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ガイア  作者: 知舘美衣
なぜ人は苦しまねばならないのか
18/19

第二章 第十二話 救済活動

【作者より】

第二章第十話からこの回までは、以前作ったものの修正作業ではなく、

一から物語そのものを組みなおす作業に入っていました。

まさかここまで難産になるとは思ってもいませんでした。

話の続きを楽しみにしていた既得な方がもしいらっしゃいましたら、

この場を借りまして、大変遅くなってしまったことをお詫びいたします。

その日、私は早くから目が覚めた。外はすでに太陽の眩しい光に覆われ、朝の若々しい香りに満ちていた。今日から『仕事』だ。案内人が言っていたオルソンとか言う人物が来る前に支度をしなければ。


私はベッドから抜け出し、暖かい日差しの中で顔を洗ったり髪を整えたりした。身支度がある程度済むと今度はおなかが空いてきた。広いリビングの脇にあるキッチンには、数人が座ることの出来るテーブルがあり、そのテーブルの上には朝食が準備されていた。私が今まで見たこともないようなかぐわしい果実や、柔らかい口当たりの水やふわふわのパン、綺麗な真白い皿に乗せられた野菜が所狭しと並べられていた。どれもこれも、今まで食べたことの無いくらいとても美味しいものばかりで、夢中になって平らげた。


私が今まで体験したことのないほどの満腹感に満たされた時、玄関を叩く音がした。私はすぐさま玄関を開けた。

「やあ、おはよう。俺は『救援隊』のリーダーのオルソンだ。よろしく。」

オルソンは、全身筋肉質でやや私より背が高く、目の大きな人だった。私はオルソンと握手し、リビングへと誘った。

「早速だけど、俺達の仕事の説明をするよ。」

オルソンは立ったままで私に説明を始めた。『救援隊』の仕事は、主に地下第一階層より下の国へと向かい、そこで苦しんでいる人々を救済するのだそうだ。ここで言う『苦しんでいる人々』とは、生前の行いのせいで地獄の階層へと落ちてしまった人々の中でも、心から悔い、今の苦しみから逃れたいと本気で思っている人のことだそうだ。

「とにかく、実際に仕事をしてみればわかるさ。じゃあ、メンバーに会わせるから、俺についてきてくれ。」

そう言われて着いていくと、池のほとりに大きな樫の木があり、そこに他のメンバーが居た。

「ここが我々『救援隊』の集合場所だよ。覚えておいてくれ。仕事前はここに集合してからみんなで行くから。それと、今日は初めてだから俺がパートナーだ。はぐれずについてこいよ。」

オルソンが軽快に言った。


『救援隊』メンバーとの挨拶も済み、一同は地獄へと向かって行った。今日は第一階層の国を回るとのことだった。一体どんな場所なのだろう。前日までの期待や興味はこの時の私の胸からはすでに失せ、緊張と不安でいっぱいになっていた。


オルソンに導かれるように下へ下へと降りていくと、空は徐々に厚い雲に覆われ、真っ暗で陰気な世界に変わっていった。


「さあ、着いた。」

オルソンがそう言いながら地面に降りた。私も他のメンバーも今日はここで仕事をするらしい。私は辺りを見回して背筋に冷たいものが走るのを感じた。ここには無数の人が住んでいたが、その風貌はまるで乞食かグールのようで、薄汚れた服を着、その服もボロボロで醜悪だった。ある人は暴力を持って他人が大事に持っていたものを奪い、またある人は他人に悟られるのを異常に怖がりながら何か良い物が落ちていないかと地面にうずくまって探っていたりし、またある人は自分の欲望のままに快楽にその身を委ねて生活している、いわゆるならず者の住む町と化していた。ここではすべての人が自分の快楽のためだけに生き、それを悔い改めることなく永遠を過ごしていた。こんなところで果たして私たちが手を差し伸べるべき『悔い改め』ようともがいている人はいるのだろうか。オルソンに着いて街を散策しながら、私はふと不安になった。

