第一話 497年と、8ヵ月14日目の朝
彼女の一日は、早く、そして騒がしい。
赤紫の陽が昇る頃に目を開けて、数秒後にはもう自室に姿はない。扉を解放し、まっすぐ真向いの部屋の扉の前に立ち、毎秒数回の速さで叩く。
「兄さん起きてーーーーーー!!!」
叩く。
「もう朝よーーーーーー!!」
叩く。
「にーーぃーーさーーんーーーー!!」
叩く。
近所迷惑も考えず叩く。
それが謂わば、彼女の日課。お蔭でこの二部屋の周りは400年程、空き部屋のままだ。
まだ早朝だと言うのにこの騒がしさでは、休まるものも休まらないだろう。
そしてそれは、頑なに返答をしない部屋の主も同じ。
だが悲しいかな、彼が動けば彼女も動く。彼が止まれば彼女も止まる。そうして出来上がったのは、やけに静かな廊下に響き渡る少女のモーニングコールと言う構図。
今頃この屋敷の居住者達は、一人きりの喧騒を遠巻きに見ながら惰眠を貪りつつあるだろう。勿論早起きの一部を除いて、だが。それが数分続き。彼女が息継ぎの為に一瞬声を止めた、その時。
小さく、カチャ……と、扉が開く。
片手がギリギリ通るくらいの隙間から、青い目が覗く。
普段に輪をかけて不機嫌を惜しみなく表面から押し出している、細く眇られた目を、彼女は兄さん!と呼んだ。
「朝よ!早く起きてっ!」
「…………………」
「兄さん!もうすこ〜し扉開けてくれない?じゃないと中に入れないわ!」
「…………………」
「ねぇ兄さん?だんまりしないで、中に入れーーーー」
そこで漸く、ほぼノンストップだった彼女の口が止まった。
まぁそれもそのはず。元気が良すぎて騒音になりつつあったーーーいや現に騒音だったーーー彼女の口は、今や黒い帯状の物が絡まり、口枷のようになってその機能を妨げられているのだから。
その黒い物と同質の物が、植物の蔦のようにもう一本、開いた扉の隙間から這い出てくる。それは動けない彼女の頭上で、塊を成す。
円柱形の、明らかに宙に浮いてはいけない質量を持った黒い物体が形成される。そして。
ドシンッーーーー
重く鈍い音を立て、円柱は扉の前に鎮座した。
比喩ではない。先程まで迷惑甚だしい叫びを上げていた少女一人を、呑み込むでも取り込むでもなく押し潰して、軽く鉄以上の重量で床を打ち鳴らしたのは、紛れもなく黒い塊だ。
それを作り上げたのは、まさしく今、扉を何事もなく閉めたこの部屋の主、そして先程の少女の双子の兄だ、が。
彼は今しがた、妹を押し潰した。ふぁ、と欠伸を漏らし、もう一眠りしようと部屋の奥へ行こうとしている。本当に、何も無かったように。まるで日常の一貫の如く。
「……あ、しまった」
自室の奥、寝室へと繋がる扉を開けようとして、彼は声を漏らす。鍵を閉め忘れた、と、踵を返した。
「無視するなんて酷いわ兄さんッ!!!」
「うぐっ」
ばたん。二人、折り重なるように絨毯の上に倒れた。
鍵をかけなかった扉は開け放たれ、キィキィと頼りない音を立てている。だが彼の置き土産はいつの間にか消え失せ、床に残る僅かなヒビ割れだけが先程の黒い物体を夢や幻覚ではないと語っていた。
「おはよ、兄さん!」
「……おはよう、レナ」
特に外傷も見られない少女ーーー名をレナ=オーデンと言うーーーは、満面の笑顔を押し倒した兄に向ける。
兄と呼ばれ、強制的に起こされた彼ーー名をルイ=オーデンと言うーーは、覚醒しきっていない目を一度擦り、諦め顔で朝の挨拶を返した。
***
「全く……毎度毎度、ああして起こされる身にもなってご覧。殺意が湧くよ」
「だからって、ぺっしゃんこにする必要ないじゃない。服が汚れちゃったわ」
