321●『君の名は。』⑮“謎パーツ”を分離する。奥寺先輩は、いなくても問題なかった! 時間SFの魅力の必須条件は“二人が生身で出会うこと”!
321●『君の名は。』⑮“謎パーツ”を分離する。奥寺先輩は、いなくても問題なかった! 時間SFの魅力の必須条件は“二人が生身で出会うこと”!
『君の名は。』に、“おサカナ三枚おろし式・謎パーツ分離法”を適用していきます。
検討の対象となる“謎パーツ”は下記の五点。
①町長はなぜ住民の避難を決断できたのか?
②彗星隕石はなぜ三回もほぼ同じところに落ちるのか?
③男女の魂の“入れ替わり”はなぜ物語に必要だったのか?
④奥寺先輩と司は、なぜ瀧君の飛騨探索についていったのか?
⑤テッシーとサヤちんは、なぜ彗星隕石落下を信じたのか?
*
次に、④です。
④奥寺先輩と司君は、なぜ瀧君の飛騨探索についていったのか?
そりゃまあ、「なんとなく瀧君が心配で」ということでしょうが、その理由、なんだか軽すぎませんか? 根拠薄弱というか。
というのは、つい先日に瀧君との東京デートで、奥寺先輩は「キミ、他に好きな娘がいるでしょ?」と瀧君を振っているからですね。
問題は、それでも奥寺先輩が瀧君の飛騨旅行に同伴することが物語の進行上、どうしても必要だったか否かということです。
入れ替わっていた時の記憶をもとに瀧君が描いた、三葉の故郷らしき風景画だけを頼りに、その場所を探す探索の旅。
これってまるでアニメファンたちの“聖地巡礼”と同じですね。瀧君たちの聖地巡礼行為が、その後、『君の名は。』のファンによって追走で聖地巡礼されることになるのですから、ホント、よくできたものです。
にしても、瀧君が描いたイラストが風景画ばかりなのは不思議。
これだけ画才があるのなら、なんで、三葉の似顔絵を描かないのだ?
三葉に対して恋心があるなら、もう絶対に肖像画ですね!
でもなぜか、瀧君はそうしなかった。
理由は明白。
彼女の肖像を描いたら、同じ時空移動映画『ジェニーの肖像』(1948)と似たもの同士どころかパクリ疑惑が巻き起こるほどクリソツになってしまうからですね!
そんな、制作者(たぶん監督様)のオトナの事情を忖度して、瀧君は三葉の肖像を断念したのでした。
……と、バカ話は横へ置いといて。
奥寺先輩と司君、二人は瀧君の飛騨の探索旅行についていきますが、率直に言って金魚のフンみたいに、必要のない存在ですね。
だって途中で瀧君は二人と別れてしまいます。
これが瀧君の一人旅だったとしても、一人でたまたまあのラーメン屋に立ち寄って、糸守町出身のご主人に出会うことができれば、それで旅の目的は達成されたはず。
(作品の冒頭近くの、三葉の通学途中の背景でラーメン屋さんの軽トラが映り込んでいましたね。このあたり、実に細やかな伏線です)
そして考えてみれば、瀧君が東京のイタリアンレストランでバイトしていなくて、奥寺先輩がストーリーの中に存在しなくても、物語の骨子は成立することが想像できますね。
奥寺先輩はあの2013年10月4日夜の彗星災害と、糸守の住民避難には全く関わりませんので、いてもいなくても、物語の結末には影響しません。
仮にシナリオから奥寺先輩の登場場面とセリフを、ことごとく赤線を引いて削除したとしても、瀧君は旧糸守町を発見し、彗星災害のことを知ったはず。
まあ、司君はチョイ役ですからどちらでもいいとしても、これほど頻繁に登場して蘊蓄めいたセリフが魅力的な奥寺先輩が、仮に最初からスパッと姿を消していても、瀧君と三葉のドラマに必要不可欠だったかと言えば、そうではないことに驚かされます。
いかにも重要な人物に見えながら、最初からいなくてもいいという、ミステリーな存在。
奥寺先輩がおられなくても彗星災害は来るし、瀧君は過去の三葉たちを救うために“口噛み酒”を呑んで時空を超えたはずなのです。
では、なにゆえに奥寺先輩が登場していたのか?