「ここにいる人たちは、みんな『物欲』『性欲』と言った『欲』から、死んだ後でも逃れることが出来ずにいる人たちなんだ。よく見ておくんだよ。『欲』に縛られた人を。あの風貌を。たぶんこの人たちは物質界で生きていた時、贅沢をしていい洋服を着て、いい家に住んでたんだろうね。でも今はほら、どっちかと言うと乞食と同じ風貌だ。この精神世界では、心の貧しいものは見た目も貧しく、心が清い人は見た目も清くと言う風に変化するんだ。」

これが、生前贅沢をして来た人々の姿なのか。そしてこういう人たちは、生前自分の財産を守ることだけを考え、他人に何かをしてあげようとか、他人を助けるために自分の財産を使うと言った行為を嫌がって来たのだ。こういう人たちは、ここで自分以外の人に何かをしてあげようと言う気にならない限り、この地獄からは抜け出せないのだそうだ。私はなんだかこの人たちが憐れに思えてきた。


周りの人々の話すことを聞くと、皆一様に『なぜ自分がこんなところにいるのか』とか『なぜ自分がこんな姿をしているのか』と不平をもらしてばかりいた。そんな声ばかりを聞いていささかうんざりして来た頃、どこかですすり泣く声を聞いた。オルソンも聞き取ったようで、その声の主を探してあちこちを見ていた。


見るとその人は、他の住人から逃れるかのように岩の間に身を隠して泣いていた。オルソンが声を掛けると、その女性は涙ながらに言った。

「私は生前貴族でした。息子は私の勧める女性との縁談を断り、別の女性と結婚すると言い出しました。私はどこの馬の骨ともわからぬ女との付き合いを禁じたのですが、息子は承知しませんでした。私は家名を守るために息子を罠に嵌め、結婚したいと言っていた女性には手切れ金を渡し、息子には結婚の意志は最初から無かったと言い渡して無理やり別れさせました。その後息子は行方不明になり、無理やり別れさせた女も行方知れずになっていて、これは駆け落ちでもしたかと探偵を雇って方々を探しましたが息子は見つからず、ようやく探し当てた時にはもうすでに息子はこの世にはおらず、人伝ひとづてに、息子は悲嘆に暮れて亡くなったと聞きました。私は当時は、自業自得だと、息子が私を裏切って他の女と結婚しようとなんかするから早くに死んでしまったのだと思っていました。しかし見てください、ここの住人を。まるで私のようではありませんか。家に執着し、浅ましく、人の気持ちをも踏みにじり、人をまったく信用しない、まるで生前の私です。こんなところで毎日を暮らすうち、本当は私が間違っていたのではないか、息子は、本当にあの女を愛していたのではないかと思うようになり、そう思い始めると日増しに息子には悪いことをしたとの自責の念しか浮かばなくなり、こうして物陰で息子に侘びていたのです。」

「では、あなたはご自分が間違っていたと、そうおっしゃるんですか?」

オルソンが聞いた。後で聞いたことだが、後悔している人は、その気持ちを素直に『自分から』打ち明けないことには、たとえ私達が助けたくとも、助けることは出来ないのだそうだ。だからわざとこのような遠まわしな言い方をして、意志を確認したのだそうだ。

「はい。私はあまりにも人を信用しなさすぎました。そして最愛の息子をも信用せずに死なせてしまいました。私はその償いをしたいと思います。」

そこまで言うと、女性はまた泣き出した。

「では、あなたがここでするべきことを教えましょう。あなたはここで、人のために何かをしてあげるのです。自分への見返りを考えず、ただその人のために何が出来るのかを考えることです。そうすればじきに罪を許されるはずです。」

そこまで言うと、オルソンはその場を去った。私はその場になす術も見つけることが出来ずにただ呆然と立ち尽くしている女性の姿をいつまでも目で追った。

「あの女性は、自分から行動しなければならない。たとえそれが自分自身を傷つけることになろうとも。これからはきっとあの女性にとっては辛く険しい道になる。早く上へ上ることが出来るといいが。」

