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夕日が溶接する風景

 引っ越し前に確認した郵便受けには、しばらく放置していたせいで沢山のチラシやダイレクトメールが突っ込まれていた。それらを管理会社が用意しているゴミ箱に一枚づつ捨てていくと、合間に白封筒が挟まっている事に気づく。チラッと見えた消印は先月のものだったが、緊急の用ならば手紙なんて手段はとらないだろうと気にしない事にして、宛名も確認せずにスポーツバッグのポケットに突っ込んだ。


 後にするのは大学時代から住み続けたマンション。向かう先は新生活ーー同棲を始めようと押しかけた彼の家だ。カバン一つで到着すると、愛用のジャージをハンガーに吊るす。家財道具はそれと通帳、印鑑、それに少しの着替えだけだ。愛用の運動用品は会社の運動部ロッカーに入れてあるし、その他諸々の品はトレーナーである彼のほうが取り揃えている。

 物に執着しないというスタイルを気取る訳ではないが、この身軽さは嫌いではない。少なくとも物に支配されていないという証だろう、あるのは長年鍛え続けたこの肉体のみ。

 清潔なソファーに腰掛けると、筋肉質な身体が柔らかい座面に埋まりそうなほど沈み込む。トレーニング後の微熱が染み出して、ソファーにじんわりと根を張った。

「ふぇ〜っ」

 と一息吐いて部屋を見回す。マメな彼の家だけあって、塵一つ無いキチンと整頓された部屋。競技に集中できるようにと同棲を勧められただけあって、快適この上ない環境だ。フンワリと香るのはリラクゼーション効果のあるアロマか何かか?

「女子かよ」

 鼻で笑う声が、主人の居ない部屋に吸収される。手持ち無沙汰で、カバンのポケットに突っ込んだ封筒を取り出すと、その裏面には懐かしい名前が、神経質そうな角々しい筆記で記載されていた。

 〝茂木もてぎはな

 高校時代の同級生、そんなに仲が良かった訳でもないが、忘れ得ぬ個性の持ち主だった花の事を思い出して、懐かしさに封筒をもう一度見る。

 だいぶん年季の入った封筒は、長年放置されていたものを使ったのだろうか? それとも書いてから投函するまでに、かなりの時間を置いたものなのだろうか? 少し茶沁みた表面からは手の温度が伝わってくるような気がした。

 なんとなく丁寧に扱いたくなり、文房具立てからハサミを見つけると封を切る。中身は一枚の便箋のみで、そこには唐突に詩が綴られていた。それ以外には何も入っていない。まったく花らしいな……と懐かしさが込み上げてきた。

 高校を出てからもう六年は経つだろうか? 今どんな暮らしをしているのか全く伝わって来ないところも彼女らしい。

 ソファーのサイドテーブルで折れた便箋を伸ばすと、その内容に目を落とした。始まりはタイトルらしく括弧書かっこがきで「溶接」とある。




  「溶接」



 夕陽に照り返す


 塗りたてのコンクリート


 ふんずけて帰った



 あの頃の俺と


 同じことをするんだね



 奴の目は値踏みしていた


 奴は本気だ、俺はどうだい?



 熱い頭を嬲る冷たい風に


 風景は乾燥して


 零下50℃に到達




 夕陽に照らされて


「何食ってんだよ犬」


 つぶやく俺の手は空虚



 握りつぶした空は


 鼻を通って血液に交じった



 心臓で感じる苦味に


 風景は乾燥して


 零下50℃に到達



 夕陽が溶接していく風景



 俺も赤く染まって


 街になる




 ……読み終わるとジンワリ込み上げてくるものに戸惑う。なんだろう? 懐かしいような、忘れ物を思い出したような、切ないような。なんとも言えないモヤモヤが腹に黒く溜まる。

 〝直接会って話をしなくてはならない〟

 何故そう思ったのか? 急に花に会いたくなった。理由は分からない、何かの予感が走ったのかもしれないが、そんなのは後付けだ。その時はただただその思考に支配され、確信を持つとジャージ姿のまま持ってきたカバンを掴んで飛び出していた。たった今引っ越して来たばかりの彼の家からーー





 *****





 蛇口から直接水を飲んでいた彼女は、不意に顔を上げると、

「この夏あついだろ、死ぬなよ」

 と言ってこぼれる雫を舐めた。その瞬間、湿る、怪しい艶の真っ赤な唇が、俺の運命をトクンと連れてきた。

 夕日に照り返す新校舎の出来たての陸上トラックで、あの人の棒高跳びが見事な放物線を描いている。いつもそれを遠景に見ながら、黙々とトラックを周回していた一年生の俺は、その時から彼女の事が頭から離れなくなった。

 一年上の女子棒高跳び選手で、入学当初からインターハイに出場する程の実力を持つ彼女は、周囲の期待を一身に背負っていた。だがいつも黙々と練習に励む姿は自然体で、あまり話さない俺も密かに尊敬し、憧れていたんだ。

 手足のスラリと伸びた長身の彼女は、なぜか同性からモテて、困った様にプレゼントを受け取る所を何度となく見かけた。その日も偶然そんなシーンを見かけた俺は、水飲み場で会った彼女に向かい、喋るチャンスとばかりに冗談めかして、

「先輩モテますね」

 と軽口を叩いたのだ。その切り返しで不意に出た彼女の一言。それに打ちのめされた俺は、その後何も喋れずに、逃げる様にその場を去った。

 俺はと言えば、恥ずかしながら高校デビューの補欠組で、もっぱら備品の整備や計測係など、マネージャー的な役割を期待されている身分だ。走るよりも繕い物や備品の管理、日程の調整などが得意になるばかりの日陰者。だがある時言われた、

