばあちゃんにもらったものだ。
だけど、おばあちゃんは言っていた。
「これはね、誰にも見せちゃいけないよ。一人のときでも、声に出しちゃだめ。
それから、使うのはこの部屋の中だけにしなさい」
ふたの裏には、知らない言葉がいくつか並んでいた。
箱の中には、小さな金属製の筒と、細い一本の鉛筆が、そっと並んで収まっていた。
その横に、薄れかけた文字がある。
――そらいろ。
僕はしばらく、その文字を見つめた。
“そら”って、あの“こわい色”のことだよね。
でも、この鉛筆の先は、ぜんぜん違う。
やわらかい青。冷たくない。
見ていると、なぜか胸の奥があたたかくなる。
紙の上に線を引くと、水みたいな色がのびた。
今日、学校で見た“そら”とはちがう。
どっちが、ほんとうの“そら”なんだろう。
聞いてはいけないことを考えてしまった気がして、僕はあわてて鉛筆を箱に戻した。
ふたを閉じても、その色はまぶたの裏に残っていた。
「レイ、そろそろ寝ましょう」
お母さんの声が、やわらかく響いた。
僕は急いで鉛筆を引き出しにしまった。
―
ベッドに入ると、マザーの歌が流れた。
やさしい歌。眠りを呼ぶ歌。
けれど、その夜はなぜか眠れなかった。
耳を澄ます。
町が息をしている。
白い天井の呼吸。
一、二、三……
数えるたびに胸がふくらみ、ふくらんだ胸の奥の穴が、少しずつ広がっていく。
ふと、壁の端末が光った。
表示がにじんで見える。
【幸福指数:99】
……あれ?
今朝は、100点だったはず。
「マザー?」と呼ぶ。
返ってきた声は、いつもより少し低かった。
『レイ。おやすみなさい。今日も、いい日でしたね』
一拍おいて、静かに続く。
『――“そら”のお話は、もうしないようにしましょうね』
僕はうなずけなかった。
そのとき、天井の灯りがひとつだけ、青く光った。
いつもは白い“安心の灯り”なのに。
一瞬だけ、部屋の空気が止まった。
マザーの声も、歌も消えた。
青い光は、鉛筆の“そらいろ”に似ていた。
でも、天井の青はやさしくなく、少しこわかった。
すぐに白に戻ると、マザーの歌がまた流れ出す。
けれど、今度の歌には――言葉がなかった。
―
その夜、僕は夢を見た。
白い天井のない世界で、空気がゆれていた。
髪がそっと動く。――どうしてだろう。
“そら”の下で、僕は泣いていた。
なぜ泣いているのか、わからないまま。
ただ、頬を伝うものがあたたかくて、少しだけこわかった。




