1.攫われてみよう~The end of mediocrity~
――太古の時代。
魔に身を浸す獣から弱き人々を守るために神が導いた力を魔法と言う。
人々は魔法と団結を頼りに勢力を増し、着実に人類の版図を広げる一方、人同士による争いは繰り返され、遡る事五十五年前。
人類は世界を巻き込む大戦争を引き起こした。
脈々と受け継がれ、人を最も輝かせる魔法に対し、争いの歴史に紛れ密かに磨かれた科学。
両者が本格的にぶつかり合った『魔科学戦争』は全人類の三割をあの世へ送り、多くの生物を苦しめた。
『魔科学戦争』にて世界が悲鳴を上げる中、東洋の小さな島国『日本』は、ある存在を作り出してしまった。
魔法陣営が生み出した人型兵器と、科学陣営が生み出した人型兵器 《SVR》。
その両者を融合させ、古の神々や怪物をも巻き込んで作り出されし最強の兵器、通称。
災厄と称される魔獣を数多く屠った五体の《スーパーロボット》に危惧の念を抱いた魔法陣営と科学陣営は裏で手を組み、中立を保っていた日本に禁忌呪術と核攻撃の行使に踏み切る。
呪いと放射能によって汚染された日本はまともな生物が生きていける環境に無くなり、海外へ赴いていた一部の者と魔法に対する高い耐性を持っていた者以外は全て呪いと放射能に蝕まれ、死の底へ至る苦しみの奈落に落ちていった。
日本が辿った凄惨な末路に、両陣営は互いの対立が死の大地を生むと悟り和睦。世界は、日本という小さな島国を生贄にする事で、母なる青い星の破滅を免れたのだ。
しかし、人類は未だ平和を享受しきれてはいなかった。
古より人類を脅かし続けている『魔獣』を始め、人と魔を侵す正体不明の存在『瘴気獣』、人間種族の心に寄生し、寂寥を起点に暴威を振るう謎の怪物『ノスタゥジア』、我欲のままに争いを生む国際テロリスト集団『シャウトピクシー』、そして近年になって観測され始めた謎の気象『虹の尾』、正体不明の不可思議な空間歪曲痕。
全人類共通の脅威を前に、世界は、新たな暗雲に包み込まれようとしていた……
『――繰り返す! 北と西の空から魔獣の群れが接近中! 戦闘義務の無い学徒は各棟中央の地下降下庫へ避難せよ! 戦闘義務を持つ学徒は携帯伝書鳩の指示に従い、速やかに担当エリアへ急行せよ! 繰り返す――』
クラシック調の不安を煽るようなBGMが流れた直後、校内スピーカーから緊急事態が告げられた。
三度繰り返された警告の後もおどろおどろしいBGMは鳴りやまず、そこかしこから悲鳴と足音が聞こえ始めた。
もちろん俺だって他人事じゃない。急いで携鳩のスクロール部分をつまんで開け、「校内地図!」と叫ぶ。すると魔用紙製の画面に何色ものインクが揺らぎ、乱雑な模様を描いたかと思うとすぐさま筋道だった線となり、三秒もしない内にこの学園の地図が現れた。地図には無数の黒い点が右往左往しており、たった一つの赤い点が、俺の現在地を示している。
今いるのは『座学の棟』二階の南よりの廊下。魔獣の襲撃方向からは外れているが、万が一魔獣がこっちに流れてきてしまえば戦闘に巻き込まれてしまうかもしれない。戦闘訓練なんて受けてないんだから、早く逃げないとっ。
地図に従って地下降下庫を目指し走る。普段は荘厳な神殿のようにも見える白い廊下が、儚げでとても頼りない物に見える。不穏な考えが過る頭を振り、ひたすら足を動かした。
やがて最寄りの地下降下庫へ繋がるエレベーターが見えた。学園で一番安全な場所へ繋いでくれる入口を見て、俺は思わず安堵のため息をついた。定員オーバーのランプも付いていないし、どうにか間に合ったようだ。