理由はたぶんこれでしょう。
奥寺先輩は“瀧君と三葉、この二人の間に入って、二人の恋を燃え立たせるための触媒……ラブ・ブースター”だったのです。
瀧君と東京デートした帰り道に、「瀧君、以前は私が好きだったでしょう、でも今はほかに好きな人がいる」と、瀧君の淡い恋心をすげなく振ることで、知らない彼女(三葉)の方へ、瀧君の背中を押してあげます。
一方、三葉は、瀧君(中身も瀧君)が奥寺先輩と東京デートしたことを知って、そのデートを自分でお膳立てしたくせに、胸が苦しくなって、切なく悲しい嫉妬の心を自覚することになります。つまり、奥寺先輩は間接的に、三葉の恋心にもボッと着火したわけですね。
奥寺先輩は主人公二人の恋の着火娘であり放火女であり、ちょっと言葉が悪くて済みませんが競馬の馬の種付けを促進する“当て馬”の役割を果たしたわけです。
それなら奥寺先輩がこの物語に必要不可欠であって、立派に存在意義があるじゃないか……と思われるかも知れません。しかし実際はその逆なのです。
あえて奥寺先輩のような人物を出さねばならなかったのは、なぜなのか?
奥寺先輩を二人の間に噛まさなければ、「瀧君と三葉が恋に落ちる理由が薄すぎる」という事情があったからではありませんか?
思えば瀧君と三葉は、互いのボディを相互ジャックしただけであり、いろいろなドタバタを共通体験しますが、それだけで“お互いを好きになる”相思相愛の恋に進んでいく理由としては、ちょっと弱すぎますね。
だって、たびたび入れ替わった相手のお身体は、良くも悪くも完全把握しちゃってます。そう、“悪く”も。
お風呂もトイレの排泄行為も、鼻水もゲップもオナラも共通体験したとなれば、そんな相手を、それだけで、ハグまでならともかく「キスしたい、触りたい、ベッドインしたい……」どころか、「かけがえのない人、愛する人、結婚したい人」にまで直行で進めるかというと、どうでしょう?
なにかもっと、二人が決定的に“運命の出会い”を自覚する、別な事件が欲しいところではありませんか?
それは例えば、お互いに相手の幸せのために、自分を押さえ、あるいは犠牲にして、相手に尽くしてあげる行為……とかですね。
二人の“入れ替わり”があった期間は、瀧君の時間では2016年の9月初めから10月初めまでの一か月間、入れ替わりは週に三回ほどです。
とすると、入れ替わりは全部で12回程度。
それだけで、瀧君が矢も楯もたまらずに飛騨地方まで彼女を探しに行くには、二人の交際の深さが、ちょっと物足りなかったのかもしれません。
だから物語の一角に、二人の恋をエイヤッと押し進める奥寺先輩が配置されたのではないかと思います。
*
したがって、「④奥寺先輩と司君は、なぜ瀧君の飛騨探索についていったのか?」のパーツは物語の骨子から分離して、初めから無かった要素とすることができます。
ただし、「“奥寺先輩がいなくても、瀧君と三葉の恋が相思相愛で燃え上がることになる事件が、二人の間に発生する”という代替手段があった」という条件付きということになります。
*
では、作品中のいつの時点で、二人の相思相愛は完成したのでしょうか?
