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418●『果てしなきスカーレット』(2025)⑩まとめ:五つの問題点とその対策(中)。ストーリーを脳内補完して楽しむのだ。

418●『果てしなきスカーレット』(2025)⑩まとめ:五つの問題点とその対策(中)。ストーリーを脳内補完して楽しむのだ。



(3)非戦を誓う聖青年が突然戦った理由は、愛! そしてスカーレットとの愛が、彼に罪と罰を背負わせた。


 「戦いをやめなさい」(P123)と、一貫して非戦を説き、傷ついた者は敵味方なく治療してやる天使みたいな看護師の聖青年。

 スカーレットが「目の前を見ろ、いい子ちゃん!」(P89)と叱責するほど、能天気な平和主義者です。

 そんな彼が突然になにかに取り憑かれたかのように弓を構えて戦闘に参加、敵を二名、瞬時にして血祭りにあげます。(P196-197)殺しちゃったよ!

 非戦の聖者から、血塗られた殺人戦士へと、あっという間の変心。

 この豹変ぶりはネットで話題になり、聖青年はどうしたのかと、その不可解さが議論されています。


 しかし、振り返ってみると……

 理由はちゃんと説明されているのですね。


 戦いに際して「躊躇が消え、ただ救う、という一心だけが残る」(P196)という描写から、聖青年は、“スカーレットを救いたい”一心で、それまでの平和主義の信条を捨てて、殺人をいとわない戦士に変貌したことがわかります。


 では、いつ、彼は殺人戦士へと宗旨替えしたのでしょうか。

 少し時間を遡れは、明瞭に描写されています。

 唐の高層が、戦う理由について「時に自衛や弱者の保護のために避けられない場合もある。やむをえず戦う場合(以下略)」(P174)と答える場面があり、その直後、同じページで、聖青年は平和の象徴である楽器のリュートを、戦うための武具である弓籠手ゆごてと交換しているのです。


 つまり彼はこのP174で“自衛のための戦争”を肯定したのですね。

 まさに自衛隊の立場ですが、彼はもしかすると、ニッポンの自衛隊の理念を具現しているのかもしれません。

 それゆえに、彼は細田監督の分身ではないか……とも思うのですが。


 さて聖青年にとって“自衛のための戦闘”とは、いかなるものでしょうか。

 もちろん前述の、“スカーレットを救いたい”一心ですね。

 スカーレットを守るのです。

 人を殺すことも覚悟して戦うのですから、彼はやはり、一人の男として、女のスカーレットを渾身から愛しているということでしょう。


 そういえば……

 二人が愛を交わす場面、ありましたね。少しページを遡れば……

 「聖に抱かれて、スカーレットは今までにはなかった新たな経験を得た」(P167)と書かれているではありませんか。

 これ、明らかに大人の男女の“濡れ場”です。リアルに視覚的描写したら十八禁となる場面、彼女はここで「愛というものの謎を解く鍵を発見したような高揚を味わった」(P167)のですから、これぞエクスタシーでオルガスムス。男女の合意に基づく繁殖行為に他ならないですよね。


 二人とも十八歳以上、性的に大人の男女です。

 するべきことをして、恥じる事は無いでしょう。

 愛し合ったのですから。


 では二人はどうして、愛し合う関係になったのか。


 実はこの“濡れ場”の直前、P155からP165の十頁にわたって……

 例の、あの、ネットの評判で作品最大の仰天不可解場面として物議を醸している“渋谷ダンス”の場面があるのです。

 聖青年がリュートをつまびき、「♪愛について教えてよ」と歌うにつれて、スカーレットの心は幻想の光のトンネルを飛び越えて21世紀の渋谷にトリップ、聖青年とともに幸せに舞い踊ります。


 この直前、P148~P150にかけて、スカーレットは父王アムレットの「許せ」という言葉を思い返し、激しく悩みます。父の言葉にはどのような意味が込められていたのか。そして父の言葉を受けて、自分はどうあるべきなのか。

