308●『パタパタ飛行船の冒険』(2002)⑥ストーリーの“残念!”は、ジャンヌとカミュールの不完全燃焼。観たかったぜカミュールのチャンバラ活劇。
308●『パタパタ飛行船の冒険』(2002)⑥ストーリーの“残念!”は、ジャンヌとカミュールの不完全燃焼。観たかったぜカミュールのチャンバラ活劇。
引き続いて「③“ネオ・シティ”編:第17話『はじめての空』~第26話(計10話分)」についてですが……
ジェーンはハリー・キラーとカマレ博士に邂逅し、巨悪の帝国ネオ・シティに対峙し、悪の勝利を押しとどめようと奮闘します。
事態を解決するポイントは大まかに二つ。
<ア>:悪の野望である“世界征服”の企図を挫く。
<イ>:搾取されていた地下労働者の解放。
この二つの事件が並行して進みます。
ただし、繰り返し観賞すると、いくつかの不満点も浮かび上がってきます。
要約すると、ここでおおいに活躍できるはずだった、新キャラのジャンヌと女性族長カミュールの扱いが中途半端に終わってしまい、なんだか不完全燃焼という印象が尾を引いてしまうのです。
*
まず、「<ア>:悪の野望である“世界征服”の企図を挫く」ストーリー展開についてですが……
ネオ・シティの住人でありハリー・キラーの寵児でもある、いわば特権階級中の特権階級として扱われていたジャンヌですが、カマレ博士の助手ケラ君みたいにヒネることなく純真な性格で、“籠の鳥”ゆえの寂しさもあってか、すぐにジェーンと仲良しになります。
しかし自分が“ジェーンの代わり”だったことを悟り、鬱に陥りますね。
このときジャンヌの中に、ジェーンへの激しい嫉妬心が生まれたはず。
これを簡単に自己制御できるとは思えません。
とすれば、自分が幸せを取り戻すには、ジェーンを抹殺すること。
ジャンヌとジェーン、二人のJの対決が盛り込まれてしかるべきです。
ジャンヌはジェーンを殺す一歩手前まで行く、しかしジェーンへの好意と同情で、ギリギリで思いとどまる……という心理が描写されて欲しかった。
たとえばジェーンを殺すチャンスを得るために、ジェーンに誘われて地下へ移動、しかしいよいよグサリと行く寸前に、ジャンヌは見てしまった。
地下労働者の惨状と、ジェーンの涙を。
ジャンヌの殺意は、そこで崩壊します。
さてそこで、上記の<ア>を実現するためには、「カマレ博士に実態を知らせ、計画をやめるようハリー・キラーを説得させる」のが王道です。
そこでジャンヌが写真機を携帯していたら、地下の実情を撮影できますし、フィルムをカマレ博士に渡して現像させればよかったのですね。
作中の時代、写真技術は普及していますね。ジェーンのブローチの中に収められた家族写真はモノクロですが、カマレ博士のこと、カラーフィルムは発明していたことでしょう。
ジャンヌとジェーンを暗室に招き入れて現像、印画紙に焼き付けたカマレ博士は真っ青になり驚愕する。そんな場面になると思われます。
ネオ・シティの機密保持のために、ハリー・キラーは市民の写真機の使用を禁じていたと思われますが、特権階級のジャンヌは写真機のありかと使用法を知っていてもよいでしょう。
また第25話では、離陸したプロミネンスを追って、サブリたちが飛行機械で飛び立ちますが、さすがに飛行機械の操縦はサブリには無理でしょう。初めてですし。
ならばやはりジャンヌが操縦してプロミネンスに到達しなければなりません。
それにあの小型飛行機械は、DVDのメカ紹介に「二人乗り」とあります。
作中では四人も乗って発進しますが、これは無理筋では。
となりますと、この場面では、“ジャンヌが操縦しサブリが乗って、サンベランとバルザックとマルスネーの大人三人は地上に残る”が正解だったと思われます。
プロミネンス艦内での冒険は、ジェーン、ジャンヌ、サブリの三人の子供たちに活躍の場を与えればよかったのではないでしょうか。
