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お疲れOLを年下元ヤンがうまいこと餌付けする話

作者: くろつ

 あっ、好きなやつ一個だけ残ってる……。

 よかった、食べて帰ろっと。


 駅からの帰り道、家まで歩いてあと3分というところにその店はある。

 マンションの一階にある小さな店で、歩道に面して小さめの窓があって、そこからちょっとだけ中がのぞけるのだ。


「いらっしゃいませー」


 ベーグルサンド専門店のドアをあける。

 心地よく掠れた低音ボイスの店員は若い男の子だ。名札にはMIOと書かれてある。


 いつもの席に腰かけてバッグを置くと、ふっと気持ちが軽くなるのを感じる。


 きんぴらごぼうクリームチーズ。

 最近、これがものすごく好きだ。


 そこまでバカ濃くない味です。と手書きのPOPには書いてあって、本当にその通り。

 しっかり味が濃いんだけど、しつこくない。

 きんぴらの下にはやわらかいレタス。


 ここは通勤途中にあるから店ができる前から知っていて、なんだかごついお兄さんたちがバンダナとTシャツで出たり入ったりしてるなあ、目つきも悪いしタトゥーとか入ってるし、どつきあってゲラゲラ笑ってるし怖いなあと思っていたのだけど、いざ出来上がってみるとシンプルシックなベーグルサンドの専門店だったので、あたしはほっとしたのだった。


 テイクアウトの人が多いけれど、壁際にカウンター席もあるのであたしはたいてい食べて帰る。


 だって、かろうじて社会人の顔をして背筋を伸ばしていられるのって、家のドアをあけるまでの間だから。


 部屋に帰ってしまったらもうだめ。

 なにもやる気になれないし、せっかく買って帰ったデリのサラダだって、当初考えていたようにお皿に盛り付けて、なんてこともせず、だらけ果てて容器からそのまま食べてしまうし。


「トマト味って大丈夫ですか?」

「え、あ、はい」


 そんなことを考えてると、男の子の店員さんがトレイに乗せて商品を運んできた。

 ベーグルサンドの横には紙コップに入った赤いスープがある。


「試作です、どうぞー」


 語尾のところどころに関西のイントネーションがある彼に、あたしはぺこりと頭を下げてお礼を言った。


 この若い店員さんは、いつも丁寧で感じがいい。

 週3日は来ているあたしの顔は多分覚えてるだろうに、なれなれしくしないあたりが安心できるのだ。


 それになんと言っても、立ち居振る舞いがすっきりしている。

 黒ジーンズの足はほっそりして、もう腰の位置からあたしとは違う。


 これが世代間格差というものですかと思いながら、きんぴらごぼうクリームチーズのベーグルサンドを一口かじる。


 甘じょっぱい和の味とクリームチーズの酸味がとんでもなくはまって、あああもう、おいしいっ。最高っ。作ったひと天才っ!


 今日はずっと、これが欲しかった。


 ぎゅっと詰まったシンプルなベーグルはもちもちして、小麦の風味が香ばしい。そこにごま油の香りと甘じょっぱい味のしみたきんぴら。ごぼうの繊維がしゃきしゃきしていて、冷凍じゃないのがちゃんとわかる。


 きんぴらごぼうってなにげに作るの面倒くさいし、その割に、自分で作っても絶対この味にはならない。

 まあ最近は自分で料理を作るような余裕もないわけなんですが……。


 あたしは中堅流通会社のOLをやっている。


 仕事内容は事務のはずだけど、うちの職場に限っては、新人がすぐやめる。


 理由はわかってる。事務なんてルーティンのはずなのに、やってもやってもイレギュラーな対応続きで仕事を覚えた気になれないし、半年たっても一年たってもベテランの人に聞きながらじゃないとできない処理が多いから、自分がどうしようもなく仕事のできない人間に思えるのだ。