実際、服が汚れた程度の話ではないのだが…彼らは、決して死なない。外傷を負うことも。
特に頑丈な身体を持つレナにとっては、ただの兄妹のじゃれ合いでしかない。それは兄のルイも承知のこと。
そうしていつもの軽い致命傷の朝の後には、二人で姿見に向かって身支度を始める。
「後で着替えるから少しくらい我慢して。それよりきちんと前を向く」
「はーい」
間延びした声で答えるレナの白い髪を、後ろに立つルイが丁寧に梳く。扱いの雑さとは裏腹に、その手付きは優しい。
召使いも部下も数多くいる彼らの、特殊な習慣の一つが、こうして身支度を自分達でするというもの。
と言っても、レナの髪をルイが綺麗にする、と言う方が正しい。レナはいつもただ座っているだけなのだから。
「たまには自分でしたらどうだい。僕が急用で居ない時はどうするつもり?」
「その時はロメリアにでもやってもらうわ。私じゃ出来ないもーん」
「……何を言っても無駄だね、君は」
「そう?当然のこと言ってるまでよ!」
「髪のセットも出来ない癖に威張るな」
手にある櫛で頭頂部を叩く。
あいたっ、と小さく悲鳴を上げるが、彼女はニコニコと嬉しそうだ。
何が嬉しいんだか、と、妹に対してのみ塩対応が過ぎる兄は溜息をつくが、手は止めない。
櫛を置いて黒い紐を取り出し、レナの耳の後ろを通し、左サイドで結わう。
くるりと輪を作り、片方を通して結ぶ。
キュッと小気味良い音を立て、黒い蝶がレナの白い髪に羽を広げた。
一方のルイは、と言うと。
何故かもう出来上がっている。
一部分だけ伸ばした同じく白い髪を、黒と赤の飾り紐が彩る。
改めて確認するが、彼ら以外に人の気配はない。
が、レナ以上に癖の目立つ髪型のルイの髪も、きっちりと手を入れられ艶やかに陽を反射している。
それもその筈、正真正銘、手が加えられたからだ。
そしてその人物は、人ではない。
もっと言うと生命を持ち自走する生物でもない。今、コトリと櫛を鏡台に置いたのは、''影''だ。
窓からの明かりによりルイの足元に立つ、影。
その影全体が水面のように黒い波を打ち、腕ほどの太さの黒い物体がしゅるしゅると動き、二本の櫛を引き出しに戻し、元へ、つまりルイの足元へ戻っていく。タプン…と、小さく水の音を立て、波は静まる。
何とも奇怪な一連の光景ではあったが、二人が気にする様子もない。彼らにとっては、これも日常のひとつだった。
レナの髪をルイが梳き、ルイの髪をルイの影が梳く。それこそが、彼ら死神達の扱う力、''影を操る力''の効果である。
名の通り自分の影を操る、死神ならばだれでも使える能力だ。
本来は敵と戦う時、攻撃用に刺突したり、盾にしたり、相手を拘束したり、等々、様々な用途が存在する。
もっとも、ルイのように己の手足と同等に扱う程、繊細な動きが出来る者はそうそういないが。
この影を操る力に最も長けた死神だけが名乗ることを許される''影の使い手''であるルイにとっては、この程度、御茶の子さいさいである。
「終了。早く着替えておいで」
「はーい!さぁてと、今日はどこに行こっかなぁ!」
「きちんと宰相としての仕事するんだよ」
「分かってまーす!」
入ってきた時同様、軽い足取りで出ていくいもうとを見送り、ルイは寝巻きの釦に手をかけた。
ーーーーふぁ。
「……明日は逆さ吊りにでもしようか」
どうやらまだ眠そうである。
次回は新キャラでます
ルイ兄の塩対応は優しい方
本当はもっと非道で鬼畜な主人公にする予定なので…
レナは破天荒な暴れ者
好き好んで近寄る人はあまりいません
でも慕う者もいたり…
閲覧ありがとうございました