というのも、バルザック隊が張り切ってくれたおかげで、“砂漠踏破編”では子供たちの活躍がすっかり霞んでしまったからです。“ハナン村防衛戦”なんて、完全に大人の戦争でしたから。
なおプロミネンス艦内で、モリリレの手下たちとの機関銃による銃撃戦が展開しますが、あれはちょっと、ありえないでしょう。
艦内施設が頑丈ならば銃弾はビシバシと跳ね返り、跳弾で自滅します。
艦内施設が脆弱ならば船体が穴だらけとなって与圧は失われ、機器が損傷して墜落の危機を招きます。これも自滅。
そのため、艦内への銃器の持ち込みは禁止され、せいぜい幹部の護身用ピストルに限られていたはず。
だいたい、下っ端兵士が機関銃なんか持ち歩いて、うっかり浮遊泉の反応容器に穴でも開けたら大爆発ですからね。
となると、プロミネンス艦内の戦いは、ハリー・キラーのジェネシスガンを除けば刃物と棍棒、せいぜいテザーガンどまりとなり、子供達でも戦いやすくなります。
それに、作中で機関銃を大量に登場させたのは明らかに間違いでした。
あの、グリースガンの銃口を縮めたようなスタイル、たぶん筒内に弾帯を螺旋状に収納していると思われ、とても面白いメカなのですが、時代的には携帯式の機関銃が普及するのは第一次大戦以降なので、無くてもよかったのでは。
『ふしぎの海のナディア』では下っ端兵士たちが持っていたのは機関銃でなく、連発式のライフル銃って感じでしたし。
敵味方が機関銃をパリバリ撃ちまくって、弾が身体の周りでピシパシ撥ねまくってもなぜか味方には当たらないなんて、ハリウッド安物系の戦争喜劇にはありますが、いくらアニメにしても嘘っぽすぎるのです。
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それにしても25話で秀逸の名場面は、ジェーンがジェネシスガンを手にして「やめて!」と大人たちを一喝するくだり。
全員、一瞬にして凍りつきます。
正義を信じ使命感に燃えたド素人少女の平和活動家に、終末兵器を持たせてしまったらどうなるのか。
この恐るべきジェーンのアドリブに、周りの大人俳優たちは一斉に演技を忘れて棒立ちになってしまった……な、悪いけどクスッと笑えるシーンでもありますね。
ありがちなアニメの展開だと、ここでブチ切れたジェーンが「小っちゃい兄ちゃんも大っきい兄ちゃんも大っ嫌い! みんな死んじゃえ!」と真っ赤なビームをブッ放すものでして、プロミネンスの天井はフッ飛び胴体は輪切りとなって二つに裂け、浮力を保った船体に正義の人々が残って、悪漢たちは炎上する残骸とともにこの世からオサラバなのだ……
……となるかと思った刹那、モリリレの奴、またまた余計なことを……
ともあれジェーンが撃たなくてよかった、というか、ここで撃ったら彼女もハリー・キラーと同列の殺人鬼に堕ちてしまいますからね。
ジェーンは撃ってはならなかったのです。ちょっと、いやかなり残念でしたが……
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さて次に「<イ>:搾取されていた地下労働者の解放。」についてですが……
ここは、女性族長カミュールの活躍が無くてはなりません!
なのに彼女、忘れられたかのように存在感をひそめてしまいました。
第21話でいったん砂漠地帯へ脱出したジェーンとサブリ。
大人たちを救うためにネオ・シティへ戻ろうとするジェーン。
しかしサブリが言います。
「俺たちだけでは無理だ、どこかで助けを」
ここで思わず念じましたよ、……出でよカミュール軍団!
出てこんかいカミュール!
だってね、ネオ・シティの前線基地がバルザック隊に制圧され、その後爆撃で破壊されたことは、すぐに砂漠の民であるハナン族の知るところとなったでしょう。
これで、村が機械盗賊団に襲われる危機は遠のいた。
そしてバルザック隊はネオ・シティへ向かった……
となると女性族長カミュールの取るべき道は、手勢を集めてネオ・シティへ攻め込んで、さらわれた村人たちを救出することですね!