 今日のあたしは、自分のミスじゃないのに電話かけと謝罪で午前中がつぶれた。

 連絡しなきゃいけない顧客リストは、A4用紙で1枚半あった。

 ミスした上司はにやっと笑って、「えらいね」って言ってタバコ吸いに消えた。


 はーーーーっ。


 大きなため息をついてしまって、あたしははっとした。

 いやいや、こんなこと考えるために来たんじゃない。


 トマトスープを一口飲む。

 すっぱくて、爽やかで、栄養が詰まった味がした。

 夏の疲れた体に欲しいもの全部だった。


 あたしはため息とは別の、大きな吐息をついた。

 週に何回もこの店に通う理由は、ベーグルサンドが絶妙においしいってだけじゃない。


 この店にいる間は、なにも、ひとつも、嫌なことがないからだ。


 ◇◇◇


 息苦しいほど濃い水の気配は、駅を出た直後から感じていた。


 だけど、ごちそうさまでしたを言って店から出た瞬間、雨はいきなり降ってきた。

 ぽつぽつと降りだすんじゃなくて、いきなり落ちてくるゲリラ豪雨。


 ぎゃーーーっ。


 もちろんこの時期、傘は持ってる。

 でも出してる間にこれ絶対ずぶぬれになるやつ。


 ていうか降り出して5秒くらいであたしはもうびしょぬれで、スカートの生地は足にはりついて、一番近いコンビニまであと50メートルくらいあって。


 周囲のスーツ姿の男性たちがダッシュしてコンビニの軒先にたまっていく。

 そんな中、パンプスを履いてるあたしは当然出遅れるわけでして。


「なにしとんのですか!」


 そこに、手加減なしの関西低音ボイスがひびいて、あたしは思わず振り返った。

 ドアをあけて、こっちを見ている店員さんと目が合う。


「うち戻ってきたらええやないですか!」

「えっ……でも」

「はようしぃや!」

「はいっ」


 迷いのない言い方にはなにか強制力があって、あたしは走って店の中に飛び込んだのだった。


「マンゴーヨーグルトスムージー、です」


 店の中にお客さんはあたしだけ。

 しばらくして彼が差し出してきたのは、グラスに入ったオレンジ色のものだった。


「スムージーとフラッペの違いがようわからんのですけど……なんかそんなやつです」


 言いながらグラスを差し出してくる。

 あたしは自然と受け取ってしまってから、あれっ、これは受け取ってよかったんだろうかと思う。


「氷も水も入っとらんのでうまいはずです」

「……ありがとうございます、いただきます」


 でもあたしが遠慮を思い出すよりも、受け取って当然のものとして扱われるほうがはるかに早かったのだった。


 タオルを借りている間、ごごごーっという音がしてたのはどうやらこれを作っていたらしい。


 一口飲むと、味が濃くて、甘いのに甘すぎなくて、今まで飲んだどのスムージーよりも断トツで美味しい。


「おいしいです!」

「そらよかった」


 黒マスクの上の目が細くなってやさしくなる。


 彼は今、ダークグリーンのエプロンを外して、しゃがんで大きく開いた片膝にひっかけている。


 あたしの足元にしゃがんでいる彼を改めて見ると、ほんとに細身で、めちゃくちゃスタイルがいい。色も白いし、多分あたしよりも美肌だ。──て、一体なにを見てるんでしょうかね、あたしは。


 彼が黙ってあたしを見上げているので、あたしはどことなく気恥ずかしくなって、手元のグラスに目を落とした。

 やさしいオレンジ色がそこにある。


 そして、半分くらい飲んでしまってから気がついた。

 今まで飲んだどのスムージーよりもおいしいということは、これは業務用じゃないってことに。

 この男の子が今あたしのために作ったんだということに。


(──なんで、こんなに)


 おいしくて、やさしくて、ほっとする。


 ババババ、バリバリバリバリ。

 外では怖いくらい雨がたたきつけている。


 なのにここは、ほどよくエアコンがきいていて、いざという時は助けてもらえて。


(嫌なことが、なにひとつない)


