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31●『無責任艦長タイラー』(1)…有言実行のド責任艦長タイラー! 人格の豹変と、進水式の謎。あれは共同幻想?

31●『無責任艦長タイラー』(1)…有言実行のド責任艦長タイラー! 人格の豹変と、進水式の謎。あれは共同幻想?







 “オッドマン仮説”というものがあります。


 組織集団の中に一人、異端者ともいえる変わり者(オッドマン)を入れると、日本的には和を乱すヨソモノとして叩かれ排除されがちですが、じつは、そのような人物がいた方が想定外の非常事態に適応して活躍してくれるなど、組織全体としてはうまく機能する……という考え方です。


 ちょっと長い道草になって恐縮ですが……


 この“オッドマン仮説”を最も効果的に応用した成功作はTVアニメの『無責任艦長タイラー』(1993)でしょう。

(小説作品はやや世界観が異なるので、ここではアニメ版の方に準拠させていただきます。また、準拠するのはTVシリーズ全26話のみです。それ以降の映画版やОVAはパラレルワールドのタイラーだと理解しています)


 この物語、いやもう全編がオッドマン仮説でして、惑星連合宇宙軍というお役所的に硬直した大組織におけるオッドマン・タイラーの一代記といってもいいでしょう。

 組織の上司にあたるミフネ中将とフジ中将が常々、目の上のタンコブみたいに忌み嫌う無責任男のタイラーですが、結果、フタを開けてみるとタイラーの大勝利。

 これ完全に、後述する“クレージー映画”の初期パターンです。


 最終話のミフネ中将の独白で、“猿の群れの中によそから紛れ込んだ異端の一匹”に例えて、タイラーのオッドマンぶりが語られています。

 まさに“非常時にこそ強い”大活躍で惑星連合宇宙軍に無類の貢献をなしたタイラー。しかしその英雄への評価を渋り、組織の異端児として散々つまはじきにしておきながら、よく考えてみると……タイラーの活躍に最も救われたのは将官である我々ではないか……ということですね。


 ミフネのセリフ「異端は組織の要《かなめ》」が、その心中を物語っています。


 じつは見た目では終始、無責任を貫いているかのようなタイラーですが、途中で人格が大きく変貌しています。

 変化が始まるのは、2クール目に入った第14話。

 “海底に追い詰められたUボート状態”(ちなみに映画『U・ボート』の日本公開は1982年)に陥った駆逐艦そよかぜを救うため、「ご自分を犠牲に?」と看護伍長のハルミさんを驚かせる行動に出ています。

 徹底した無責任から、責任感満載の自己犠牲行動へ。

 これまでのタイラーではありえない行動が飛び出しました。

 この回で、タイラーの人格がガラリと豹変したのです。

 ただの無責任艦長から、有言実行ド責任艦長へ……。

 タイラーの内面は今後このように、ほぼ正反対の人格へと入れ替わっていくのですが、表面にあらわれる“やさしさ”はそのままです。

 つまり“優しい無責任”から“優しいド責任”へと変わったのですが、表面的なタイラーの態度や表情はあまり変化しないので、観客の私たちはしばらく騙されたままで、タイラーが駆逐艦そよかぜに復帰した第20話以降になって、ひょっとしてタイラーは別人格化しているのでは? ……と気付かされるのです。


 面白いのは、一番にタイラーファンとなり、艦内でタイラー教を広め始めたのが敵方キャラのハルミであること。これ、すばらしい脚本です! 奇しくも“敵を味方につける”ことからタイラーの有言実行ド責任艦長化が始まったわけです。



※ところで第14話のカトリ君、気合い抜群の操舵に拍手! 駆逐艦そよかぜに艦首衝角戦《ラミング》ができることを見せてくれました。あの船首のトンガリはハリボテじゃなかったんですね。




 タイラーの人格変異と同時に、ユリコ以下乗り組みのクルーたちのタイラーへの態度も変化していきます。

 第15話~17話のエピソードでは、疫病にかかった乗組員の解毒剤と引き換えにラアルゴンの捕虜となったタイラーを救出するために、そよかぜクルーたちが“自発的”に軍に反旗を翻し、そよかぜごと基地を脱走するに至ります。タイラーの存在が急速に強力な求心力に成長していくのです。