改めて校内地図を見てみると、地下降下庫には91人の人間がいて、あと59人まで収納できると表示されている。有事の際の避難所を兼ねている地下降下庫のエレベーターは、残り収容人数が一桁にでもならない限り一人では動かせない。散発的に避難する人間がその都度エレベーターを起動していたら効率が悪いからだ。
とはいえ、すでにこのエレベーターへ何人か集まりつつある。警報が鳴ってまだ三分も経っていないから、魔獣が乱入してくるなんてこともないだろう。
少し待つだけで、安全な場所に逃げられる。
「た、助かった……」
しかし、そうは問屋が卸さなかった。
エレベーター前に到着して五分程が経過した。銃撃の音や派手な魔法の音、そして多種多様な魔獣の吠え声が遠く聞こえてくるようになった頃。
ついに避難していた俺以外の学徒がこのエレベーターまでたどり着いた。
――15人程の、団体様で。
「デーネスさん、あの男は同学年の飛行箒乗りです」
嫌な予感がヒシヒシと背筋を撫でる。集団で現れた彼らはどう見ても一般学徒ではなく、戦闘の心得がありそうな奴ばかりだ。パイロットやハンディアなら魔獣の迎撃に向かう義務がある。荒事に慣れていながらこの場に来ているということは、彼らが見習い……つまり俺と同じ『ヒースタリア学園』の六世代第三学徒候補生であるということだ。
学年は同じなのだが、専攻は違う。
俺が空を飛んで荷物を届ける『配達官候補生』であるのに対し、彼らは《SVR》と呼ばれる科学兵器の『パイロット候補生』だ。
「おいお前、さっさとそこをどけ」
連中の一人。デーネスと呼ばれていた同級生が命令口調の偉そうな態度で言った。
お前、っていうのは俺の事だろうな……
「後から来たのはあんた達だろ。このエレベーターは20人乗りで、ここには先に6人いた。あんた達の中から1人残って……」
「うるさい!」
俺はむっとして言い返した。すると奴らは示し合わせたように拳を握ったり、首を鳴らしたり、酷い形相で睨みつけてきたりしてきた。
くぅ……パイロット候補生だからか、すごい迫力だ。
「なんか言ったか? 一般人」
ちくしょう。脅すように拳を振りかぶった奴が低い声で侮辱を吐いた。この学園に通っている人間は等しく『マギナウスの学徒』候補生で、国連事務員と同等の立場がある。それなのにこのパイロット候補生は武官系の専攻でないというだけで俺を一般人扱いしやがった。
左手に力が入る。だけど、相手は一対一で戦ったって勝ち目のないパイロット候補生の集団だ。途中で保護したのだろう文官系の女生徒は何人かいるけど、何の慰めにもならない。
悔しさに震える左手を抑え、俺は道を譲った。
「そうだ。お前みたいな力の無い奴は、独り縮こまっている姿がお似合いだ」
くそっ! 地獄……いや、黄泉に落とされてしまえ!
ニヤニヤと下卑た笑みを浮かべてエレベーターを開き、乗り込んでいくパイロット候補生+αの集団。うっ、この……唾まで吐きかけられたっ。
連中が全員乗り込み、次いで俺と共に待っていた5人の学徒達が申し訳なさそうな顔でエレベーターに乗ると、滑らかな擦過音と共に石の扉が閉じた。俺は汚された制服を洗浄の魔法で綺麗にし、温風の魔法で乾かした。そんな暇はないが、構うもんか。
再び携鳩を取り出して地図を見る。が……なんと、他のエレベーターも全部起動していて、近くのエレベーターから繋がる地下降下庫が満員になってしまった。くそっ、とことんついてない……!
