ある完璧ではない聖女の物語 3
断頭台の前に跪き、頭を垂れた私は、その姿を後ろから見ているような奇妙な感覚に陥っていた。
けれど、鞭で打たれた傷から確かに感じる痛みが、これは現実なのだと告げているようだ。
(そう、これはリセルに起きたあの日の現実だわ)
不思議なことに、もうすぐ命が消えるのに恐ろしくはなかった。
そこにあるのはあきらめと、それでいて希望だ。
目を閉じれば、浮かぶのは大きく毛むくじゃらで、ただ一人私を助けてくれた、心強い背中だ。
もし、あの手を取っていたら、きっと巻き込んでしまったから。
だから、これでいい。ここで終わりでも、きっと彼らの幸せを祈り続けることが出来るから。
(それなのに……)
ブツンッと縄が切られて、断頭台の刃が落ちてくる刹那、私は見た、見てしまった。
その背中は、たくさんの人たちを先導し戦っている。聖女リセルの意志を継ぐために。
たくさんの血が流れる。それは、あの人も例外ではなく。
(やり直したい……)
取り返しのつかない状況に、涙がこぼれた。
それでも、この苦しくて、救いようのない人生で、私が選べることなんていくつもなかった。
聖女になることは、宿命。
誰しも平等に救うことは、使命。
ガリアス様と出会ったのは、運命。
ほんの少し前、差し出された手。
あの手を掴んでいたならば、全ては変わっていたのだろうか。
尊敬でもなく、憧れでもないこの気持ちに、ようやく名前がついた。
その瞬間、熱さだけを最後に感じて、私にとっての全てが終わる。
「愛していました。ガリアス様」
口に出来なかったその言葉だけを残して。
* * *
「……っ、今も私は」
「……」
それは、聖女リセルの最期。
もしも、ガリアス様がたどる結末を見ずにすんでいたなら、こんなにもやり直したいと願うことはなかっただろう。
「……ガリアス様」
「……なぜ」
ガリアス様が、泣いている。
涙は、こぼれ落ちずに、ただその淡い茶色の毛並みに吸い込まれるばかりだ。
「……君が本当は弱くて、いつも震えていることを隠して、怯えながら立っていることを知っていながら、俺は」
「……ガリアス様?」
目の前のガリアス様は、様子がおかしい。
まるでそれは、私と同じ場面を見てしまったかのように。
「リセル、君は最期に泣いていたのに」
リセルが泣いたのは、己が宿命を儚んだからではない。ただ、あなたの最期を見てしまったから。
大切なものを守れなかったから。
「どんなに恨まれようが、憎まれようが、振り払われた手を掴んで、連れ去るべきだったのに」
「ガリアス様にも、見えたのですか?」
「……君は、やり直していたんだな?」
「そうですね」
間に、違う世界と人生をはさんだのだとしても、あの日のリセルの願いが叶い、私がいる。
弱くて、いつも震えていることを隠しもせず、それでも怯えながらこの場に立つ、私が。
「取り返しがつかないな」
「……あの日手を取ればよかったと、ガリアス様を結局守り切れなかったことだけが心残りでした」
「そうか」
「あの日の私は、もういません」
きっともう、あの日々のように全ての感情を押し隠した、完璧な聖女リセルにはなれない。
大きくて平等な聖女の愛よりも、小さいのにあまりに深いその感情に、願いに、気がついてしまったから。
「それでも、気がつくのが怖くて隠していた、リセルの一番大切な願いを一度だけ伝えたいです」
「……リセル?」
「あの日、手を振り払ったのは、大切なあなたを守りたかったから。……愛していました」
太い首に抱きついて、その部分の毛並みまでも涙で濡らす。
ガリアス様は、自分が流した涙と私の涙で酷いことになっている。
「そうか、認められなかったことを詫びよう。……あの日の俺も君を愛していた」
抱きしめられた腕は、一時だけ今の私たちのものではない。
そして、その腕が離れた瞬間、あの日の私たちは消えて、見つめ合うのは今の私たちだ。
「愛しています。ガリアス様」
「ああ、俺も今のリセルを誰よりも愛しく思っている」
もう一度抱きしめ合う。
先ほど濡らしてしまった毛並みが、びちゃびちゃと冷たい。
「うぅ。冷たくて酷いことになってますよ? お風呂で洗ってあげます」
「…………は?」
「ほら、顔もびしょびしょですよ?」
「君という人は……」
強く強く抱きしめられて、「それだけで済むはずがないが、覚悟しているのか?」という少し獰猛な響きの言葉が聞こえてくる。
ようやく自分の言葉のうかつさに気がついた私は、赤面したのだった。
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