 いわば『ハムレット』の「生きるべきか死ぬべきか」の問い掛けのままに、彼女は自分自身に“復讐に生きるべきか死ぬべきか”と問い詰めて煩悶したのでしょう。


 そこに、聖青年の演奏と歌。

 「♪愛について教えてよ」です。


 スカーレットはここで天啓を受けたと思われます。

 突如、彼女はソウルトリップして、あの“渋谷ダンス”のお祭りシーン。

 そこには、復讐心を脱ぎ去った、自然な、のままのスカーレットが。

 そして、聖青年との、タマシイの交流。


 こうして二人は“愛を知り”、そしてP167で二人は抱き合って“愛を交わした”のでしょう。

 「聖に抱かれて、スカーレットは今までにはなかった新たな経験を得た」(P167)という場面です。


 愛し合うこと、それは幸せそのもの。

 スカーレットにとってそれは、“復讐心を捨てて、幸せになる”こと。

 しかし聖青年にとっては、“愛する彼女を守って、戦う使命を担う”ことになったわけです。


 だから聖青年はP74でリュートを武具に取り換え、そしてP196で弓を引いて、スカーレットを捕らえたローゼンクランツとギルデンスターンを、自らの信念に従って、ためらわずに殺害したのでした。


       *


 このように、非戦の平和主義から、愛する人を守るための戦闘を肯定するに至った聖青年。

 スカーレットとの愛が形を成すことで、彼の心理と行動が大きく変化していったことが、実は順を追って、小説の本文中に説明されています。


 そうです、あの不可解極まりない、二人の“渋谷ダンス”と“弓による戦い”は、二人の愛が育まれるという因果関係によって、繋がっているのですね。

 ストーリーは多少不自然な箇所はあるものの、全体としては大きく破綻することなく、無理なく動いていると思われます。


 なのに、“渋谷ダンス”と“弓による戦い”が、観客にとって大きな違和感を持って受け止められていることは、やはりアニメ作品として、絶対的に説明不足であると言わざるを得ません。


       *


 さてしかし、スカーレットを守るために“戦闘”するに至った聖青年は、同時に彼なりの“罪と罰”を背負うことになったようです。


 平和のリュートを手放して、武具と交換したこと。

 これは聖青年が、とうとう自分が固く信奉するおきてであった平和主義を捨てたことになりますね。

 そこに彼は、罪悪感を抱いたはずです。


 スカーレットとの“幸せな愛”と引き換えに、彼は“人をあやめた”のですから。

 これはやはり彼にとって、重い“罪”なのです。


 その責任は、物語のラスト近くで、彼自身が引き受けることになります。


 彼は、スカーレットと別れねばならなくなります。

 それが、人を殺した聖青年の“罪と罰”なのです。


 P258の“別れのキス”がそれですね。


 こう考えると、『果てしなきスカーレット』は、二人の心理と行動の変容に、おおむね一貫性のある因果関係が通されていることがわかります。


       *


 スカーレットと聖の“愛と死”は、作品のテーマを総括する結論を伝えています。


 スカーレットは聖青年を愛し、聖青年の教えに従って、復讐心を捨て去ります。

 それは“渋谷ダンス”に見るような、幸せの時間を彼女にもたらしました。

 しかしその反面……


 聖青年が、スカーレットの復讐を肩代わりしたのです。

 弓矢を駆使して、敵二名の命を奪う。

 これまでの彼とは真逆の行動ですね。


 スカーレットを深く愛するようになったが故に、彼は“愛するひとを守る”という使命ミッションを自らに課してしまいました。

 『宇宙戦艦ヤマト』にみる“愛の戦士”に変貌したのです。


 “愛する人々を守るためなら、殺してもいい”


 この命題が、聖青年を支配し、人を殺し、そして罪を背負わせました。

 スカーレットが復讐をやめる代わりに、聖青年が彼女の復讐の一部を実行した。

 聖青年はその罪を、自分が生きる可能性と引き換えにして、神の御前みまえで、あがなわねばならなくなったのです。


 これまでは、復讐心に固着するスカーレットに“死”が、そして他者を生かすために奉仕する聖青年には“生”が約束されていたのでしょう。

 しかし結果は真逆になります。

 聖青年はスカーレットの復讐を代行することで……

 「君は生きる!」(P255)と、スカーレットに“生”に戻るチャンスを譲ったと解釈できないでしょうか?