舌打ちを一つしてイライラを抑えながら地図に目を走らせる。ここから一番近いのは……東の方にある地下降下庫か。ちょっと外回りになるけど、あっちならSVR関連の施設や教室が無いし、魔獣の襲撃箇所からは離れているから無事に逃げ込めるだろう。
携鳩を乱暴にポケットの中へ押し込み、俺は唇を噛みながらその場を後にした。
怒りを抱えたまま走っていると、警報のBGMすら呑気な物に聞こえてくる。
地図によればもう大半の非戦闘員が地下降下庫へ避難しているようだ。時間的に学徒の多い『修練の棟』から『宿舎の棟』やここ『座学の棟』に流れてきてはいるが、人が多すぎて地下降下庫へ入れないという事態にはならないだろう。北にある『実技の棟』や西の『教員の棟』なんかだと、逆に魔法や弓矢に秀でた上級生やSVRと魔法兵器ゴーレムのパイロットが集まって人口密度が高まっているようだ。
なんて思いながら走っていると、不意に廊下の窓から大きな影が差した。
びくり、と震えて止まる身体。
こ、ここは『座学の棟』だから、兵器の格納庫は無いはず。魔獣の襲撃は北と西からで、ここは南の東よりにある……そんな、ありえ
ガシャ!! ドガッ!! ベギバギ!!
ガラスが、壁が、支柱が、非常識な音を立てながら破砕する。衝撃に吹き飛ばされた俺は空き教室のドアへ叩きつけられ、うぐっ、と呻き声を上げた。上手く、息が……
そう思ったのも束の間。
俺の胴体と腰が、何か硬い物に包まれた。
それが何か確認する暇もなく、飛行箒に乗っている時の感覚が横に生じた。
いきなりのGに必死で耐える。空の事故の何が恐ろしいかというと、こうした急激なGの変動によって意識を失う可能性が海や陸より高い所だ。配達官は職務中に飛行型魔獣に襲われる事もあり、候補生には厳しい飛行訓練が課される。その経験が咄嗟に出たようだ。
……ということは、俺は今、空を飛んでいるのか?
だとしたら、な
「ぐえっ」
再び直角に捻じれた重力。それと同時に頬へ当たる強い風。この感覚は覚えがある。まさかと思うが、俺……
ちらり、と閉じていた瞼を開く。
そこにはやはり、遠く離れた校舎が見える。俺が走っていたと思しき廊下は巨人の投石に潰されたような風穴が空いていて、魔石灯が砕けて出来た白い煙がもうもうと立ち上っている。
恐る恐る首を傾けると、大木のような太さの鳥の足が目の前にあった。
信じられない。
信じられないが、俺は魔獣に攫われてしまっ
「ぎゃぁぁぁぁぁぁぁ!?」
現実が追い付いてきた。
ありえない!! 魔獣!? なんで魔獣がここにいるんだよ!? なんで!? なんで!?
俺死にたくない! 死にたくねぇよ!
『ピュィィィィヒュルルルルル!!』
パニックだ。俺はパニックを起こして、手足をがむしゃらにバタつかせた。
その直後、胴体と腰を包んでいた硬い何か(魔獣の足に決まっているが!)の圧迫感が強まり、苦しくなってせき込んだ。少しだけ冷静になれた頭で、どうやら魔獣は静かな配達をご所望のようだ、と考えた。そりゃそうだ。俺だって、飛行箒に跨っている時に荷物が揺れれば、気になって集中できないんだから。
しかし、俺は勘違いをしていた。
そもそも純血の日本系ヒューミヌの俺を軽々と掴み上げて飛ぶことが出来る魔獣だ。配達官……運び屋として鍛えている程度の俺が身じろぎしたところで、どうにかなる筈がなかった。
圧迫感が増したのは、俺をしっかりと掴んでおく為。
魔獣が力むという事は……戦闘態勢に移行したといグボォ!?
