319●『君の名は。』⑬“謎パーツ”を分離する。トシキ町長の不自然。なぜ彼を町長にしたのか? そして『グランド・ツアー』(1991)とのクリソツ感。
319●『君の名は。』⑬“謎パーツ”を分離する。トシキ町長の不自然。なぜ彼を町長にしたのか? そして『グランド・ツアー』(1991)とのクリソツ感。
※この項は、本稿の第67~77章の続きです。
それでは『君の名は。』に、“おサカナ三枚おろし式・謎パーツ分離法”を適用してみましょう。
※ここからは劇場アニメ『君の名は。』の本編に限って分析してみることにします。ノベライズ本や外伝の内容には触れません。“あとだしジャンケン”な解釈になりますし、そこまで言及すると物事が複雑になりすぎて私の理解を超えてしまうからです。
なお以降は所謂ネタバレ要素が多発しますので、『君の名は。』を未見の方は、必ずDVD等で本編をご覧になってからお読み下さい。絶対にですよ!
検討の対象となる“謎パーツ”は下記の五点。
①町長はなぜ住民の避難を決断できたのか?
②彗星隕石はなぜ三回もほぼ同じところに落ちるのか?
③男女の魂の“入れ替わり”はなぜ物語に必要だったのか?
④奥寺先輩と司は、なぜ瀧君の飛騨探索についていったのか?
⑤テッシーとサヤちんは、なぜ彗星隕石落下を信じたのか?
*
最初に……
①町長はなぜ住民の避難を決断できたのか?
町長トシキは三葉の実父です。
執務机のトシキを前にして一葉ばあちゃんと四葉がむっつりと集う町長室に、三葉(カタワレ時を経て、中身は三葉自身に戻っている)が飛び込んできた場面ですね。
そのあと数分の展開が本編では伏せられてブラックボックスになったので、物語最大の謎を巻き起こした場面です。
この場面は、“謎パーツ”ですが、物語の結末に直結する内容のため、ストーリーの骨子から分離することはできない……と考える人が多いのでは?
しかし……しかしです!
もう一度、よく考えてみましょう。
そもそもなぜ、物語のヒロイン・三葉の実のお父さんが、わざわざ神主を辞めて、町長をしていなくてはならないのか?
作品中では、妻・二葉を病で亡くした事がきっかけで、一葉ばあちゃんとの仲がこじれて家を出た……とされています。
別居するのは構わないですよ、本人の自由です。
しかしここは都会でなく、とんでもないド田舎。
遠くの土地へ流れていくならともかく、同じ町内で別居とはこれ如何に? と町民を挙げて噂となり、やれ浮気だろ妻の呪いだありゃ天罰だと、ドロドロのクチコミ炎上となったはず。
町内唯一の権威ある神社に盾ついて出奔した男、それが住民の絶大な支持を得て町長選挙に勝利しているのは、これまた不思議なことです。
そういった不思議不可解不自然な状況を踏み越えて……
“それでも三葉の父が町長でなくてはならない”事情が、作者様すなわち監督様にあった……ということを物語っているのではありませんか?
物語のクライマックスでは、町長のトシキに、娘の三葉(中身も三葉)が、必死の形相で対峙します。
そこでブラックボックス。
あとから新聞や週刊誌の記事で、どうやら三葉は町長トシキを説得することに成功したらしい……ということがわかります。
そこんところ、観客としては「本当のところは何があったんだ?」とヤキモキさせられてしまい、何年もフラストレーションが尾を引いてしまうのですね。
そういうことですと……
“町長が父親だから、三葉は説得に成功した”ということですよね。
もしも“町長が赤の他人だったら”どうなるのか?