 なお、第15話のタイトルは“キンキン危険な病原菌”。

 コロナ禍のご時世、気になる内容ですね。

 第17話でユリコたちが脱走に成功する場面、なにやらコロナっぽいというか……。そうか、そうやって逃げた、というか、逃がしてもらったのか、と納得させられます。

 それと警備兵のBC兵器対応防護服姿が、映画『カサンドラ・クロス』(1976)っぽいところも意味深で、よいですね。



 そして話が進みまして、第23話のラアルゴン艦隊との無血決戦では、ロッシーニのウィリアム・テル序曲を背景に、第1話の彼とは真逆、有言実行で責任をバッチリ果たす好感度120%のマジメ青年に変貌しています。

 いや本当に、一本の矢で我が子の頭上のリンゴを射抜く英雄テルですね。こちらが本質で、それまで無責任の皮を被っていただけかもしれませんが。


 こうしてみると、『無責任艦長タイラー』、子供向けの内容を最初から放り出して、とことんオトナのアニメを指向していることに驚きます。当初のエンドロールの背景イラストはかなりオトナ向け、R15指定でしょうか。

 そして2クール目の後半エピソードで語られる“自由と責任”をめぐるヒューマンドラマの含蓄は、就職経験のある人でないと実感できないかもしれません。

 味方の軍に処刑される寸前で劇的どんでん返し、艦隊司令に昇格し、強大な敵艦隊に対峙する……といったくだりは、TVドラマ『半沢直樹』(2013)すら連想させてくれます。


 高度な物語内容に加えて絵のクオリティも秀逸で、古さは全くありません。

 とはいえ、公衆電話があってもケータイのない、ビデオテープがあってもDVDのないレトロフューチャーな未来世界ではありますが……



 さて……

 『無責任艦長タイラー』は昭和三十年代の偉大なる伝説のコミック・バンド、クレージー・キャッツの喜劇映画シリーズ(以下、クレージー映画)にインスパイアされていると言われます。

 しかし、途中で突如、“無責任”の看板を捨てて、真逆のウィリアム・テル的な有言

実行責任派に鞍替えする艦長タイラーの変節ぶりは、いささか違和感ありすぎか……と思いもしたのですが……

 さにあらず。


 じつはクレージー映画も、主人公たちが鼻持ちならないほどの無責任を貫いたのは第一作の『ニッポン無責任時代』(1962)から『ニッポン無責任野郎』、『クレージー作戦 先手必勝』あたりの三作ほどで、そのあとは早々に路線変更、シリーズ途中の『クレージー作戦 くたばれ!無責任』(1963)からは、無責任男たちがなんと無責任を自己否定、ちょいとドジだけどすっかりマジメな有言実行責任派に脱皮しているのです。なぜなのか?

 そうなのです。フマジメ無責任を謳歌しているスーダラな主人公たちに比べても、かれらの上役である企業経営者たち、“お偉いさん”の方がはるかに上手《うわて》、数段数倍いやもっとズルくてセコくてフマジメな無責任だったからです。

 これじゃヤッテらんないと、主人公たちは面舵一杯ヨーソロで、正反対の“有言実行責任派”へと邁進したのでしょう。


 アニメのタイラー艦長も、事情は同じでした。

 偉い人たちから理不尽な冤罪を着せられ、あわや処刑へと追い詰められた第22話あたりで、心身ともに完全に『くたばれ!無責任』のモードへと変身を終えたものと思われます。

 じつは上官のミフネ中将やフジ中将の方が、タイラーよりもずっと上手《うわて》、数段数倍いやもっとズルくてセコくてフマジメな無責任だったのですね。

 さすがにミフネ中将は、最終話でそのことを自戒してタイラーの存在価値を認め、「異端は組織の要《かなめ》」とつぶやいたわけですが……


 そんなわけで、クレージー・キャッツの原典を、その真髄までリスペクトした異色の傑作として『無責任艦長タイラー』はイチオシです。



 なんといっても凄いのは、最終話のエンディング。 

 最終話Bパートが始まるや、ブラームスのハンガリー舞曲第五番で事態は急展開、かつての仲間たちが参集し、最新巡洋艦あその“進水式”からエンドマークまで、スッペの軽騎兵序曲に彩られたお祭りシーンは、国産アニメのエンディングとしては比類なきユニークさ。超シュールかつ秀逸で不可解の極み。なんのことやらワケがわからんと混乱した方も多かったことと思います。