そうか。ただ悔い改めているだけでなく、悔い改め、そしてそれを実行できなければ救い出すことも出来ない場合もあるのか。私はなんだかあの女性やあの国に住んでいる人が気の毒になった。きっと彼女も機会があれば、生前に悔い改めることも出来たはず。それをせずに死んでしまったために、死してもなおその罪に責め苛まれることになるとは。これこそ生き地獄とも言えるのではないだろうか。私が体験した地の底とはまた別の、精神的な苦行が永遠に続くのだから。


この後別の国にも行ったが、これと言って収穫はなかった。しばらくしてから私達は自分たちの家のある地上第一階層へと戻った。

「さて、今日の仕事はこれで終わりだ。明日もよろしく。では解散。」

オルソンが軽快にそう言うと、私は一目散に家へと戻った。そしてシャワーを浴びた。第一階層とはいえ地獄の領域に入り、体に瘴気がまとわりついたように感じたからだ。全身をシャワーで綺麗に洗い流した後は、すっきりとした開放感に満ち溢れた。


次の日も、また次の日も同じ作業だった。二日目からの私のパートナーはリャンと言う青年だった。リャンは私よりも前からこの『救援隊』のメンバーで、私よりも少し霊的レベルが高いのだが、自分を高めるためにとわざわざこの苦難の職に就いているのだという。この尊い人と一緒になり、数々の国で救いを求めている人を探しては助言をする毎日だった。いつしか私は、この仕事を生きがいにさえ思えてきていた。


『救援隊』での仕事にも慣れ何ヶ月かが経った頃、リャンの提案でこの日はもう少し深い階層まで足を伸ばすことにした。そこは生前にその好戦的な性格で数々の戦争を引き起こした人々が住むという国だった。戦争好きな人の中でもとりわけリーダーになる人は知略も武力も長けていて、圧倒的な恐怖を持ってこの地を支配していた。


私の目の前で繰り広げられた戦争の悲惨さは思わず目を背けたくなるほどで、物質界での最強の武器である鉄砲や大砲などのものはここにはなく、みんなが手にしているのは一本の剣のみで、大勢がぶつかりあい、殺し合いをしていた。ただ地上と違ったのは、ここでどんなに剣で突かれても切られても死ぬことがなかった。ただ傷つき倒れるだけで、死ぬことも叶わずにただひたすらに戦い続けるだけの亡者達だった。


「なんて惨い・・・。」

ここでは、男も女も子供も関係ない。ほとんどのここの住人は、戦争で負けても死ぬことがないからと、半ば安心して人殺しを楽しんでいた。だが斬られた人の痛みは普通に感じるらしく、誰かが斬られる度にあちこちから悲痛な悲鳴が聞こえてきた。無残に斬られた人々はあちこちに転がり、のた打ち回り、動くことも出来ずにいた。その光景はさながら累々と転がる死体の山のようであった。


そんな中で私達はひとりの男が目に留まった。それは生前ヴァルキアの隊長だったラウドの姿だった。私はしばらくラウドを観察していた。私の心は静止したかのように静まり返り、以前の憎しみも起こらず、ただの傍観者に徹していた。なぜ私の心はこんなにも静まり返っているのだろう。自分でも不思議だった。ラウドはこの戦争の国で傷つき、倒れてボロボロになっていた。ただただ毎日を戦って傷つき、まるで死体の山と見紛うばかりの人々の中に転がっていた。


リャンが立ち止まっている私に気がつき、傍へ寄って来た。

「どうした?あれは・・・知り合いか?」

「昔の、私の上官だった人です。」

「なにかいわくがあるみたいだな。もしかして、今でも君はあの人のことが許せないのかい?」

私は、このリャンの質問に躊躇することなく答えた。

「いえ、今はなんとも思っていません。むしろ、あの人がかわいそうだとさえ思えます。」

「そうか。」

二人はラウドをもっと良く観察しようと傍へ近付いた。ラウドは今にも消えてしまうのではないかと思えるほど衰弱していた。その憐れな姿を見て、私はいつしか涙をこぼしていた。

