12●『未来少年コナン』(11)人物万華鏡:善玉編1、モンスリーを変えた“三つの環境”
12●『未来少年コナン』(11)人物万華鏡:善玉編1、モンスリーを変えた“三つの環境”
〈モンスリー〉(承前)
オトナのアニメファンにとって、この女こそ真のヒロインでした。
ラナちゃんとの比較はさておき、あれほど悪辣な悪玉として登場した彼女が、物語後半ではあれよあれよというまに善玉ヒロインの横綱に収まり、かつ花嫁のドレスまで披露してしまったのですから。
最終話の婚礼シーンが、その事実を明瞭に示しています。
新しい夫婦の両脇の付き人は、コナンとラナ。
栄えある最終回のバージンロードにおいて、本来の主人公とヒロインは、ダイス船長を従えたモンスリー女史に主役を譲ったのです。
悪玉から善玉へ。
モンスリーの変心の最大の要因がコナン君にあったこと、間違いありませんね。
思い返せば、そもそもモンスリーがコナンに一目惚れ、彼の超人的体力と的確な判断力と……そして、真っすぐで正直な生き方にコロッとやられてしまったことにあるのです。
第6話で彼女、牢屋に閉じ込めたコナンに食事を与えないように指示して、この野性動物を調教しようともくろみます。S気満載ですね。
しかし、殺そうとはしません。
内心、結構ホレているのです。でなきゃさっさと殺しています。
あたしのペットにしたい!
彼女の本心の本心は、そんな心境だったことでしょう。
哀れ、コナンはムクの代わりだったのです。
そのままコナンがモンスリーの奴隷になれば、二人は案外いい仲になったことでしょう。
たぶん、見た目は姉と弟みたいで、かつ性的な妖しい関係も加味されたかも。
しかしコナンの反応は……
「ラナを返せーっ!」
第7話でコナンは、飛行中のファルコから夜の海へダイブ。
コナンの心はラナにすっかり奪われている……
そう悟ったモンスリー、ブチ切れます。
「死んでもらうわ」と、コナンの拘束具をリモコン起動するわけです。
あれ、完全に私怨ですね。
彼女はコナンにフラれたのです。
しかしその後、あれこれあって、第19話のハイハーバーを襲う大津波の場面を最後に、モンスリーはコナンに屈服し、ハイハーバー側へ転身します。
この“あれこれ”が作品のキモですね。
じつは、モンスリーの転身に関して、コナン少年からの“お説教”は一つも無かったのです。
言葉による説得ではなかった。
このストーリーテリングは、凄いのなんの。
モンスリーが目撃するコナンの行動、そして、ときおりじっと見つめ合う視線、その繰り返しの中で、少しずつモンスリーの心が溶かされてゆき、第20話でコナンの「見せたいものがある」との誘いに応じ、気が付いたらフライングマシンⅡの操縦を引き受けるまでになります。
その過程は、アニメならではの演出。鳥肌ものです。
説明するセリフがないのです。
つまり、文字媒体の小説では、とても表現しきれない心理描写なのです。
この“少しずつ”感の素晴らしさには、ため息が出ます。
人間、他人の説教で改心するなんてことは、ありません。
絶対にないと断言してもいいでしょう。
だから、理屈と説得でなく、行動と思いだけを着々と積み重ねて……
とうとう、コナンはモンスリーの心を“戦争から平和”へと引き戻すことに成功するのです。
以降の章でもご説明しますが、この作品の場合……
“戦争”とは、人の心が“壊すか奪う”ベクトルを指向している状態を言います。
“平和”とは、人の心が“作るか育てる”ベクトルを指向している状態を言います。
押しつけがましい説諭を完璧に排除して、頑ななモンスリーの心を“戦争から平和”へと導いてしまったコナン君。
これぞ、彼以外には(ラナやラオ博士も含めて)誰にもできなかった偉業。
まさに、マジ、“神対応”と讃えるにふさわしいでしょう。
モンスリーを変えたのは、武力による威嚇でも強制でも説教でも説得でも懐柔でもなく……
その心を取り巻く“《《環境の変化》》”であったのだと。
●あなたはもう、何者にも支配されていない、自由である。
●武器を持たずとも、あなたは完全に安全である。
●何者にも蔑まれず、あなたは社会に喜ばれて働くことができる。
この三つの“環境”が与えられた時、人はだれでも平和に生きられるのだ……ということです。
そのことが『未来少年コナン』から読み取れるのです。
これはおそらく、宮崎監督が“戦争”の解決策として出された、今のところ最高レベルの解答であろうと思います。
