11●『未来少年コナン』(10)人物万華鏡:悪玉編2、テリット、オーロ、モンスリー、そして“説教なき平和”
11●『未来少年コナン』(10)人物万華鏡:悪玉編2、テリット、オーロ、モンスリー、そして“説教なき平和”
悪玉編、さらに続きます。
〈テリット〉
サルベージ船のボスであるパッチの正体を知って、さっそくモンスリーにご注進、密告に及ぶ小市民です。
悪玉サイドで最もありふれた、サラリーマン的パーソナリティとして描かれていますね。
頭の中にあるのは、“昇進と出世”。
すなわち上司へのゴマすり。
上司のモンスリーにちょいと褒められて一喜一憂します。
哀れなる社畜。
筆者自身も含めて、人生の大きな部分は、テリットみたいだったんじゃないか?
……と、自省させてくれるキャラですね。
もしかして、企業戦士の大半はテリットタイプじゃないかなァ。
いやご近所の皆々様も、善人のようにふるまいつつも、内心は誰かの落ち度を見つけたら抜け目なくネットや警察にチクるケースがごまんとありますよね。
犯罪ではないのに「逮捕して!」と誇大化してこっそり通報する人々です。
相手が強い立場の“偉い人”や“半グレ”の人だったら、なぜか通報しませんが。
で、弱い立場のラナをいじめるテリット、まんま職場内パワハラ。
哀しいながら、この国のよろしくない住民の典型例のようです。
自分の評価を上げるためなら、いくらでも他人の弱みに付け込みそうなので、とりあえず、お付き合いしたくないタイプですよね。
しかも結局、モンスリー上司に翻弄されただけで、昇進はおあずけ。
最後は、ルカおっちゃんのセリフだけで、その死がサラッと語られます。
哀れ、いわゆる“ナレ死”相当ですよ。
言葉通りの事故だったのか、それとも用済みは抹殺するということで、誰かに(モンスリーの冷たい一言とかで)消されたのか。
気をつけましょう。
あなたも私も、いつテリット化しているのか、わからないのですから。
〈オーロ〉
物語の中で最もあくどい重罪人は、じつは、レプカでなくオーロなのです。
ハイハーバー国民でありながら敵国インダストリアに通謀し、トロイの木馬方式で味方を裏切って、村の占領統治責任者におさまってしまう、ワル中のワル。
しかもこれ、やらかしたことの重大さを本人はてんでわかっておらず、要するに、村のみんなを見返してイキがってみたいという、その程度の動機。
単なるチンピラの自己顕示欲なのです。
日本国刑法第81条。“外患誘致の罪”
:外国と通謀して日本国に対し武力を行使させた者は、死刑に処する。
意外と知られていませんが、刑法で最も重い、死刑オンリーの量刑です。
無期懲役すらありません、あるのは死刑のみ。
オーロの行為はこれに該当するでしょう。
あとからいくら反省しても、遅い遅い。
本来なら村民裁判にかけられて、縛り首にされても仕方ありません。
未成年だからといって情状酌量してもらえるのか、疑わしい限りです。
コナンと決闘し、ナイフの刃を結び目にされて負けたのに、その場で悔悟したかどうかは定かではありません。
結局のところガルおじさん預かりとなって、漁師チームを編成するガルの息子たちに優しく見守られながら厳しく監視され、更生への道を歩むことになったようです。
物語中で、ハイハーバーはインダストリアと真逆のユートピアとして描かれています。しかしエデンの園に蛇が隠れていたように、理想郷のハイハーバーにも、とんでもない“鬼っ子”(第17話でオーロを評したモンスリーのセリフ)が隠れ住んでいたわけです。
これは、宮崎監督からの警鐘かもしれません。
完璧なユートピアなど、ありはしないのだと。
ハイハーバー最大の敵は、ハイハーバーの中に潜んでいました。
オーロが高笑いしたとき、ハイハーバーは一度滅亡したのです。
〈モンスリー次長〉
肩書はインダストリア行政局次長。
レプカの片腕ともいえる、忠実なナンバー2です。
インダストリアの対外的な武力行使の中心人物であり、実質的な軍人となります。
作品中で最も軍人らしい軍人と言えるでしょう。
ハイハーバーにインダストリア軍が侵攻した“波陰戦争”における、インダストリアの派遣軍司令官であり、ガンボート沈没後の冷静沈着な対応は軍人の鑑と讃えられるにふさわしいでしょう。
モンスリーの直属の部下らしきクズゥに対する教育的配慮も厳しくこまやかです。
たとえば第1話で、武装したモンスリーとクズゥは、のこされ島のおじいを銃器で脅迫しますが、おじいがパンツァーファウスト風の携帯ロケット砲を持ち出したので屋外へじりじりと退却、その直後、クズゥは自動小銃の安全装置を外し、振り向きざま射撃します。
このことは、“室内では銃の安全装置をかけておけ”と、モンスリーが指導していたことを示していると思います。
狭い室内の壁は石か金属なので、そこで発砲すると壁に跳ね返って危険な跳弾となります。また、不用意に引鉄を引いて暴発したら、モンスリー自身も危険に見舞われます。命が危ない。