三葉たちは町長室に入ることすらできず、説得なんて夢のまた夢でしょう。
ただでさえ執務時間終了後の人手不足な状態で、変電所の爆発炎上とサヤちんの怪放送で、町役場はてんやわんやなのですから。
とすると、こういうことですね。
住民を避難させる……という解決を導くためには、“無理くりでも、トシキを町長にしなくてはならなかった”のです。
そんなわけで、トシキ町長には、物凄く“取って付けた感”が付きまとうのです。
本来なら、一葉ばあちゃんとコジれたトシキ氏は遠方へ家出するか、関係を修復して以前のまま神主を続けているかのどちらかでしょう。
町長は別人……たぶんテッシー君の父、勅使河原社長ご自身が立候補して当選しているはずです。あれだけ策謀的な集票力を発揮されるのですから、“自分自身が町長になる”と決心されていて当然でしょう。
となると、“トシキ氏を町長にする”という設定は、最初からそうだったのではなく、作品内容を第一稿、第二稿……と検討してゆく過程で、「やはり、トシキ氏が町長となって住民の避難を決定する以外に、事件の解決策がない」という結論に至ったから……ということでしょう。
おそらく作品の初期の企画では、トシキ氏は町長でなく、宮水神社の神主だったのでは?
しかし神主のままでは“住民を避難させる権限がない”ので、「避難指示を出させるため」に町長になった……としか考えられないのです。
いわば、作為的に町長にさせられたキャラクターというべきでしょう。
*
そこで、もう一つの可能性を想定してみましょう。
もしも、“住民を救う方法が他にあった”としたら、町長としてのトシキは物語に必要ありません。
彼は、“町長という、住民を避難させることのできる唯一の権力者として登場しているから、物語に必要不可欠なように見えている”だけかもしれないのです。
たとえば、このとき、作品に描かれてないアクシデントがあって、町長、というか町役場が機能しなかったとしたら……?
その日、三葉(中身は瀧君)が変電所爆破の直後に町役場へ直行して、地上線とケータイ電波の電話回線を切断することができたなら、サヤちんの学校放送が中断されることはなく、それを本物と思った住民が大挙して学校へ避難していたでしょうね。
町役場の勤務時間は終わっていて、当直者だけが残っている人手不足の状態で、しかも変電所の爆発で、消防団と警察がすぐに急行して出払ったはず。
このとき町役場の中の時計は午後6時45分あたりのようです。
その前に、三葉(中身は瀧君)がもう二人ばかり協力者を得ていて、町長トシキに麻酔薬でも嗅がせてフン縛って物置にでも放り込んでおけば、住民たちのほとんどは高校へ避難してしまい、彗星落下の午後8時42分を迎えたのではないでしょうか。
(なおトシキ町長の名は2016年に瀧君が見る死亡者名簿に見あたらず、彗星災害の後日の週刊誌の写真に役場の建物があるので、町役場はもともと被害範囲をギリで外れていたようですね。だから、彼を物置に放り込んでおいても安心です)
つまり、「町長が避難指示する以外に住民が助かる方法はない」という結論が“ありき”となっているから、“三葉が説得できる町長”にするために「トシキ=町長」としたのであって、この条件に拘泥しなければ、トシキ氏が町長でなかったとしても、物語のスタートから結末までの因果関係に影響しないのです。
言い換えれば……
「町長が住民の避難を指示する」以外の代替手段があれば、町長トシキの存在は不要なのです。
トシキを町長職からお払い箱にしても支障ないのですね。
その場合、トシキはどうしているかというと、三葉たちの父親として宮水神社の神主を続けていることになりますね。
つまり、一葉ばあちゃんがここまで苦労しなくても、神主トシキが祭りを取り仕切って主宰していたはずです。
そのように設定しても、物語は破綻せずに進行しますね。
したがって、「①町長はなぜ住民の避難を決断できたのか?」のパーツは物語の骨子から分離して、初めから無かった要素とすることができます。
シナリオ、もしくはノベライズ本の該当部分を、頭の中で赤線を引いて消去してみましょう。
ただし、「町長が住民に避難を指示する」以外の代替手段が講じられる……という条件付きということになります。