 ぽろ。前置きなく、いきなり涙がこぼれ落ちて、あたしは動揺する。

 なんでこんな涙が。もう大人なのに。


「す、すみません、なんか」

「雨やったから、しゃあないね」


 とっさに借りたタオルで目元を押さえると、さらりと彼は雨のせいにしてくれた。


 気恥ずかしさが勝って、最後のほうは急いでスムージーを飲み終えると、あたしは幾度もお礼を言ってグラスを返した。


 そろそろ雨がやんだかと窓の外を見ると、彼もあたしの背後に立って一緒に窓の外を見る。

 そしてあたしの肩のあたりで不意に彼は言ったのだった。


「支配欲強めな年下なんて、嫌いやろ?」


 なにを言われたか一瞬わからなくて、あたしは「無」になった。

 えっ今、なんて?


「かまわんわ、きっちり好きにさせてあげるし」

「え?」

「あ、やみましたねえ」


 あたしが聞き返すと彼は秒で営業用の顔に戻って、にっこり笑った。


「よかったですね、すぐやんで」

「あ、そうですね……」

「またお待ちしてますね」

「あっほんとにありがとうございました。タオルも助かりました」

「ほなね、風邪ひかんときや」


 なめらかにナチュラルに店から送り出されて、家までの道を歩き出してから、あたしはようやく言われたことを脳内反芻したのだった。遅すぎるけど。


 えっ? えっ?

 さっきあたしなんて言われたの?


 ……え???


 ◇◇◇


「……なぁ、ミオ」


 彼女を店から送り出すと、厨房からいかついガタイの男が顔を出した。

 ひとりではなく、ふたり。


 ひとりは細眉でもうひとりはTシャツからタトゥーがのぞいている。細眉のほうはクリームチーズのついた泡立て器を、タトゥーのほうは細長いパン切り包丁を持っていた。


「ミオさんよ」

「んだよ」


 呼ばれた男はさっきまで女性客に見せていたやさしい顔を一瞬で取っ払った。


「おまえ、めっちゃ猫かぶってる自覚ある?」

「やかましいわ」


 黒いマスクを外して、彼は厨房から出てきた男を眼光鋭くにらみつける。名前もそうだが顔も女っぽいと言われ続けて19年である。女顔だとなめられるのも慣れているが、なめてかかった奴はきっちりカタにはめてもきた。


「俺らが素でしゃべったら怖がるやろ、普通の女は」

「そうだろうけど」

「疲れた女にはまず餌付けじゃ」

「惚れた女って言った、今?」


 細眉のほうがにやにや笑いを浮かべる。


「言っとらんけど。間違っとらんしええわ」

「明らか年上だろ」

「年上の女を甘やかすの、俺は得意やし」


 ほほー、と男ふたりが顔を見合わせる。

 顔がいいって得ですねえ、そうですねえ、とこわい顔の男たちは言いかわす。


「それに気づいとった? あのお姉さん、どんなに自分が疲れとっても俺にはちゃんと笑顔でお礼言うんやで。そんだけがんばっとる女を甘やかしてなにが悪いんや」


 悪いとは言ってねえけど。男ふたりが言うのにかぶせ気味でミオが続ける。


「言うなよ? 俺が餌付けとか言うたこと本人に言うなよ?」

「そんなこと言うかい」

「マジで、言うたら殺す」

「言わねーって。だってお前、耳真っ赤じゃん」


 と言った細眉は瞬殺でボコられ、なぜか言ってないタトゥーも巻き添えでボコられた。


 やめろオーナーに聞こえる! 保護司のおっちゃんに店壊すなって怒られる! ミオまじでやめろ、俺らどっちみち接客しねーから!


 男三人がばたばたとじゃれあうのは次のお客が来てドアベルを鳴らすまで続いた。


 蒸し暑い、夏の夜のことだった。

この短編の裏設定&後日談の覚え書きを2023/8/20ぶんの活動報告に箇条書きでUPしました。

ご興味とお時間がある方はどうぞご覧になっていってください。

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