三度目のGの襲撃。内臓をかき回されるような気持ち悪さを、俺は必死に堪えた。地上でならゲーゲー吐いているところだが、慣性がどう働くか分からない空中で喉より上に液体が来ると、気道が詰まって息が出来なくなる恐れがあるのだ。
死因記録が魔獣による誘拐ではなく、吐瀉物による窒息となってしまう……二度死ぬより遥かに屈辱的だ。
『ピァァァァァ!』
魔獣が鳴く。その声を聴いた瞬間、俺は生きることを諦めた。
その瞬間だけだった。何故諦めたのかも忘れたまま、俺は胸に力を入れた。一瞬気を抜いたせいで吐き気が酷くなった……
小刻みにGが変わる。必死に吐き気を堪えながら、何が起こっているのか考える。
……までもない。
空を飛ぶ魔獣が小刻みに動くのは、対空兵器を避ける時だけだ。
つまり、現在進行形で攻撃されて……いる!?
おいおいっ! 次から次へと……居るはずのない魔獣に、在るはずのない機動兵器! 魔法使いだとしても、銃器使いだとしても、もうとっくに地下降下庫へ避難したか、魔獣の群れが飛来した北と西の防御壁に集まっている筈だろっ!
は、ず……なのだ。
……こんなところにいる遠距離攻撃持ちが、正規戦力な訳があるかぁぁぁぁぁぁぁぁ!!
コぉロぉさぁれぇるぅぅぅぅぅ!!
嫌だ嫌だ嫌だ! 魔獣に食われるのも、ゲロに溺れるのも、不良戦士に誤射されるのも!
クソッ。なんでこんな事に……ああ、ええ、そうですジィン先生。俺が数学で赤点取ったからです、はい。でも仕方ないでしょう、俺、理論系の問題苦手なんですよ……
そうじゃなくて。
俺に出来ることはなんだ。俺の何十倍もの体を持つ魔獣に効くような魔法は使えないし、ちゃちな鳥銃一つ持ってない。縄抜けだとか、身代わりの術だとか、そういう忍術の類も、忍者じゃないから使えない。飛行箒がないから飛んで逃げることもできない。
なんてこった。どうしようもない。
俺、よく考えれば文官寄りの学徒だからなぁ……できることといえば、この状況を詳しく憶えておいて、後で担任のジィン先生に携帯伝書鳩で報告……あああああ!
携鳩!
腕は……動く。さっきポケットに入れた携鳩は……ある!
やっほう! 大禍の中の小さな幸運! カギ爪の隙間に腕が入ったおかげで、携鳩が使えるぞ! これで連絡を取れば、学園に認められた正規の戦士を寄こしてもらえる!
俺は片手で取り出した携鳩めがけ、ありったけの声を叩きつけた!
「緊急連絡! 緊急連絡! 緊急連絡! 『座学の棟』で魔獣に襲われた! 大至急で助け」
『現在、魔力波の乱れた場所に居ます。圏内に入るか、大出力の魔力波放出装置を――』
「せからしかぁ!!」
もー、なんだよもー。俺にどうしろっていうんだよー。
ゲロ我慢してりゃいいのか?
『……ミュルーン…………ミュル……ミュミュ……』
もう完全に諦めてしまおう。と思った瞬間、携鳩から妙な音が流れ始めた。デフォルトの着信音に似ているが、少し音階が違うような……
携鳩がミュンミュンミュルミュル鳴ってる間にも魔獣は回避挙動を取り続けている。流石に少し慣れてきたな。けど、たまにまったく違うリズムで動くから油断できない。
「……攫われたー、おと、こー……えずく胸、抑えー…………」
まだ残っていたらしい錯乱の気が、リズムに対して即興の歌を作り始めた頃。
携鳩から、声が聞こえた。
『ミュルミーン、ミュ、ミュ、ミミミ……し! 逆探知完了!』
「ららら~~瑠璃ら見れモナどつ~」
『すまない。僕らが遅れたばっかりに、一人の有望な若者が『気違え』てしまった』
はあ?