その代替手段については、のちに触れます。
*
【作品の問題点 1】
ちょっと横道にそれますが、このように町長トシキという人物、よくよく不思議というか、“ミスター不自然”と言いたくなるほど違和感のある人物です。
じつは、最終的に作品に採用された「トシキ=町長」という設定には、ひとつの大きなストーリー構成上の問題点が隠されています。
それは、彼が2013年の彗星災害で、生き残っていたということ。
瀧君が2016年の現地の図書館で見た死亡者名簿に町長トシキの名は見あたらず、物語の終盤で映る彗星災害の後日の週刊誌の写真に役場の建物があるので、町役場はもともと被害範囲をギリで外れていたようです。
※※※ このとき瀧君が現地図書館で確認した新聞記事の中で、“町長選の延期”を伝える見出しの本文に、“災害の事後処理に宮水としき町長があたる”旨の内容があり、町長トシキの存命が明記されています。
とすると、作品では重大な事実を描写せず、スルーしたことになります。
物語の中盤、瀧君が2016年の現地で糸守の彗星災害を知って驚愕し、その絶望の中から、「なんとかして彗星災害前の三葉と入れ替わって、みんなを救おう」と決意する場面に戻ってみてください。
このとき、トシキは町長職こそ辞しているかもしれませんが、3年前に三葉と四葉、実の娘を二人とも彗星災害で失った悲しみと“あのとき、どうにかできなかったか”というトラウマを抱えて、どこかで生きていたとも考えられるのです。
としますと、真っ先に「過去へ戻りたい!」と渾身から願ったのは、瀧君よりも、まず父親トシキだったはず。
そしてトシキは宮水神社の元神主です。
“男女入れ替わり”の現象と、その現象を意図的に引き起こす事のできるギミックとして、“口噛み酒”の効果は知っていたはず。
「なんとしても過去へ戻り、あの災害発生のときに、三葉と四葉だけは町長室に招き入れたい。そうすれば二人の娘は助かったのだ」
そう考えて行動するでしょう。
2016年の瀧君よりも先んじて、ご神体の祠に赴いて、三葉か四葉の“口噛み酒”を呑んだのではないでしょうか。
入れ替わり先の年齢を考えれば、三葉の酒を選んだのでは?
となると、超マズいことになりますね。
中高年のおっさんである実の父が、17歳の実の娘の肉体を支配する。
お胸モミモミ、お尻ナデナデ……
切羽詰まったトシキの意志は切なくも理解できますが、これを映像化したら相当な問題作に化けてしまいますね。
だから、そういうことは起こらなかったのだ……と、黙ってスルーしたのではないでしょうか。
しかしやっぱり、それはちょっとズルい展開。
せめて2016年の瀧君が、傷心のトシキに出会って、“口噛み酒”の秘儀を教えてもらう……という展開があってもよかったのでは……でも、それもいささかキモいですね。
実の父親が自分の娘の肉体を、赤の他人の少年に乗っ取られるようにおススメするわけですから。
それやこれやで、スルーかなあ。
この点、作品の大きな問題点です。
そう断言する理由がもう一つあるからです。
隕石落下で町の半分が消滅。
最愛の娘を失って、自分だけは安全圏で生き残ってしまった父親。
しかも、彼は何年か前に娘の母親である妻も失っていた。
彼は決意する。
娘を救うため、そして町の人々を救うため、過去に戻るのだ!
これ、トシキのことではありません。
映画『グランド・ツアー』(1991)の基本設定です。
C・L・ムーアの傑作短編『ヴィンテージ・シーズン』を原作とするだけあって、今やカルト的な存在となった、時間SF映画の、知られざる金字塔。
個人的には、『ジェニーの肖像』『ある日どこかで』と並ぶ、時間SFの最高峰だと思いますよ。
いやーヤバかった。
もしも父親トシキが実の娘救いたさにタイムトラベルを試みたら、『君の名は。』は、『グランド・ツアー』(1991)のクリソツパクリを疑われるスレスレ作品にされかねないところでした。
だから、父親トシキの存在は、2013年以降、あえてスルーされていたのだと思いますが……
やはり、作品に残された、一つの謎めいた問題点ということになりましょう。
【次章へ続きます】




