友人がいる
「警察だ!動くなよ!」
とある昼前の出来事。
こうして突然に警官が彼のビルへと踏み込んできたのは、呆れを通り越して、もう何百回めのことだった。
「貴様がここに住み着く子猫かね」
ハンドガンを構えて脅すように警官が言うと、彼女はうろたえ、赤ん坊は大声を上げて泣き出してしまった。
だが、彼は助けようともせず二階で淡々と部屋を整理している。
「助けろ!アドルフ!」
階下から彼の名が呼ばれる。
彼は面倒くさそうに生返事だけを返した。
「助けろよ!」
警官は二階へと逃げるように上がった。
ずいぶんと身なりのだらしない警官だ。
坊主だから無精髭が何より目立つ。
「聞いているのかね」
「返事は返しただろう」
「赤ん坊が泣いた」
「お前が泣かした」
「悪かった、どうすればいい」
「親に聞け」
「親は糞食らってとっくに死んだよ。知ってるだろう」
「あの子、に聞け」
「あの子は本当に母親なんだね」
「そうだ」
彼は部屋の整理をほどほどに終えて彼女のもとへ降りた。
「平気か」
「警察が……」
すっかり怯えた様子の彼女の肩に手を置いて落ち着かせる。
「友人だ。心配しなくていい」
それを聞くと、彼女は彼の背後にいる警官に向かってわざとらしく大きな舌打ちをひとつした。
「しつけがなってないようだね」
「あんたこそ」
彼女は完全に機嫌を悪くした。
警官が必死に謝ってみたが三日は直りそうにない。
彼も昔、この警官に同じことをやられた経験があったので当然だと思った。
「今日はここへ戻らない」
「分かった」
彼と彼女の会話はそれで終わった。
警官はウィンクして机の上へと紙幣六枚をハート型に置いてから、彼の後を追ってビルを出た。
「いつもの店でいいだろう」
「お前の親が糞食らって死んだ店だぞ」
「それは昔話。今さら気にするなよ」
道路をしばらく歩いていると、まるで途切れるようにビルが忽然と消える場所がある。
そこはこの都市にたったひとつあるスラム街の入り口。
その入り口の左右にあるビルは彼等を監視するためだけにある。
「こっちを見るな、撃つぞ」
この性質の悪い警官はスラムの住人にまでハンドガンを構えて脅す。
が、この悪ふざけもよくあることで、住人は決まって警官に中指を立てた。
「ここを良い意味で守ってやってるのに、俺とはいつになっても仲良くしてくれない」
スラム街はいつも酷い臭いに包まれている。
それにゴミも散乱している。
そのゴミには時々、人間も混ざっていると警官は言う。
ところがそれも含めて、ゴミは彼らにとって貴重な資源なのだ。
「おーい、聞いているのかね」
警官の話をまるごと無視して十分ほど、ようやく二人は目当ての店にたどり着いた。
外観は小さな穴だらけでひどく汚い、それに尽きる。
もちろん内観も同じだ。
「警察だ!大人しくしろ!」
懲りずに警官がふざけると、挨拶代わりに奥から飛んできた包丁が特殊プラスチックの薄い壁を貫通して突き刺さった。
それを確認してから彼は店へと入る、二十年は続く慣れたやり取りだ。
「あーあ。またひとつ穴が増えたよ」
「何にする」
痩せこけたじいさんが薄暗い調理場から白い目だけをギョロつかせて注文をとる。
「人が食えるものを頼めるかね」
警官が偉そうに答えて腰掛けた瞬間、店主お手製の椅子はからかうようにバラバラと砕けた。
「はは、こいつは軟弱ものだね」
「まったく、何度繰り返す気だ」
こういうことがないよう、彼はこの店では常に立っているようにしている。
「お前には学習能力がないのか」
「俺は警察だぞ」
「そうは見えない」
「疑うのかね」
「誰だってお前を見れば疑うだろう」
他愛もない雑談を続けていると、二人の前に小ぶりな肉の塊が運ばれてきた。
それに萎びた野菜が申し訳なさそうに寄りかかっている。
匂いはさほど悪くない。
「どうした、食えよ」
「いつもと違うな」
彼がここでいつも口にしていたのは加工時に余った屑肉のミンチで、こんなにしっかりした形のものは一度も見たことがなくゾッとするような不安を感じた。
「人間は食いたくないだろう」
「なに?」
「この都市で新鮮な死体を仕入れるのは難しいことじゃない」
「そんなことが本当にあるのか?」
「このスラムではもしかしたらあるらしい。だから俺がこうして、立派に仕入れてやってる訳だよ」
「これはお前が仕入れた養殖肉なんだな」
「そうだよ。うん、うまい」
警官は名残惜しそうにしながらも、もう半分も美味しく平らげた。
「そんなことをすれば供給バランスが崩れて厄介なことにならないか」
「政府にバレるまで時間の問題だろうが手は出せまいよ。物好きな権力者がいるんだ」