…………ああ、『気違えた』、か。英語じゃなくて日本語の。しかも結構古いスラングだ。
「……じゃなくてっ。聞かれてた!? いや、その、今のはちょっと混乱してたっていうか」
『よかった。どうやら正気に戻ってくれたみたいだね』
恥ずかしい!! 穴があったら入りたい!
だがちくしょうっ! 空のどこに穴なんてあるんだ!?
「って、それよりあんたは? どうやって連絡をとってるんだ……ですか?」
冷静になれば、この声は頭の痛い状況に差し伸べられた救いの主だ。思わず敬語になってしまっても仕方ない。
風切り音をシャットアウトする配達官の技能を使いながら耳を澄ます。携鳩から聞こえてきたのは、どこか聞き覚えのある同学年っぽい声だった。
『さっき戦闘中に携鳩の魔力を受け取ってね。強引にマナを流して逆探知してみたら、君に繋がったんだ。まさかこんな所に魔獣が出るなんて……攫われる前に間に合ってよかったよ』
「マジですか。ほ、本当によかった……」
携鳩を放り出さなくて、本当に助かった。
安堵の言葉が情けなく震えたからだろうか、声の主は柔らかに声音を変えて慰めてくれた。
『よく頑張ったね。空を司る女神の寵愛がなければ、そのサイズの魔獣に襲われて生き延びられはしない……そうだ、携鳩にこちらのモニター映像を送ろう。不安も和らぐと思うから』
声の主が言い終わるや否や、携鳩から軋んだ氷のような音が聞こえた。するとスクロール部分がひとりでにスライドし、若干の待機時間を経てある映像が映し出された。
やや灰色がかった白い鷲のような魔獣が、空気の揺らぎを放ちつつ襲い掛かってきた。魔獣の足には何かが掴まれていて、もしかしなくても俺であると察せられる。
マズルフラッシュが焚かれた。
画面右下に銃口が見え、その先には白鷹の魔獣が……
「う、撃たれてる!? や、やめ、殺されるっ!?」
『安心して。魔獣を逃がさないように牽制してるだけだから』
く、くそっ。そりゃあ戦闘のプロフェッショナル様なら冷静でいられるだろうけど、俺はただの文官系候補生なんだ。「当てません」と言われたって、銃を向けられたら取り乱すに決まってるだろ!
「ま、魔法でどうにかならないんですか!?」
『僕は魔力が少ないんだ。乗騎もSVRだし……ごめん。我慢してくれないかな』
申し訳なさそうに謝りながら、なお砲火を上げる声の主。仕方のない事なんだろうが、恐ろしいものはやっぱり恐ろしい。
『うーん、逆効果だったかな……そうだ、こう考えてみてよ。君は見失われていない。今も僕が救助しようとSVRで追いかけている。その証拠がこの映像だ、って』
お、おおっ。そう考えれば少し慰められるかも。
映像を見る限り俺を攫った魔獣は鳥型だ。鳥型の魔獣は子育ての際、ちょうどいい大きさの餌を生け捕りにして雛の前に連れていく。そして親が見守っている安全な環境で、雛に狩りの仕方を教えるという――それが、この声の主に見失われた場合の俺の末路だ。
それに比べれば、魔獣退治の専門家ともいえる声の主の精確な銃撃が辺りを掠めるくらい、まだマシな方ってもんだ。
滅茶苦茶怖いけど。
「分かりました。そう思うようにします」
『うん、それがいい。ありがとう。君、意外とパイロットに向いてるかもね』
「え? それって……」
どういう意味なのか、問いただすことは出来なかった。
今まで柔和な雰囲気を絶やさなかった声の主が、少し怖いくらいに真面目な声音で言葉を荒げたからだ。
『了解! 文句は後で聞くから、今は作戦通りに動いてくれ! 必ず成功させるよ!』
部下か同僚か、はたまた同級生に対して、声の主は命じるかのような口調で通達する。
それから、声の主は俺に向けてカッコ良く言った。
『心配しないで。僕が絶対に助けてあげる……いや、守ってみせる!』
直後、魔獣の翼が生み出す風鳴りとは異なる音が聞こえた。
『ピァアァァァ!!』
甲高い鳴き声。それと共にさっきまでとは明らかに異なる、上向きの回転が俺の体を縛り付けた。うぅむっ、吐き気がぶり返してきた。
酩酊感と酸味でおかしくなりそうな中、回りそうになる眼球を必死に宥める。魔獣が見ようとした『何か』を、俺もこの目で見定めるため――
――見た瞬間に、それは終わっていた。
黒鉄色の何かが通り過ぎて行ったのが左の眼に見えた。右の眼には、一閃の赤い筋が……どわ!? 目が!?