「君は、昔の因縁はどうあれ今、あの人を助けたいと、そう思うかい?」

私は小さく頷いた。生前は散々苦しめられたが、この地ではラウドも奴隷の一人のように、力の強いものに虐げられて細々と生きていた。そんな惨めな姿のラウドを見て、私は憐憫の情を感じずにはいられなかったのだ。

「そうか。君は成長したんだね。昔何があったか知らないが、君の今の気持ちを大事にしたほうがいいね。」

リャンはそう言うと、にこやかに微笑み、まるで慰めてくれるかのように私の肩をポンポンと優しく叩いた。


ラウドは、地面から起き上がることが出来ず、近くに列を成して進む人々に踏まれながらも必死に何かに執り憑かれたかのように全身を震わせながら起き上がろうとしていた。そして顔を上げた瞬間、私と目が合った。ラウドはハッとした顔で私を見上げた。ラウドの顔からサッと血の気が引くのがわかった。まさか生前自分が虐げていた人物にこんなところで出会うとは、そんな表情だった。

「何しに来た。こんな姿の俺を見て、お前はさぞ楽しいだろうな。」

ラウドは生前と同じく嫌味たらしく言った。しかしその言葉には生前ほどの嘲笑はなく、むしろ惨めになった自分が恥ずかしいとでも言いたげな、悲しい響きに思えた。私は、ラウドのこの言葉に反論もせずにただラウドを見つめていた。


私とリャンが見つめる中、ラウドは再び立ち上がろうとしていた。全身傷だらけで、疲れて蒼白な顔をし、それでもまた戦争の列に戻ろうとしていた。私に見られていることで意地になったのかもしれない。


ラウドはよろよろと立ち上がると、また戦争の列へ消えていった。だが私には、いまやはっきりと聞こえていた。ラウドの心の叫びを。心の中で必死に「助けてくれ」と言っているのを。リャンもその声を聞きつけたからこそこの辺りに来たのだろうし、もしそうでなくても、なにか見えない力で助けを請うものに引き寄せられたのかもしれない。リャンと私は頷き合い、再びラウドの近くへと寄って行った。


「ここから抜け出したいか?」

私は唐突にラウドに聞いた。ラウドは最初、私のこの言葉が信じられないと言った顔をし、私をまじまじと見つめたまま動かなかった。

「ここから抜け出したいか?」

私はもう一度ラウドに言った。ラウドはしばらく私の顔を眺め、リャンを見た。

「情けを掛けるとでも言うのか。この俺に。」

ラウドは笑ってはいなかった。真剣な顔をし、この地で今の運命になったことに諦めを感じているようだった。

「俺は生前、多くの人間を虐げて生きてきた。人を罠に嵌め、自分の出世のために人々を苦しめ、踏みにじってきた。そして自由に奴隷達をこき使ってきた。しかしここでは俺が奴隷だ。俺は他の力の強い者に足蹴にされ、なじられ、傷つけられながら生きている。生前とはまったく逆の立場になったってわけさ。どうだい、笑えるだろう?笑いたければ笑うがいいさ。」

そこまで言うと、ラウドは小さく笑いながら大粒の涙を流した。

「俺は一体何をやってたんだ。小さな欲望のために人々を苦しめ、陥れ、人々に憎まれてまでも手に入れたかったものは一体なんだったんだ。」

「これからやり直せばいいじゃないか。」

リャンが言った。

「いいかい。もし君が、生前の自分の行いを反省する気持ちが少しでもあるなら、この地獄から抜け出すことも出来るんだ。君が本気で抜け出したいと願うなら、やり直すことが出来るんだよ。」