「お前の作るポカリ絶妙だな」

 という先輩の一言で、何故か裏方作業も楽しくなって、なんだか一年、また一年と頑張れた。

 そして先輩は高校記録を塗り替えて行く大活躍で、裏方に徹する俺も興奮する中、最後の大会を終えて、推薦で陸上の盛んな大学に進学が決まった。その卒業式で、

「ありがとう、お前のおかげで頑張れたよ」

 そう言ってくれた先輩に、涙でグシャグシャになった俺は抱きついた。訳の分からない事を喚く俺に、体を引き剥がした先輩は、

「うざい、うるさい、泣くなバカ」

 グーパンチで心臓を殴ると足早に去って行った、手に握っていた一枚の紙片を落として。息が詰まり、訳も判らずうずくまる俺は、涙に歪んだ視界に入った紙片を拾うと、丁寧に伸ばす。そこには鉛筆で書かれた一文、



 〝夕日に照り返す塗りたてのコンクリート、ふんずけて帰った。あの頃の私と同じことをするんだね〟



 ……はてな?


 素朴な疑問を持った俺は、その晩彼女に電話した……部活の連絡網で。


 大学進学後、社会人として陸上を続ける彼女とは、付き合って三年になる。陸上絶対主義の彼女は、それ以外の事には無頓着な生活を送り、俺はそんな彼女をサポートしたくて、スポーツ生理学を学んだ。

 そして今日、彼女は俺のアパートに越してくる事になっている。あいにく仕事の俺は迎えに行けないが、アパートの鍵はもう渡してある。

 家を出る時にメモ帳に鉛筆で走り書きをした、


 〝オレと色違いの歯ブラシ買っておいた。キミのために〟


 机に置いた紙片を見て違和感を覚えた俺は、一旦紙をクシャリと潰すと、また拡げて置く。最初に言葉を交わした時の衝撃は、いまだに胸に響きつづけているんだ。

『これで良し!』

 クシャクシャになったメモに満足すると、通りがかりにピンク色の歯ブラシを、プラスチックのコップにカランと挿した。僕の棒高跳びはーーあなたの心に響くかな?





 *****





 文が……言葉が生まれてくるこの感動をどういえば良い? アドレナリンが連れてくる言葉の群れを、筆記ももどかしく書き写し、録音し、スマホの容量を埋め尽くしていく。マグマのような思考にアウトプットが追いつかず、穴という穴からこぼれ落ちそうになり、加速するフリック入力が画面を熱する。


 ーー没入、からの平静ーー


 目の前に広がる言葉の羅列。これで良い、この混沌の中から、稲妻のように一筋の光が見える時が来る。それを何本も用意して、寝かせ、漬け込む。これを職人のように繰り返すのだ、毎日毎日。

 再び開いた時には死んでる子もいる。だが中には、閉ざされたフォルダーの中で主人も知らぬ爪を研ぎ上げて、開けた瞬間、喉元に食らいついてくる言葉がある。それを粘着質に眺め回して、しがんで、吸って、愛でつくした後に更に保存ほうちする。こうして磨き上げ、淘汰された言葉は私の臭い、私の味、私自身となり、その発露を今か今かと鞘鳴り求めるのだーーまるで血に飢えた妖刀のようにヌラヌラと。


 作業を終えて熱をもつスマホを口にくわえると、簡易スピーカーでテクノを鳴らす。安っぽい音が口の中で振動して、まるで音楽を食べているようだ。

 そこには生の音楽には無い平穏があり、甘寧がある。誰も喋りかけて来ないから、外にいてもプライベートなのだ。だがそこに割込んでくる女がいた。

「何してんの?」

 無視していたら覗き込んできてもう一度

「何してんの?」

「食べてる」

「スマホを?」

「音楽」

「音楽を食べてる?」

 うぜえ! 苛立ちに口を半開きにすると、ちょうど変調した音楽がサイレンのようなビープ音を鳴らした。そう、そうだ分かってるね。

「この空間を穢すお前は、私にとっての侵略者。電脳警察スマホ支部のお縄について、とっとと我がパーソナル・スペース〝街中〟から出て行きたまへ」

 フッと笑った女は、

「たまへって、文章ではそう書いても、たまえって読むんだよ」

 なにを!? 真っ赤になった私は、

「ああっ!」

 と近くの標識に掴みかかると、髪を振り乱しながらグワングワンと揺らして、

「うるさいうるさいうるさ〜い! なんだテメエ? テメエなんだ?」

 と錯乱した格好をつけた。けれども、その頃には女の姿は見当たらない。くそっ、やられた、やられた感MAXじゃねえか、あの女っ! ……でも……その時浮かんだのは、その女の笑顔。曇りない子供のような輝きに満ちたそれは、どうしようもなく胸に沁みこんで、代わりに激しい動悸が浮き立ってくる。


 〝トクン、トクン〟


 なんだこれ? 制服をギュッと握ると、シャカシャカとなるスマホを切って呆然と立ち尽くす。ちくしょう、なんだか足元がフワフワと落ち着かない。揺れんじゃねぇよ地球。

「ちくしょう」

 悪態をつきながら右足を半歩踏み込むと、左足が後を追い、さらに右足が追ってきた。放課後の部活ならばグラウンドを使ってるんじゃないか? と、無意識に去っていった女を探す。右、左、また右と体重を振り分けてまで、私は何を必死に動いているのか? 理由は……無いと思う。

 ただ心臓が命じるだけだ。強く速く血を運んで、全身に新鮮な酸素をみなