422●『果てしなきスカーレット』(2025)⑭なぜこんなことに?(後1)“美少女無責任時代”に、責任を強調する彼女は無視された?
422●『果てしなきスカーレット』(2025)⑭なぜこんなことに?(後1)“美少女無責任時代”に、責任を強調する彼女は無視された?
予告編の公開時点から、観客に見放され、冷たくスルーされた感のある『果てしなきスカーレット』。
なぜ、そんなことになったのでしょうか?
予告編で剣戟を交わしながら、スカーレットは激しく苦悩します。
私は復讐すべきか、生きるべきか、死ぬべきか?
これが50年前の1970年代の映画だったなら、若者たちは彼女に惹かれ、共感して劇場へ参集したのではないかと思います。
『宇宙戦艦ヤマト』が初めてオンエアされた1974年、そのあたりですね。
この時期、剣を構えて戦い、悪者を殺しもする美少女ヒロインは、『ラ・セーヌの星』(1975)あたりしか見られません。女の子がチャンバラで殺しをするなんて、お子様向けのアニメ番組ではご法度だったのです。
なお、男装の麗人オスカル様が剣をふるう『ベルサイユのばら』がTVアニメで放映されたのは1979年です。
この時代にスカーレットがタイムスリップしていれば、れっきとした王家のプリンセスが敵の殺戮もためらわずに戦う設定が極めて先進的で、観客の度肝を抜いたと思われます。歴史の先駆者として名を残したことでしょう。
アニメのプリンセスはディズニーの『白雪姫』と『眠りの森の美女』で国民的なイメージが造られており、白馬の王子様に従属するフェミニンな存在とされていたようです。復讐心に目を血走らせて殺気をたぎらせるお姫様なんて、誰も想像していなかったでしょうね。
『果てしなきスカーレット』の登場は、皮肉なことに、半世紀ほど遅すぎたのかもしれません。
と言いますのは……
スカーレットは物語の終盤で、自分の生き方について、重要な意思決定をします。
その意思決定について、彼女は生真面目に、責任を取ろうとします。
彼に対して、とても立派な約束をするのですね。(文庫版P256)
“責任を取る”。
それが、戦闘美少女でもあるスカーレットの態度です。
“自分の意志決定について、責任を取る超真面目なバトルヒロイン”
それが2026年の今からすると、、半世紀ほど“時代遅れ”だったのです。
2026年の今、バトルヒロインは自分のしたことに責任なんか取ろうとしません。
21世紀は、いわば“美少女無責任時代”なのです。
この、無責任な時代が、迷い悩むスカーレットを、シレッと無視したのではないかと思うのです。
*
時代を追って、考察してみましょう。
スカーレットは「16世紀デンマークの王女」と最初から規定されていて、しかもシェイクスピア作品のハムレット王子を変形させた、ガチガチの保守本流キャラクターです。
異世界ラノベの“悪役王女”とは本質的に異なる、由緒正しい本物のプリンセスなのですね。
そのうえ剣術を磨いて、戦闘力は一流。
これはもう、マリー・アントワネット(1755-93)が若き日にジャンヌ・ダルク(1412-31)化するようなもので、しかも本物の王族。
となれば無敵の戦闘王女です。
恐れ知らずのドレッドノートで、最強無敵で頑固石頭で冷酷無情の堅忍不抜にして不撓不屈といった、栄光ある英国軍艦のなんだか大袈裟な名前を並べたみたいな、庶民には考えられない強大なチート力を授けられているはずなのです。
時代を無双する実戦力を備えたプリンセス。
それだけの人物が、たった独りきりで、身も心もボロボロになって、ぼっちな戦いを強いられる……というのは、何とも不自然です。
だから彼女には、忠勇たる部下の銃士たちがいたはずですよ。
スカーレットを中心に、アトス、ポルトス、アラミス、ダルタニアンに相当する屈強な一流銃士を従えて、顔は仮面着用で正体を隠し、悪を成敗する正義の隠密剣士として大江戸デンマークで幕末京都の新選組並みに、“暴れん坊姫様”となって蹂躙無双で鎧袖一触なさればよかったのです。
そう、五人セットですね。
正義の五人組は、ニッポンでは『秘密戦隊ゴレンジャー』(1975)としてブラウン管狭しと活劇してくれ他のが嚆矢とされます。(元祖な紅一点としては、1966年の『ウルトラマン』で輝いたフジアキコ隊員もそうでしたね。あ、『サイボーグ009』や『レインボー戦隊』もありましたが。ただし前者のヒロインは子守りに明け暮れ、後者では看護師さんでしたね)
スカーレットも、五人チームの一員となるべきだったのです。
となれば、スカーレットは文字通り、紅一点の少女戦士。
しかしこれはちょっと、面白くありません。
“紅一点”になったとたん、戦闘の主役は四人の男子に持っていかれます。
可愛い“ぼっちガール”として、四人のイケメンお兄さんに大事に守られて可愛がられる愛玩マスコットにされてしまい、主役にふさわしい大活躍をさせてもらえませんね。
お仕事は、秘密基地のお茶くみ係……
その悩みを一発で鮮やかに解消してくれたのが……
ご存じ、『美少女戦士セーラームーン』(1992~)。
計五人の戦士を全員仲良しの少女チームにしてしまいました。
全員がほぼ平等にバトルを担当します。
これが、当時のティーンガールに大当たり。
女の子が主役を張って悪をお仕置きするのです!
男の子たちに付き従って、ケガ人が出たら甲斐甲斐しく治療したり、ホームメイド料理などを作らされる、まるで専属家政婦な付録的存在じゃないんですよ!
オール女の子のバトルチームを結成し、共に戦う。
これ、ジャパニメーションのフランス革命とでもいうのか、歴史の一大転機になったと思います。
『ラ・セーヌの星』みたいな、独りで戦うぼっちヒロインから、メンバーそれぞれに個性という花を持たせた友情あふれるバトルチームへ!
『美少女戦士セーラームーン』は偉大です。今年は2026年、最初の放映からすでに34年が経過していますが、続編の劇場アニメがまだまだありますね。昔、これをワクワクして観ていた、花も恥じらう当時16歳の少女は、今年50歳になるのですぞ!
しかも世界各国に輸出放映されて、セーラームーン五人組は戦闘美少女のグローバルスタンダードに成長しました。
その過程でセーラー戦士たちは増員され、冥王星(2006年から惑星でなくなりましたが)を含む太陽系九惑星を網羅するようになりましたね。
これをアニメだけでなく実写ドラマにすれば、銀幕からステージへと、活躍の舞台を発展できる! つまりビジネス拡大ですね。
もう一つ、美少女バトルチームの系列作品として、ゲームの『サクラ大戦』(1996-)が現れていました。早々にアニメ化されましたね。
これには企画当初より声優さん出演の本物ミュージカル化が仕組まれていて、主要キャラは戦闘集団“華撃団”の一員であり、平時は“歌劇団”の歌って踊るアクトレスさんとして活動するという設定になっていました。
そこで早速1997年に『サクラ大戦歌謡ショウ』として、アニメの中から現実のステージへ飛び出したわけです。凄いですね、武道館まで征服したんですから。
中核となる“花組”の構成員は八名。八犬伝に倣ったのか、スーパー戦隊よりも員数が増えました。互いに競争も反発もありますが、本番の戦闘では力を合わせる戦友仲間です。こちらもセーラー戦士と同様にチームワークを重視した作戦が実施されました。
作品のヒットとともにチームは巴里へ、紐育へと拡大してグローバル化も果たしました。
となれば、セーラームーンも黙って指をくわえて見ているはずがありません。
セーラームーンの実写ドラマが放映されたのは2003年。
もちろんすぐにミュージカルになりました。
こうして月と桜の美少女戦士たちが実体を伴う舞台に舞い踊ると、群がっていたオタクな男女集団がサイリウムやペンライトを振り回して同調し、贔屓のキャラを推しまくる熱狂の祝祭劇場が出現します。
この盛り上がりをコアなアニメオタクに限定する法はないでしょう。
これを、秋葉原を戦場に定め、スケールアップして、より普遍的な舞台芸術に昇華させるべく勝負を挑んだのがあのAKB48だと思うわけです。
AKB48の活動開始は2005年。
スタートした時のメンバーは、現役かつ等身大のスクールアイドルって感じでしたね。
私にはどちら様がどなたなのか、全く個体識別できませんが、いまや何百人だか何千人だかわからないスクールアイドルのブームは全国に拡大し、学校の部活にまで導入されるようになったとか。
ニッポンは美少女アイドルの大量生産工場となったのか?
これには驚くというか唖然というか、世の中ナニカ勘違いしてやいませんかといった感じもするのですが、とにかく21世紀のニッポンは少女アイドル全盛ということです。
それが良いことなのかどうか、私にはさっぱりわかりませんが……
ということで、「美少女戦士はソロでなくチームで戦う」→「チームを拡大すればスクールアイドル集団になる」という流れが、20世紀と21世紀の変わり目に発生し、時代のイメージを革新してきたことは確かでしょう。
では、なぜ、1970年代において単独ソロから五人チームの紅一点に進化した戦闘美少女が、その後も人数を増やして、少女ばかりの大集団に変貌していったのでしょうか?
“責任の分散と希薄化”が、制作者の側から求められたためではないかと思います。
*
スカーレットのように、一人で戦って無双する戦闘美少女は、いったん殺戮などの犯罪行為をやらかしてしまったら、その責任から逃れることができませんね。
単独犯ですから。
人殺しであろうが強盗であろうが、誰か他人のせいにする余地はありません。
罰を受けるべきとなったら、自分が罰されなくてはならないのです。
しかしこれ、五人チームの一人であれば、殺戮でも強盗でも、チーム全員の連帯責任にできますね。
チームの人数がもっと多くなって、例えば“地獄坂44”とか“アキバ冥途組”とか、まあ男性も含まれますが天使たちと戦う“寝る府”とか、鬼様と戦う“キ殺隊”とか巨人と戦う“超サ兵団”とか、そういった名前の“組織”になれば、もう何をやっても組織の責任にすることができます。
集団の一員として、上位者の命令なり権限に従ってやったこと……ですからね。
その最大級が“戦争”で、兵士がお仕事で敵をいくら殺しても、基本、個人でなく軍や国家の責任になります。
古代君が波動砲でガミラス民間人を大量虐殺しても、彼がひとりでやったのなら極刑モノですが、“宇宙戦艦ヤマト”がやったのならば沖田艦長が責任者ですし、“地球防衛軍”がやったというのなら、平時でしたら軍の責任ですが、戦時なら敗ければ東京裁判で国家が責任を取り、戦争に勝てば天晴れ無罪となりますね。全く理不尽ですが。
20世紀、まだ昭和の時代には、殺しを伴う戦闘行為は“男の子”の専売特許で、たとえ漫画やアニメとはいえ、いたいけな“女の子”がマシンガン振り回して大量殺戮でもしようものなら、世の善良なお母さま方から白い目で見られたものです。永井豪先生の、いくつかの漫画作品もそうだったと記憶していますが。
そんな時代に、いわゆる“女の子”が、お転婆の域を超えて戦闘行為に大暴れするためには、五人チームの紅一点ではまだ難しかったのです。
そこで“女の子だけの戦闘集団”を形成することで、やらかしてしまったヤバい戦闘行為の責任を集団全体で希薄化するという手法へと流れていったものと思われます。
それでも『セーラームーン』(1992)は魔物と戦い、『トップをねらえ!』(1988)では“少女ロボット戦闘団”ともいうべき組織が、宇宙怪獣と戦うといった具合に、「人間を対象に戦って殺す」状況は意図的に避けられていたものと思われます。
逆に宇宙人が攻めてきて人間を殺す場合、女性エイリアンたちの軍隊は、好き勝手に地球の男どもを殺しまくってくれました。『超時空要塞マクロス』(1982)のメルトランディ軍がそうですが、“地球人の女の子”はミンメイ嬢やブリッジ三人娘に代表されますように、直接の殺人行為は手がけないように配慮されていましたね。
ガンダムシリーズでも、20世紀のうちは、女性パイロットによる殺戮戦闘は例外的にあったものの、派手に描くのは控えていたような。やはり伝統的に男子パイロットの戦いがメインとされていましたね。
ということで、こうなります。
あくまで原則であり、例外はありますが……
“ソロで戦う美少女は責任を逃れられないが、集団の一員となった美少女は、戦いの責任を組織に転嫁して逃れることができる”