ラウドはつとリャンの顔を見上げ、涙いっぱいの真剣な眼を私達に向けた。そして思いつめたように言った。

「抜け出したい!抜け出したい!助けてくれ!俺を!助けられるものなら!助けてくれ!!」

ラウドはそう言うとまたうつ伏せになって全身を震わせながら咽び泣いた。

「いいかい。ここから抜け出しても、あなたを待ち受けているのはここよりも辛い道かもしれない。それでもここから抜け出したいと本気で思うかい?」

ラウドはしばらく泣きながら、リャンの言った言葉をかみ締めるかのように考え、そしておもてをゆっくり上げた。

「ああ。俺の出来ることならなんでもすると誓う。」

「その言葉は本当ですね?」

私が再び問うと、ラウドは地べたに正座しなおし、真剣な顔つきで大きく、深く、そして力強く頷いた。それを見た私は、リャンと二人でラウドを担ぎ上げ、戦争の渦から救い出した。ラウドの体は非常に重く感じ、二人はよろよろしながらラウドを掴んで飛んだ。しばらく飛ぶと、別の救援隊が傷ついた人々を治療していた。私とリャンは力を合わせてラウドを運ぶと、治療師にラウドの身柄を預けてオルソンに報告に戻った。オルソンの手配で、ラウドは体の治療をした後、悔い改めの国へと向かうことになるらしい。そこで今までの罪を悔い改め、それが出来て初めて罪を許されるのだ。これからのラウドはきっとリャンが言っていたように茨の道に行くことになるだろう。だがそれを乗り越えることが出来なければ、ラウドにとっての地獄はさらに続くことになる。私は心から、乗り越えて欲しいと願っていた。


私とリャンはラウドをその場所に残し、その日は我が家へ帰ることにした。地獄の下層へと行ったことで、瘴気を浴びて私の体は疲れ果てており、リャンがそのことに気付いて私の体を気遣ってくれてのことだった。私はリャンにお礼を言い、家へと向かった。


家に戻ってシャワーを浴びると、玄関のドアを叩く音がした。急いで着替えをし、玄関の戸を開けた。そこには私を導いてくれた女性がいた。

「あなたに朗報があって来ました。」

私は女性をリビングへ通し、女性の向かい側に座った。

「あなたは、生前の憎しみを見事に退けましたね。そして心から相手を許し、そして慈悲を与えました。そのことであなたの霊的レベルが上がり、お母様に会うことが出来るようになりました。」

私はその報告を聞いて飛び上がった。母のことは片時も忘れたことはなかったが、こんなに早く会えることになるとは思ってもいなかった。嬉しさで思わず顔が緩んだ。

「お母様に会いたいなら、『会いたい』と強く念じてください。」

女性に言われるがまま、その場で私は目を瞑り、『母に会いたい』と強く念じた。すると、今まで私の隣には誰もいなかったはずなのに、いつの間にか母がそこにいた。私は嬉しさのあまり母に抱きついた。母も涙を流しながら私を強く抱擁してくれた。

「親子の対面を見事果たせましたね。では、私はこれで失礼します。あとは水入らずでごゆっくり。」

女性がかき消すように消えると、母は涙を流しながら嬉しそうに私を見た。

「辛かったようね。でも、元気そうでよかった。私はずっとあなたの傍にいたのよ。」

突然のことでびっくりする私を尻目に、母が続けて言った。

「生前はあなたには苦労ばかりかけてしまったから、すごく気にしていたのよ。」

信じられないことだが、確かに母は私の目の前で話をしている。生前は口を利くことが出来ずに散々苦労していたのに。しかもその澄んだ声は女性らしい柔らかい声で、私に安らぎさえ与えてくれた。私はしばらく唖然としてしゃべることも出来なかった。そしてやっと言葉を搾り出した。

「かあさん・・・。しゃべれるように・・・なったんだね。びっくりした・・・。」

母は柔らかくクスクスと笑った。

「ええ。私は事情があって生前はしゃべることが出来なかったけど、今はちゃんとしゃべれるわ。驚いた?」

私は幸せそうな母の顔を見て、そして声を聞いて、なんだか心の片隅で凍ったままだったものが溶け出すような、不思議な感覚になった。そしてまた泣き出してしまった。私は母に会いたかった。会って、そして大事なことを言わねばならなかった。頭の中で言葉を整理し、ゆっくりと母に言った。