ときに1978年、現在から四十年あまりも昔のアニメ作品で、これだけの真実が語られていたことに、心底から驚かざるを得ません。
あれから四十年あまりの作品群が、みな色褪せて見えるほどです。
*
一方、フライングマシンⅡでインダストリアへと飛びながら、モンスリーは自問し、答えを出していたはずです。
もう、レプカの指揮下へは戻らないことを。
で、レプカに捕えられ、死刑を宣告され、その執行直前で救われた時、彼女の心にクローズアップされたのは……
それまで彼女があれほどバカにして見下していた、無能者のダイス船長。
“戦争から平和へ”とモードチェンジした彼女の心は、同じバカでも一味違う、男としての彼の魅力に気付けるようになったのですね。
二人の仲が決定的となったのは、おそらく、その直後、地下に閉じ込められた群衆を救うため、三角塔の制御室に乱入して装甲シャッターを開ける……という作戦行動です。
この場面、憎いことにほとんどカットされ、ダイスがレプカの電話に応えるワンシーンしか画面に映りません。
ここでダイスはモンスリーを背負っており、モンスリーは鉄骨で敵戦闘員をポカスカぶん殴っております。
ダイス船長、いわばモンスリーを乗せたロボノイドとなって、二人は一心同体で人助けに邁進しているわけですね。
ダイス君、彼女のためにロボノイド役を買って出たわけです。
この体験が、二人の心を結び合わせたこと、論を待たないでしょう。
この時の二人の態勢、ルパンと峰不二子に通じるものも感じるのですが。
ロボノイドという秀逸なメカの設定が、一種の比喩として超効果的に生かされた場面です。
そもそもロボノイド自体、天才の発想ですよね。
搭乗型ロボットの最もシンプルな実現形であり、まあ普通のアニメではたいしてウケない、ありふれギミックともいえるでしょう。それをあえて画像にされたのが、すばらしい!
二十一世紀の今、すぐにでも実用化できそうな仕組みです。土木に介護に、絶対に重宝しますよ。
あれ、後年の『機動警察パトレイバー』のレイバーの元祖かと思うんですが。
それにしても、「バカね」「バカね」を繰り返しながら、好きよ好きよと傾いていくモンスリーの可愛いこと。
最終話の婚礼シーンで、幾多のアニメファンを「チキショー、ダイスの野郎!」と嫉妬させたのも、むべからぬことです。
で、何が言いたいのかというと……
実はこのモンスリー女史というキャラクター、十年前に銀幕デビューしたもう一人の美少女キャラのよみがえり、という気がしませんか?
そうですね、1968年公開の『太陽の王子ホルスの大冒険』。
悪魔から人類側へと転じた、薄幸の少女がいました。
モンスリーが、あの最高傑作の美少女、ヒルダの再来であると感じたのは、筆者の私だけではないでしょう。
つまり、『太陽の王子ホルスの大冒険』では語り切れなかった、ヒルダの隠された一側面を、宮崎監督は『未来少年コナン』のモンスリーに化体させることで、補足してあげたのではないのだろうか……そう思うのです。
モンスリーという姿で、“再解釈”されたヒルダが、そこにいるかのようです。
監督の心の中では、“ヒルダ=モンスリー” だったのでは?
もしかすると、モンスリーの登場によって、ようやく十年後にして、ヒルダのキャラクターが完成した……のではないかということです。
※まさか未見の方はおられないと思いますが、『太陽の王子ホルスの大冒険』(1968)は、老若男女を問わず絶対に必見の超傑作ですね。この作品を出発点に置くことで、その後の所謂“宮崎アニメ”の幾つかに通底する巨大な流れを感じ取ることができると思うのです。
『太陽の王子ホルスの大冒険』(1968)
『未来少年コナン』(1978)
『風の谷のナウシカ』(1984)
『もののけ姫』(1997)
『崖の上のポニョ』(2008)
そして『かぐや姫の物語』(2013)
この六作は、一作ずつ別個にとらえるのでなく、共通のテーマを異なった角度で処理した、巨大な一篇の連作長編として見ることができます。いやむしろ、そのように鑑賞すべきでしょう。そうしなければ説明できない要素がいろいろと含まれているのです。
『ホルス……』の構想から『かぐや姫……』の公開まで、半世紀をかけて築き上げられた、ひとつの壮大な物語ということです。
なお、傍系として『となりのトトロ』(1988)が加わります。
詳しくは、またのちほど……




