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生きること、死ぬこと

今日の彼女は泣いていた。


一度も泣く姿を見せなかった彼女。

全身を激しく震わせながら両手を強く握りしめている。

その腕に抱かれているはずの命が見当たらない。


時々うめき、肩を上下させて苦しそうに呼吸を繰り返す彼女に、彼は言葉ひとつかけられなかった。

そうしてただ立ち尽くしていたら、彼女は机を蹴り倒して暴れるように悶えはじめた。


彼女はまだ彼に気付いていない。

ようやっと彼に気付いた時には子供のままに泣き叫んだ。

何かを話そうとするが、唇が痺れて声も詰まるようだ。

掠れた音だけが何かを虚しく訴える。


彼はコップ一杯の水を用意した。

彼女はそれを何度かこぼしながらもなんとか飲み干した。

それから落ち着くまでには長かった。

彼女は壁の一点を見つめて息を吐くように静かになった。


そして、心の奥に押し込めていたものを少しずつ整理する。


「わたしはたくさん後悔してる」


心が痛いのがずっと続いている。

わたしには小さなものから大きなものまで、たくさん不安がある。

家族のことや友達のこと、過去のことから将来のことまで。

自分で解決しなきゃどうしようもないから、どうにかしようと考えるのだけれど、どうにもならなくて、でもどうにかしたくて、それでも考えるばかりだった。


わたしは行動を起こすのが苦手。

とても臆病なんだ。

今までは友達や親がいたから出来るフリをして威張ってただけ。

ひとりで何とかしてみようと思うんだけれど、思うだけで分からなかった。

バカだから何も分からないんだ。


赤ん坊だけでもどうにかしようと思った。

この温かい生き物を愛して育てようと思った。

でも、わたしにとって赤ん坊は罪だった。

だから段々と見るのも嫌になってきた。

赤ん坊が泣く度に責められているような気がした。

お前のせいで苦しいんだって言われているような気がした。

殺したいと思ったこともあるよ。

だからってそんなこと出来るわけなくて、どうしてか、その瞬間だけとても愛おしくなるんだ。

たまらず、ぎゅって抱き締めると気持ちよかった。


それでも、わたしは毎日が辛い。

朝起きるとまた生きる今日のことが苦しくて。

夜寝るときは生きなきゃいけない明日が恐かった。

ここで赤ん坊と静かに過ごしている間だけ心は静かだった。

寂しい気持ちもあったけど、プリンのおかげで少しはマシになった。


わたしは今できることを精一杯頑張ろうって何度も自分に言って聞かせた。

わたしは賛成して赤ん坊の面倒を頑張ったつもり。

けれど難しいね、うまくいかないもんだ。

赤ん坊てとても弱いの。

急に泣き止まなくなってね。

ミルク上げたりオムツも替えてみた。

でも泣きやまなくてゲロまで吐き出して。

たくさんあやして、ぽんぽん、て優しく背中を叩いてみた。

子守唄だって歌ってみた。

でも泣き止まなくて、わたし不安でたまらなくてそれに恐くなってきて、家には誰もいないし助けてくれる人もいない。

しばらくしたら、泣き声が小さくなってきたの。

わたしは赤ん坊の首を思いっきり絞めた。

どうしてそんなことしたのか今も分からないよ。

でもそうしたら、赤ん坊は最後に笑ってくれたんだ。

わたしも笑った。

ありがとう、て言ったらもう動かなくなってた。


赤ん坊はここに来る途中捨てた。

死んだ人間はゴミなんでしょう。

ねえ、わたしやっぱり分からない。

生きていたら大事にするくせに、どうして死んだらみんなゴミ扱いするの。


「わたしには命が大事だなんて分からない」


話し終えて、彼女はまた泣き出した。

自分を責めたところで他人から批判されるだけだという常識で殴ったり、お前は立派な人殺しだという倫理を投げつけたり、そうして世の大人たちは彼女にトドメを刺すだろう。

彼はそんなくだらないことを考えた。


今の自分に何ができようか。

彼は彼女と同じだった。

まったく分からない。


ここで、突然、ビル全体が小さく揺れた。


それが彼女の意識をはっきりと引き戻した。

本能の死に対する恐怖が、皮肉にも彼女を生かせようと現実に引き戻したのだ。


「地震……?」


「心配ない」


とは言い切れないほど現実は残酷だ。

彼は、間もなく全てが終わろうとしていることを日々何となく感じていた。

下層都市で見た大きな穴はもしかしたら……。


「俺は恐い」


「え?」


彼女の隣へ、気を落とすようにどかっと腰かける。


「死にたくない」


それは彼の本心だった。

子供の頃から死体を何度も見て覚えた死。

下層都市に降りて直接刻まれた死。

そしてこうした自然現象により実感させられる死。


やがて誰にでも訪れる死、彼にとってその恐怖は子供の頃よりますます彼の心を蝕んでいた。

だからこそ、いつか純潔で高貴な人間を目指すことを諦めてそこらの大人に混ざり込んだ。

そしたら僅かでも紛れる気がしたから。


彼がそのことを理解したとき、彼女の小さな手が彼の手に重なった。

とても冷たくてかたい。


「いっしょ?」


彼の顔を覗きこんで彼女が問う。

生きることが恐い彼女、死ぬことが恐い彼。

真逆に思えるかも知れない対する二つの不安。

それはまた同じなのだ。


彼が頷くとようやく安心したのだろう。

彼女はベッドに横たわって目を閉じた。


「わたし、もう帰れない」


「いつまでもここにいればいい」


「いいの」


「構わない。とりあえず今日はゆっくり休むといい」


「うん」


「明日は、楽しい話をしよう」


「楽しい話?」


「のんびり話し合おう」


「うん。わかった」


彼女は少しして、静かに眠った。

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