「痛たたたたた!?」
ぐぉぉぉぉ、生臭いぃぃ!
限界までマラソンした後の唾を何倍にも濃縮したような風味が鼻を伝って喉奥まで届いた。しかも目と言わず鼻と言わず、ねっちょりとした熱い液体が俺の顔面をすべて覆いつくしているような気がする。
まさかとは思うけど、これ……ん?
いや待て。それよりも、なんか急に駆け落ちるジェットコースターみたいな感触が……それどころか今まで俺を掴んで離さなかった硬い圧が、ダンボールか何かで囲まれているみたいに弱まっている。不吉な予感がする液体越しに聞こえる魔獣の声が、どこか悲壮げに感じ――
「どわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!? お、落ちてるぅぅぅぅ!?」
脳の伝達神経が濃密な情報を瞬時に纏め上げ、答えを導き出した。
――どうやら、魔獣の足ごと切り落とされたみたいだと。
もう一周回って冷静になるしかない。
もちろん、俺のハートはドックドクにはち切れそうだが。
『ピュァ!!!』
『くっ……ディーオ! ビムクィッド! 早く彼を助けてあげるんだ!』
声の主が叫ぶ。どうにか握りしめていられた携鳩には、両手の火器を全力で稼働させているコックピットの様子が映し出されている。
その位置は依然下。つまり声の主は上を向いて魔獣に発砲しているんだ……待てよ?
なら、上空からすれ違いざまに魔獣の足を切り落として、俺を重力の欲しいままにした奴はどこにいるんだ?
そんな疑問に答えるかのように、携鳩の向こうから別の声が聞こえてきた。
『ふざけるな。オレの任務は魔獣の群れとインヴィルコンの討伐だけだ。逃げ遅れた馬鹿の世話は貴様がやればいい。オレはインヴィルコンを殺す』
『蛇瑰龍よ。其方、誰に向かって物を説いているというのだ。この曇りなき眼が生命の流失を見ていないのだ。死した時の事は死してから考えればよかろう。そんな些事より、我は今宵の夕餉を狩らねばならぬ。この鳥肉め、よく叩いて柔らかくしてくれるわ』
『き、君たちときたらぁぁぁぁ!!』
冷たい声と不真面目な声に、声の主は爆発したような怒声を浴びせかける。俺を魔獣の魔の手から物理的に救い出してくれた人たちは、俺より魔獣と晩飯を優先しやがったらしい。
……やばい。
元々とんでもない状況だったけど、どうやら本格的に慌てなければいけない段階になってしまったんじゃ……?
「……う、うわぁぁぁぁぁぁ! 今度こそ、本当に、死ぬぅぅぅぅぅぅ!!!」
『くそっ、間に合え! 間に合え、《ミヅチ》!!』
かなり切羽詰まった声が携鳩から聞こえる。
歯止めの利かなくなった車輪みたいに体がクルクルと回り、何度も風景が入れ替わった。
入れ替わる風景の中で、緑にカラーリングされたSVRが俺に手を伸ばしながら走っているのが見えた。型は学園のパイロット候補生用に下げ渡された《ノイ・イェーガー》に似ているが、シルエットに違和感がある。カスタムタイプなのか……?