20世紀の“戦闘美少女アニメ”作品には、そのような原則が裏側にそっと敷かれていたのではないでしょうか。
いかにも日本的、「みんなで殺せば怖くない」のです。
*
なお現実世界の女子アイドルの場合は……
例えば“地獄坂44”(仮称)みたいなネーミングで活動するアイドルグループは、現実の生身の少女たちがメンバーですから、アニメの戦闘美少女のような“バトルの責任を分散し希薄化する”ことはありません。
そのかわり、“リスクを分散・希薄化して、チーム全体でブランド化する”ことをしていますね。
アイドルが一人から三人という規模だと、歌唱力や演奏力、ダンステクニックなどの技量を磨き上げて、しかも個々人の生活や健康面などのトラブルを常に防止し続けなければ、芸能活動を継続できません。
これが、“地獄坂44”(仮称)のように中核メンバーがセンターを含めて数名、チーム全体で数十人という規模になれば、各人の技量が一定レベル以上に保たれれば、多少のデコボコがあっても全体としてカバーできるでしょうし、欠員が出ても補充し続ければ、チームの活動は永続的に維持できますね。メンバーが入れ替わってもチームは死なない。「巨人軍は不滅です!」となるわけです。
個人の技量の凹凸を、チーム全体で吸収する。
突然のトラブルをチーム全体でヘッジして、公演を維持する。
チームを永続させることで、“巨人軍”的なブランド化を図る。
この三つのメリットを、オール女子チームで発揮して、大成功したわけですね。あくまで個人的な見解ですが、そう思います。
このような大集団アイドルチームの運営システムをアニメ作品中の物語に逆輸入したのが『ストライクウィッチーズ』『ガールズ&パンツァー』『ハイスクールフリート』のシリーズではないかと思います。
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このように、「チーム化」することで、「個人の責任を分散し希薄化する」……という、いわば、“美少女無責任時代”にあって、「なぜか、たった一人で、必死になって、復讐という戦闘にこだわる」スカーレットはかなり異質に見えてしまいます。
一人で戦うことは、一人で責任を取ること。
これが、2026年という今の風潮の中で、観客に支持されず、どこか浮き上がって見えたのではないでしょうか。
一人で復讐する前に、どうして、チームを作らなかったの?
忠臣蔵の47人みたいに、です。
スカーレットがまずすべきことは、“忠臣蔵フォーティセブン”の結成ではないでしょうか?
だから、“ぼっちスカーレット”は、大衆に理解されなかったのかもしれませんね。
*
さて『果てしなきスカーレット』は“意思決定”の物語である……と、前章で述べさせていただきました。
プリンセスは自分の意志で人生の重大決定をします。
復讐をすべきか否か、生きるべきか死ぬべきか。
すると、そこで得るものと失うものを天秤にかけねばならなくなります。そうやって責任を取るのですね。
昔のアニメ、『白雪姫』のスノーホワイト姫や『眠れる森の美女』のオーロラ姫は、残念ながら自分の意志で重大な意思決定をするタイプではありませんでした。
自分の運命は王子様がキスをしてくれるかどうかに委ねられます。
物語では喜んでキスしてくれましたが、万が一とはいえ、してくれないケースもあり得るわけで、ヒロインの将来は相手の男によって左右されたわけです。
しかし20世紀から21世紀をまたぐ次期に、劇場アニメ作品におけるプリンセスの意思決定に大きな変化が訪れたと考えています。
最初から王子様に頼らず、自分の意志で人生を切り拓くのです。
下記の四作品に注目してみましょう。
『アナスタシア』(1997)
『アリーテ姫』(2001)
『かぐや姫の物語』(2013)国内興収24.7億円
『アナと雪の女王』(日本公開2014)国内興収254.7億円
【次章へ続きます】