 “愛することは、生きる機会を譲ること”


 このあたりに、『果てしなきスカーレット』の遠大なテーマが凝縮されたように思われます。ですから……


       *


 作品内容は、まぎれもなく良作なのです。

 しかし、さまざまな箇所で、説明不足が祟って作品の真意が伝わらず、観客を困惑の渦に巻き込む、“困ったちゃんの超大作”になってしまった。

 そのことをあらかじめ承知して、作品を繰返し鑑賞して、頭の中で想像をめぐらすことでストーリーを補完すれば、これまでのアニメにはなかったアプローチの、傑作マスターピースとして楽しめるのではないでしょうか。


 楽しむために、ひと手間も二手間も三手間もかかる、とにかく“メンドクサイ”難物の傑作には違いないのですが……


       *



(4)ここは“死者の国”ではなく“生も死も過去も未来も溶け合った世界”。だから臨死の二人の“夢”が『パプリカ』化したのだ。


 スカーレットと聖青年が旅する、“死者の世界”。

 もう誰もがほぼ百%、そう信じていますよね。

 しかしP12で、砂かけババァ……あ、水木しげる先生じゃなかった、ハナクソバーサンが、一言、語り掛けます。

 『……ここはね……』

 スカーレットは答えます。

 「死者の国」


 これがいけなかった。この場面で、観客も読者もみんな、ここは“死者の国”と思い込んでしまいます。

 バーサンは真実をあえて告げず、スカーレットが答えた形にしたのです。

 つまり、監督様がわざと仕組んだ、ミスリードの罠だったのですね。


 世界の全てをお見通しであるハナクソバーサンは、たぶん、神様の一部分なのでしょう。神様という巨大なAIみたいな知性体の、無数にある端末インターフェイスの一つなのでしょうね。ちなみにサンダードラゴン(公式Xによると全長五キロメートル)も、神様の一部分と思われます。


 それが私たち観客に「ここは死者の国」と思い込ませた。

 監督様、これはズルい。

 観客はこの世界の真の正体を知らされず、全編を誤魔化されたまま、P247まで置き去りにされてしまうのです。ハナクソバーサンはそこで宣言します。

「人間はいまだにここを、死者の国だの見果てぬ場所などと勝手に呼んでいるが、大きな間違いだ」


 ああっズルいぞ、ズルすぎるぞ!

 これじゃ世紀の“後出しジャンケン”ではないか!

 “死者の国”だけでなく“見果てぬ場所”まで、物語の最後になって自己否定してしまったとは! 何たるペテンか!

 観客も読者も、ここでドドッとズッコけるのです!


 じゃ、何だったんだよこの美しく壮麗な死者の世界は!

 背景CGにやたらめったら凝りまくる監督様の自己満喫世界だったのかよ……

 と、観客は怒り心頭……ではないでしょうか。


 ではP247でハナクソバーサンがこの世界の正体を明かしてくれるかと言えば、そうではないのです。

 「ここは生も死も混じり合う場所。対立するものではない。生死だけでなく、時もまたしかり。ここでは過去も未来も常に溶け合っている。お前たちが共にいるのも、そのせいだ(後略)」


 またまたズルい監督様!

 これではP7のドしょっ鼻のプロローグの最初のセリフに舞い戻っただけではありませんか!


 てェことは、例によって「観客の皆様のご想像にお任せします」ですかい?

 ああ、めんどくさ……

 と、観客が見放してしまい、これもまた酷評の一因になったことと思われます。

 要するに、P269の最終頁まであとすこしのP247で、世界の正体をキチンと伝えてくれなかったバーサンと監督様の怠慢がここに見られるのですよ。


 仕方がない。想像してみましょう。

 主人公二人がさまよった、この世界の正体を。


 主人公二人が置かれた状態から、推測することはできます。

 二人はこの世界で、「生きるべきか死ぬべきか」を選択しました。

 P254に「to be」「or not to be」と明記されています。

 そうです、この世界はモチーフとされた『ハムレット』が人類に向けたグレートクエスチョンに“答える場所”として監督様が用意した時空間だったのです。


 「生きるべきか死ぬべきか」を“選ぶ世界”。

 ずっと私たちが“死者の世界”だとイメージしていた世界とは、少し意味合いが異なったのです。

 それも、物語の初めから。


 平たく言うと、この“死者の世界”は、“死に瀕して臨死状態に陥った人が経験する、生と死の境目にある曖昧な領域”なのですね。

 そこはボーダーラインでありトワイライトゾーン。

 『君の名は。』(2016)の“誰そ彼どき”で、過去の死者と未来の生者、三葉ちゃんと瀧君が、カルデラ沿いの不思議な夕暮れ空間で出会いますが、あれに近い幻想的な世界だと思われます。