細かな描写ですが、モンスリーの用心深さが垣間見えます。
また彼女は早くからコナン少年の超人的な資質を見抜き、おそらくインダストリア軍の一員として強制的にスカウトしようとします。しかしコナンは拒否し脱獄、第7話で飛行中のファルコの昇降口を開けて夜の海へ飛び降ります。
このときモンスリーは冷酷にも「死んでもらうわ」と宣言し、コナンの手足の拘束具をリモコン起動します。これ、本気ですね。完全な故意です。たまたまコナンの体力が超人的なので生き延びられただけの話。
つまり彼女はこれまでにも、直接間接に相当数の人を明確な殺意をもって殺してきたことが察せられるのです。
軍人として軍事行動の中で敵を殺傷するのですから、インダストリアの法では免責されて無罪でしょうが、無害な少年でも敵と見做せば殺せるあたり、彼女が人間として善悪を区別する道義心を見失っているとも言えるでしょう。
常在戦場の精神で、二十四時間戦う兵士としてふるまうモンスリーですが、ハイハーバーでガンボートが沈められた時点から、人格に決定的な変化が訪れます。レプカの私兵であることを卒業し、ラオ博士のインダストリア市民救出事業に献身する勇敢なボランティアへと転身するわけです。
その決定的な要因は、まず、ガンボートを失ったことで、レプカの指揮が彼女に及ばなくなったことでしょう。インダストリアからの交通手段は飛行艇ファルコのみとなってしまったので、当分の間、彼女はレプカのもとへ帰ることができず、レプカもまた、船を使って多数の兵士を送り込むことができません。
つまり、レプカという独裁者の影響を免れる、新たな環境に身を置いたことになります。それまでは忠実な私兵として上官のレプカに尽くしてきたのですが、命令者との関係が断たれたことで、彼女の精神が一時的にせよ自由になったのですね。
かけがえのないガンボートを喪失したというのに、一杯の紅茶をなぜかゆったりと味わう自分に、彼女は奇妙に矛盾する幸福感を覚えていたことでしょう。
日々ささくれていた心のどこかが、ホッとしたのです。
そして二十年前の自分を思い出したとき、彼女の精神はレプカから受けてきた洗脳の呪縛から解き放たれ、自由な心で自分を見つめ直すことができたと思われます。
彼女は気付いたでしょう。
あの時の私は、今の私ではなかった……と。
自分が本当の自分自身を取り戻した瞬間です。
それは不思議な体験だったはずです。
おそらく初めて、この“波陰戦争”の意義に疑問を抱いたのですから。
そしてコナンの警告で津波がせまることを察した時、軍人としての自分が万策尽きてしまい、今、なにをどうすればいいかすっかり失念して、自分自身が何者であるのか、それすらわからなくなる時間が訪れます。
空白の自分。
彼女は困惑のあまり放心し、茫然と砂浜に佇むのみとなります。
私は、何をしているのだろうか? ……と。
自分の目的や存在意義を自ら放棄して、頭の中が、からっぽになってしまったのです。
そして……
頼みの綱のバラクーダ号が陸に上がってしまったことで、インダストリアの兵士たちは、やれることがなくなりました。
かりにハイハーバーを占領し続けるとしても、いつまで、どうやって、そして、何のために……という戦争目的、戦う意味がなくなってしまったわけです。
一方、ハイハーバーの村民は、インダストリア兵の平和的な移民を認めました。
銃を振りかざさなくとも自分は安全だ。
そして、なによりも食い物が美味い。
働けば、村民としての身分が保証される。
捕虜や奴隷ではなく、人格の尊厳も傷つかない。
虐待されることなく、大事な働き手として歓迎すらされている。
こうなると、ハイハーバーへ投降するについて、デメリットはありません。
肉体的にも精神的にも障害が取り払われたことによって、インダストリア兵はハイハーバーへの帰化へと、なだれを打ったと思われます。
つまり、“波陰戦争”に明るい解決をもたらしたのは、普通の戦争にありがちな軍事力と恐怖ではなく……
インダストリア兵が独裁者レプカの影響から切り離されたこと。
かつ武器の使用が意味をなさなくなったこと。
そしてハイハーバーが無条件にかれらを受け入れたこと。
……といった、“環境の変化”にあったと思われるのです。
これは、『未来少年コナン』という作品のテーマに根源的に関わる、極めて重大な局面でした。
しかも、平和を実現するための、力ずくの強制がないばかりか……
“お説教”ひとつなかったのです。
「戦争をやめろ!」は『遊星仮面』(1966-67)のオープニングですが、以降、幾多の映像作品で戦争をやめさせるために、ブラウン管の正義の味方は、作中でこんこんと悪玉たちに“平和の説教”を繰り返してきました。
平和の実現には、丁寧な説明が必要だったのですね。
しかし『未来少年コナン』には、驚くべきことに、上から目線のお説教の場面が、第1話の一部分を除いて、ほぼ全く見られないのです。
これこそが、名作中の名作たるゆえんです。
次章以降で詳述します。