回転する視界の傍目にも、緑のSVRは懸命に走ってくれた。
SVRとは思えないくらいの速さで走る緑のSVR。動力源であるアダマンタイトが機体各所から溢れているのか、まるで緑色の流星のようだった。
それでも、鋼鉄のマニピュレーターは間に合わなかった。わざわざ装甲をパージして、緊急救助用のエアバッグまで起動してくれたというのに、加速が付いた俺の身体は緑のSVRの手からすり抜けてしまった。
「くそぉぉぉぉぉぉ!! カプトゥス! どうにかキャッチできないの!?」
拡声器だろうか。声の主の声が大音量で聞こえた。それに対し、何と形容すればいいのかまったく分からない咆哮が耳朶を打った。緑のSVRから罵りの言葉が上がる。
ああ、もう助からないのかな、俺。
間近に迫る浮遊島を見て、俺は死を覚悟した。だが気付いた時には島ではなく、もう一つの空が広がっていた。
それから二回転程で、それが空じゃなくて海なんだと気付いた。魔獣は浮遊島上空から逃げ出していて、広い太平洋に飛び立とうとしていたんだ。
おかげで命拾いした……いや、結局海に叩きつけられて死ぬんだから、地獄に蜘蛛の糸って感じだけど。
空、海、空、海、ボコられる魔獣、空、海、空、落ちる羽根、海、空、海、血霧、空、海。
翼があらぬ方向に捻じれ、今も俺の眼を苛んでいる血液は岩にぶち当たった滝のように分かれ、抜け落ちた羽根と共に流れ落ちている。へっ、ざまーみろ。
俺の仇は討たれたようだ。この目で見れたんだから、まかり間違ってアンデッドになる事もないだろう。海水に浸かったアンデッドなんて、見せられる姿じゃないからな。
何度も空と海を見続ける中で少しずつ冷静になっていった俺は、腰に力を入れてみたり背中に力を入れてみたりと四苦八苦しながら体勢を整えた。
足を下に、頭を上に。
着水点が頭か足かで落下事故の生存率は大きく変わる。だから、もしも飛んでいるときに飛行箒から落ちてしまったら、どうにかして体勢を整えろと学園の教官が言っていた。ヒースタリア学園の浮遊島は海抜500mくらいだから、あまり意味が無いかもしれないけど。
それでももしかしたら……なんて。
科学と魔法が融和した今の世界で、安易に奇跡を願ったって意味はない。
土壇場で足掻くなんてみっともない事だと思う。格好悪いし、無理に動いたせいで吐き気が喉元まで迫っちまった。何もせず、ただ運命に導かれるまま、あの世の扉まで落ちていけばよかったのかもしれない。
でも、あの緑のSVRに乗った声の主は、俺を助けようとしてくれたんだ。
偉大なる科学と魔法の従事者、『マギナウスの学徒』たる者、『救いの手を差し伸べられたのなら、努めて転ばぬようにしなければならない』。
前まではまともに受け止めず、ただ試験の為に暗記していただけの言葉だった。
けど今は、その意味が少し分かったような気がする。
あれだけ必死に助けようとしてくれたんだ。
なのに自分から転げるような様を晒すのは、なけなしのプライドが許さない。
波の音が聞こえる。
風切り音に混じった海水のぶつかる音が恐怖となって、心の底にじわじわと染み込む。大層な決意とは裏腹に歯の根は合わず、両腕は今にも身体を抱きすくめて丸まりたいと言わんばかりに震えている。
これが死。
これが、俺のご先祖様たちが味わった、死。
泣けるくらい怖いんだな、死って。
死ななかったとしても、死んだとしても、きっと前までの俺ではいられないと思える。とても、恐ろしい事だ。
腰に力が入らなくなった。そこから少しずつ力が抜けていって、加速度的に恐怖が増した。
本当の恐怖って、胸じゃなくて腰から湧き上が――
水平線が真横に見えた。
その瞬間、俺は何も考えられなくなった。