 しかし前述のクレージー映画、たとえば『大冒険』(1965)のエンディングなどを引き合いに出せば、ストンと理解できます。

 クレージー映画はほぼすべて、それぞれの映画がどのような結末であっても、最後はクレージー・キャッツ総出演で歌と踊りのどんちゃん騒ぎ、バーッと盛り上げて、ハイそれまーでェヨー……と終わるのです。

 『無責任艦長タイラー』も、クレージー映画の伝統的な幕引きスタイルをキチンと踏襲したのですね。

 あっぱれの納得です。


 ただしもうひとつ、別な解釈を重ねることもできます。

 最終話Aパートで一人寂しく姿を消したタイラー。

 主人公がロストした以上……

 “現実《リアル》”としての物語はこれでおしまい、となります。

 主人公自身が「お呼びでない? こりゃまた失礼」とばかりに、フッと舞台から退場してしまったのです。

 この主人公喪失感は、『少女革命ウテナ』(1996)や『シムーン』(2006)に通じるものがあります。

 そして“進水式”のお祭り騒ぎは……

 これは作品中の“現実”ではなく、タイラーを惜別する、そよかぜクルーたちがみんなで夢に見た共同幻想……と理解してあげたいと思うのです。



 現実のタイラー艦長は無責任を貫くことなく、ひとりで全員の「責任を背負った」ままひっそりと消えてゆきました。実際、多くのマジメなサラリーマンの末路はそうでしょう。マッカーサーが言う“老兵は死なず、ただ消え去るのみ”です。

 ですから進水式からエンドマークまでの最後のお祭り騒ぎは、あれでけっこうタイラーが好きだったクルーたちが、いなくなったタイラーを懐かしんで、もう一度こうなりたかった……と夢見た“共同幻想”の一部ではないかと、そんな気がしてならないのです。


 そう考える根拠の一つは、廃艦になったはずの駆逐艦そよかぜが唐突にカムバックすること。

 タイラーの失踪から巡洋艦あその“進水式”まで一か月が経過していることが、Aパートのラストでミフネたちがヤマモトに語る言葉からわかります。

 その間にスクラップの“そよかぜ”を密かにサルベージして新品化していた……と考えることもできますが、作品世界の“現実”で、それができたかといえば、それぞれバラバラになって軍を退役し、別な道を歩んでいる旧そよかぜクルーたちに、そこまでの政治力は期待できないでしょう。また、軍に残ったヤマモトとユリコだけでは無理な相談ではないかと思われます。


 また、廃艦となって艦名も外された駆逐艦そよかぜの艦体は、最終話Aパートの冒頭で、ドヴォルザークのスラブ舞曲とともに“現実”のタイラーとユリコが別れの言葉を交わした、哀切の場……いわば、“心の墓場”となりました。

 作品中の“現実”の物語としては、これが本来のエンディングだ……ということではないでしょうか。

 タイラーはこうして消えゆき、二人の愛の復活はなかった……という結末です。

 これが最も、“現実的”なストーリーの決着点でしょう。


 そんな、二人の破局の場となってしまった、駆逐艦そよかぜ。

 

 この哀しい思い出の駆逐艦そよかぜが“現実”に再整備されて復活するためには、ユリコとタイラー、二人の関係が修復され、破局がめでたく解消される理由となる出来事が発生しなくてはなりません。

 そのためのエピソードが必要なのです。

 また、タイラーが駆逐艦そよかぜのクルーたちを、まるで見捨てたかのように置き去りにして出奔したのですから、タイラーが再びクルーたちの元へ戻るには、タイラー自身がもう一度自分の生き方を見直すに至るエピソードが必要となります。

 タイラーが“戻りたい”と言えばクルー全員が歓迎してくれるでしょうが、それだけでタイラー自身の心の整理がつくとは思えません。


 そういった理由で、Bパートの“進水式”以降のお祭り騒ぎは、物語中の“現実”ではなく、そよかぜの元クルーたちと、そして観客のあなた自身と私が抱きたかった“共同幻想”を可視化したものと考えたいのです。あくまで筆者の主観ですが……


 さてそれでは、そよかぜクルーたちの前から突如姿を消したタイラーの心境は、実際のところ、いかなるものだったのでしょうか?


 この件、次章で根掘り葉掘りしてみます。



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