「政府と権力者は、互いに敵なのか味方なのか一体どっちなんだ」
「どっちもだよ。だから俺にとっては都合がいい」
「何か悪さをしているんじゃないだろうな」
「してない、それは誓う。俺はただスラムを良くしたいだけだ」
「それが本当なら立派だな」
「お前も昔はそうだったのに、なぜ変わってしまったんだろうね」
彼は子供の頃、純潔で高貴な完璧人間を目指していた。
それはこのスラムで生まれ育ったからかも知れない。
対して友人は喧嘩ばかりしていた乱暴者のくせに現在や警官だ。
長い年月が二人をまるで真逆にしたようだった。
「金さえあれば生きられる。そう知った」
彼はようやく肉を口に運んだ。
普段から口にするものと変わりない味がした。
「それより、俺に話があるんだろう」
「ごちそうさま。では、そろそろ本題に入ろう」
「どうぞ」
「先日、お前が役所に持っていった機材があるだろう」
「ああ」
「あれはコンピューターという機械に付属する機材で、まあとにかく政府の独占物の一つだ」
「クソ、そうだったか」
「おかしいと思わないかね」
言われて、彼もむず痒い違和感を思い出した。
「なぜ誰も降りたったことのない第四下層都市の機械を所持しているのか。それと、他にも色々と独占しているものがあるね」
「元々持っていたんじゃないか」
「そういうことだよ。彼らは歴史を知っていて隠しているんだ」
政府が何か隠し事をしているのは彼も気付いていた。
ただ、思い当たる理由がなかった。
「何のために」
というより、考えようともしなかった。
「いや、どうでもいいことだ」
「どうでもいい……か」
警官の顔がやけに真面目になる。
「下層都市で活動しているのは秘密警察だ」
「秘密警察?」
「コンピューターのことを教えてくれたのは、その秘密警察の男だ」
「そんな組織があるのか」
「ある。でも、彼は死んだよ」
「そいつとは仲間だったのか」
「いいや友達だよ。これで、友達はお前だけになった」
警官は彼にとって幼い頃より唯一の友達だった。
警官とは違い、彼が友達を作ったことは二度はない。
寂しさを本当に理解することは難しかった。
「寂しくなったな」
「慰めのつもりかね。だったらお前は死なないでくれよ」
「俺は死ぬつもりはない」
「つもりはなくても、この街では死ぬことがある」
「今日お前は、俺に仕事を変えるよう言いに来たわけだ」
「そこまでは言わない。ただ、深入りはしない方がいい」
「親友のお前にも言ってなかったことが一つある」
「なにかね」
「俺は真実を知りたくて探求家になった」
「何の真実だ」
「人間だよ」
彼の知りたい真実。
それは、家族に代々伝わるトリニタイトのペンダント、それの持つ意味だった。
「人間の真実」
その遺言だけがあのペンダントには残されている。
他には一切の情報がない。
「人間の真実ね」
「俺はどうしても知りたい。馬鹿みたいにワクワクするんだ」
「そのワクワクは警告の勘違いだったらどうする?」
「なぜそう思う」
「世が末だからだよ。怪物までいる下層都市に降りて、お前は一度でも希望を見たかね」
「いいや」
「ならもう落ち着いた生活だけ考えて、ほどほどに探求するようにしよう」
「そんなに死んでほしくないか」
「当たり前だろう。お前は幼い頃からの、たった一人の親友なんだ」
「今さらだが、いつもありがとう」
「うん。いつでも頼ってくれよ」
「お前の友達にも感謝を伝えておいてくれ」
「分かった」
彼は友達と別れての帰路、懐かしい子供時代に思いを馳せた。
当時は金もなく腹が減っていても楽しかった。
一緒に笑える友達がいるだけで楽しかった。
初めて下層都市に降りた時も側にいた。
大金を手に入れて贅沢した時も側にいた。
スラムを出てビルをやっと買えた時も側にいた。
両親の遺体がゴミといっしょに燃やされる時も側にいた。
「それが当たり前なんだ」
だから、その当たり前が消えることが想像出来なかった。
スラムを出るときも両親が死んだときも、友達がいたことで不安になることはなかった。
歳を重ねても、離れていても、自分は支えられていたのだなと彼は気付いた。
「彼女は……」
ここで彼女を思う。
一方で彼女はどうだろうか。
家族はいる、しかし関係は良くないようだ。
なら友達は、友達はいるだろうか。
彼女を支えてくれる友達はいるのだろうか。
ずっとあのビルにいるかも分からない。
それどころか、何も分からない。
だがまあ、どうだっていい。
彼女とはたった数ヶ月の、それも朝と夕方だけの付き合いだから。
彼はビルに立ち寄ることなく帰宅した。