「かあさん。俺は、俺は、かあさんを死に追いやってしまった。俺のせいでかあさんを・・・。」

そこまで言うと、言葉が喉に詰まったようになってしまい、思うようにしゃべることが出来なくなってしまった。母は私を抱き寄せ、そっとキスをした。

「いいえ。あなたのせいじゃないわ。あなたは頑張った。とても頑張ったわ。私は幸せだったわ。あなたのような子供を持てて。私の子供があなたでよかったわ。キース。愛してるわ。」

私は小さな子供に戻った時のように、母に顔を埋め謝りながら泣いた。そして再び心に誓った。二度と大事な人を不幸な目には合わせはしないと。決して。決して。


私が泣き止むまで、母は私の傍に寄り添いずっと私の頭を撫でてくれていた。空が夕暮れに染まる頃、ようやく私は涙を拭いて再び母の顔を見ることが出来た。母は生前と同じ優しい表情で、私を愛おしそうに見ていた。


その日の夕食は母と一緒にとった。母が出してくれた食事は、いつもより遥かに豪華絢爛なものだった。私は母とふたりで腹がはちきれるかと思うほど食べた。久方ぶりの楽しい夕食だった。今まで口にしたことのない見事な香りのするワインを飲み、ほろ酔い気分になった頃、母からまた新たな情報が入った。それは私の転生に関することだった。


母が言うには、私はここへ来ていろんなことを学び、そして人々を救うための仕事に従事した。その行いが認められ、転生の準備段階に入ることを許されたらしいのだ。そしてそのことはすでに『救援隊』にも知らせが届いているはずで、明日からは転生するために別の場所へと移動することになるとのことだった。

「かあさんも転生するの?」

思わず私は母に聞いた。母は悲しそうな顔をして首を横に振った。

「私はまだここでやることがあるので、しばらくはここにいることになりそうなの。でも、私はいつまでもあなたの傍にいるわ。忘れないで。」

そう言うと、母は再び私を強く抱きしめてくれた。


夜も更けた頃、母は自分の帰るべき場所へと帰って行った。この上の第二階層に母はいるとのことだった。そして転生した後に、ここでの教訓を忘れることなく過ごせば、きっと私も、再びこの世界に来た時には母と同じ第二階層へと行けるかもしれない。このことは今後の私の新たな励みになった。


次の日、オルソンと無愛想な案内人が私の家へ来た。

「君は今日から転生準備に入るんだってね。おめでとう。よかったじゃないか。頑張れよ。」

私の手を握り締めながらオルソンは軽快に言った。私はオルソンにお礼とリャンへの言付けを頼んで案内人に導かれて住み慣れた家を出た。


しばらく歩くと、目の前に大きな扉が見えた。案内人はその扉を開け、私を中へと案内した。そこはまさしく転生前に来た所と同じ場所で、目の前にはレテの川が流れており、レテの川にかかる橋を渡ると川の番人が転生する人すべてに川の水を飲ませていた。


いまや人通りも少ないこの場所に、過去私は何度来たことだろう。どこかで見覚えのあるこの川と番人、そして番人の向こうに広がる神殿の中へ入れば、そこからはもう今までとは違う自分になるのだ。今度は一体どんな人物になるのだろう。この水を飲んでしまえば、キースと言う人間の記憶はなくなってしまう。それがなんとなく寂しく思えた。


レテの川の番人から透き通るグラスになみなみと注がれた七色に光る美しい水を渡され、しばらく魅入っていると、番人が急かすかのように言った。

「やっぱり記憶を消すことを躊躇ためらわれますか?でも、それを飲まなければ転生できませんよ。さあ、早く飲んでください。」

キースと言う人間の記憶がたとえなくなってしまったとしても、私はきっと忘れない。この地で会ったいろいろな人々、そして母のことを。私は心にそう強く念じ、渡された水を飲み干した。段々と周りの景色が薄れていき、私は深い暗闇の中へと落ちて行った。

次回からは第三章に入ります。

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