本心は、マルスネー大尉の無事が心配で心配で一睡もできず……
ということで疾風怒濤の如くネオ・シティへ急行するカミュールのラクダ軍団。
そこでサブリとジェーンに邂逅しなかったら、てんで面白くないじゃないですか。
これが『インディ・ジョーンズ』だったら絶対に出会ってますって。
来て欲しかったなあ……
そうなれば、このあとジェーンたちとともにカミュールも浮遊泉の坑道に忍び込み、そこでサシャの父母に出会い、ハナン村からの拉致被害者を集めて、地下労働者の反乱を組織する流れにつながったでしょう。
というのは、地下労働者の多くは、もともと砂漠の民。
ならば、勇猛果敢で知られるカミュールをリスペクトして、彼女の指揮に従って、計画通りに蜂起してくれることが期待できますから。
よそ者のバルザックたちが呼びかけても、地下労働者たちが、はいそうですかと命がけの反乱に加担してくれたか、心もとないところです。
ここは現地住民にカリスマ力を発揮できるカミュール様の出番でしょう。
ただし、蜂起にあたっては、敵の武器を無力化できなくてはなりません。
作中では機関銃を構える敵に対して、棍棒レベルで戦いを挑んでいますが、いくら数に勝っていても、機関銃でダダダとやられたら、十人二十人、あっという間に成仏してしまいます。百人単位で死体の山を築いて、敗北することになるでしょう。
そこで考えられるのは、電子的な方法で、ネオ・シティ内の武器を一斉に無力化するシステム(いわゆるキルスイッチ)の存在可能性です。
ハリー・キラーにとって大きな心配事のひとつは、普段からいじめている副官のモリリレが、ある日、光秀化して本能寺を仕掛けて来ないかということですね。
爆撃可能な飛行機械を任せているのですから、モリリレが造反すると決意したら一撃でこちらが抹殺される危険があります。
それでもハリー・キラーは平気でした。
ハリーがそこまで鈍感だったはずがありませんね。
となると、こういうことではありませんか。
ネオ・シティの兵器類には、あらかじめ安全装置が組み込まれていて、特殊なリモコンの電波信号を受信すると、飛行機械や戦車から機関銃までカチャンとセーフティがかかって発砲不能になり、無力化される……
それでもって、ハリーは部下たちの反乱を押さえていたのでは?
リモコンを持つのはハリー一人。
とすれば、それを盗むのはジャンヌの仕事でしょう。
兵器に電子式セーフティが組み込まれている事実は、たとえば地下工場でジェーンが組立中の機関銃を目撃して、メカフェチならではの勘で気が付いた……とか。
なにはともあれ、あの機関銃の無力化をはかることが肝心。
そうすれば剣と棍棒の戦いとなり、砂漠の民にとって有利な展開となりますね。
もうひとつ、観客として不満に感じるのは、地下牢に幽閉されて脱獄するシークエンスが、ほぼ同じやり方で二度繰り返されることです。これは退屈。
余談ですが、24話における二度目の脱獄のとき、間抜けな看守が雑誌“アメージング・マガジン”を読みふけっているカットがあります。
SFファンなら、ニヤリとする場面ですね。
米国のSF雑誌“アメージング・ストーリーズ”は、20世紀の“SFの父”と称えられるヒューゴー・ガーンズバックにより1926年4月に創刊されたもの。戦前の有名SF作家を続々と輩出したガーンズバック氏はSF界の蔦重さんでしょうね。
ジュール・ヴェルヌの作品も多く掲載されていたので、“古典SFへのオマージュ”を強く感じさせてくれる、ほのぼのシーンです。
そんな場面の直後に、サンベランやバルザック、マルスネーたちの脱獄と相成るのですが、ここでこそカミュールに駆けつけてほしかったものです。
三日月刀をギラリと輝かせ、風林火山な手勢を引き連れて、「待たせたな! マルスネーどの」と大見得を切ってくれれば、屈指の名場面になったものを……
それでふたりがひしと抱き合い、背中合わせで剣戟してくれれば言うことなしだったのですが。
観たかったなあ、カミュールのチャンバラ。女エロール・フリンてな感じで。
これ本当に、残念なこと。
総じて“ネオ・シティ編”の残念無念の原因は“大人と子供を分離しきれなかったこと”にあります。
大人と子供が一緒に戦ったら、大人は子供を守らねばならず、子供が派手に活躍したらかえって不自然になりますね。おのずと制約でがんじがらめ。
大人は銃で戦いますが、ならば子供が撃たないのもかえって不自然。
この点、『未来少年コナン』は、うまく大人と子供の世界を分けていたように思います。
大人の世界は“殺し”あり、子供の世界はそれが無し……ということ、ですね。
もちろん、最終26話でキッチリとラストの感動を盛り上げましたので、やっぱり 『パタパタ飛行船の冒険』は凄い! となるのですが。
【次章へ続きます】