2016年、三葉が三年前にこの世を去っていた……と悟ったとき、瀧君は三葉を失うことによる喪失の大きさを自覚し、彼女を救いたいと切望します。
このとき瀧君は、三葉を心から好きになっている自分に気がついたわけですね。
それまでは奥寺先輩にも惹かれていた自分が、はっきりと三葉の方を選ぶ。
そして三葉が、2013年の自分の死を自覚し、瀧君がその自分を救おうとしてここに来てくれたと知ったとき、瀧君への三葉の愛が完成します。
それは、二人が生身で出会えた時。
あのご神体のあるクレーターの縁、感動的な“カタワレ時”の場面ですね。
このとき二人の“入れ替わり”は解消して、二人はそれぞれ自分自身に戻ります。
瀧君は三葉の手のひらに、なぜか自分の名前でなく「すきだ」という告白メッセージを残します。
この時点で、二人の愛はようやく成立したのですね。
自分の名前でなく「すきだ」になったのは、正式な恋の告白場面が、ここでしか作れなかったという事情もあるでしょう。
ということは逆に言うと、二人が入れ替わって、紙のメモや、スマホに日記メッセージを残していた時点では、「好きだ」と告れるほど、二人の感情が接近していなかったことを物語ります。
それはそうですね、納得できます。
ただ文通しているだけでは、まだホンモノの恋愛とは言えないでしょう。恋愛感情は抱いても、相手の実態を確認していない、夢のような仮想的な恋愛感情だと思うのです。
ですから二人は、どこかの時点で、生身で出会って、お互いの“実存”を確認することが必要だと思われます。
というのは……
“入れ替わり”の記憶は急速に薄れていき、紙のメモやスマホの日記が残されていなかったら、眠っているときの夢のようにはかない思い出と化してしまうからですね。
そういった、頼りない記憶だけでは「好きだ!」と告れるほど恋するには、二人の体験が物足りないということでしょう。
だから、“カタワレ時”の魔法めいた出会いであっても、二人が“生身で出会う”ことが、二人の相思相愛の恋を完成させるために必要不可欠だったわけです。
*
このように、“時間に引き裂かれていた過去と未来の二人が、不可能の壁を超えて、生身で出会う”ことが、多くの時間SFに共通する、劇的クライマックスの必須条件であることがわかります。
『君の名は。』だけではありませんね。『時をかける少女』(2003)が典型例ですし、『ジェニーの肖像』(1948)も『ある日どこかで』(1980)もそうですね。
いずれも、過去と未来に引き離されて、「出会うはずのなかった二人が生身で出会う」ことで、お互いの人生を決定的に変えていきます。
そしてどちらの作品も、再び時間によって二人が引き裂かれてゆく……という結末の切なさが、作品の価値を不動のものとしています。
ただし『グランド・ツアー』(1992)はややユニーク。
こちらでは、未来と過去の自分自身が生身で出会う、という、なんとも面白いシチュエーション。
町の半分を壊滅させる危機がせまっていることを、まず未来の自分が過去の自分に向かってクドクドと説得しなくてはならないのです。この場面が意外と面白く(相手が自分のクセに、素直に信じてはくれないんですよ)、“これもSFの楽しさ”と実感させてくれます。
そもそもウェルズの古典名作『タイムマシン』にしてからに、主人公タイムトラベラーの人生をガラッと変えちまったのが、“出会えるはずの無い未来の少女との生身の出会い”ですからね。
あれから二人はどうなったのか……
結局のところ、最後の結末が幸せなのか不幸なのか、ビミョーなところがウェルズらしいですが……
ということで余談ですが……
時間SFの醍醐味は、“時間的に絶対出会えない二人が出会うこと”であり、そのためにどのような仕掛けなりトリックを用いるか、そこが作家の腕の見せ所。
タイムトラベル、タイムトリップ、タイムリープ、タイムワープ、タイムスリップ、タイムトンネル、時震などいろいろあれど、“絶対に出会うはずのない二人を会わせることで、何が起こるか゛……これが、時間SFの、昔も今もすたれない魅力というものでしょう。
【次章へ続きます】