 ただしスカーレットと聖青年は臨死体験中なので、肉体はまだ現世に置いていますね。

 二人はいわば“タマシイ”の状態で、この“死者の国”にトリップしている。

 正確には、「生きるべきか死ぬべきか」を選ぶ世界です。

 二人はここで、“生と死を選び取る”ことができるのです。


 で、おそらくこうでしょう。


 スカーレットは愛を知り、他者に死を与える復讐心から解脱することで、自分の生を選び取ることができた。

 しかし、逆に……

 聖青年は彼女を愛したがゆえに、彼女の復讐を代行したことにより、その罪をあがなうために死を選び取った。


 やや複雑ですが、そう考えますと、スカーレットはまさに、この物語のテーマを体現することになったと言えるでしょう。つまり……


 復讐する心は、愛によって救われる。しかし……

 そのかわり、愛する者を失うことにもなるのだ。つまり……


 “復讐心の強さと根深さは、最も愛する人を犠牲にする”


 作品テーマは、ここまで収斂したことと思います。

 監督様が語りたかったテーマ、これではありませんか?

 “復讐心”が何を残すのか。

 これは見事な回答だと思います。


       *


 そこでこの“死者の国”の正体についてもうひとつ。


 死に瀕した、臨死体験中の二人の“タマシイ”が、この“生と死だけでなく、過去も未来も溶け合った世界”に出会い、共に旅までします。

 しかし二人の肉体ボディは、まだ現世に置かれた状態です。


 ということは……


 二人は、臨死状態で“今わの際”の夢を見ている。


 この一瞬先で、死が確定するのか、生の世界に戻ることができるのか、その分かれ目の世界にいる。

 しかも、そこは時空を超えた、過去も未来も溶け合う世界。


 スカーレットは16世紀という過去で、“今わの際”の夢を見ている。

 聖青年は21世紀という未来で、“今わの際”の夢を見ている。

 この二人の夢が“溶け合った”。

 二人は互いに、“今わの際”の夢を共有したものと思われます。

 死の直前の瞬間、時空を超えて二人のタマシイ、つまり意識がガッチリと繋がったのですね。

 そこで“夢の共有”が実現した。

 それも二人だけでなく、過去の時代で死に瀕した多くの人々が見ている“今わの際”の夢と結合し、みんなで共有したのですね。


 夢の共有状態。


 二人がさまよった世界の正体をそう考えると、クローディアスとその一党が先着していても、その他の登場人物が中世のデンマーク人などに偏っていても、なにもかも奪われたはずのキャラバンに食糧が豊富なのも、適当に都合よくサンダードラゴンが天罰のカミナリを落としてくれたり、唐突に渋谷でダンスに興じる不条理も、まあ納得できますね。


 これは、二人が共有する“夢”なのですから。


 長い夢ですが、物理的には、死に瀕して“臨死状態”の、ほんの一瞬に見ている、“今わの際”の夢なのです。


 夢なんだから、どんな不条理な現象でも、アリアリなのですね。

 

       *


 このように“夢の共有”現象だと考えれば、だいたい全編スッキリと納得できます。

 で、“夢の共有”と言えば……


 今敏監督の傑作アニメ『パプリカ』ですね!


 46歳の若さで夭折されたという天才アニメ監督、今敏。

 長編アニメとして遺作となった『パプリカ』は、彼の作品の中でも超絶級の傑作として、歴史に名を刻んでいます。

 今でも再評価されて、『パプリカ』の4Kリマスター版が、公開20周年となる今年、2026年1月2日よりTOHOシネマズ新宿をはじめ全国の劇場でリバイバル上映されているのです。


 なんと、奇しくも『果てしなきスカーレット』に並んで今現在、スクリーンに輝く『パプリカ』。

 劇場での鑑賞が無理でもこの機会にぜひ、円盤等でご覧になって下さい。

 あの傑作の前では、観客なんてまるで無力な赤子。

 怒涛のごときエネルギーに満ちたイメージの滝つぼで、ただ溺れるに任せるしかありません……。


 あの『パプリカ』と物理的に同じ状況が、臨死体験によって引き起こされている。

 それが『果てしなきスカーレット』なのだと解釈すれば、無数の矛盾点や謎や説明不足が、一気に解決するのではないかと思われます。


 スカーレットと聖青年は、臨死体験の夢を、時空を超えて共有した。

 そこで二人は“復讐心”をめぐって「生きるべきか死ぬべきか」を選び取った。

 そう理解できます。


 しかしそういうこと、あの砂かけババァ、じゃないハナクソバーサンがちゃんと説明しないからいけないのです。知ってるんだからちゃんと言え!

 これはあのバーサンキャラの大怠慢です。

 超巨大ピカチュウ、じやないサンダードラゴン様のビリビリ攻撃を受けて、ドジ踏んだドロンジョ様みたいに反省してもらいたいものです。



    【次章へ続きます】


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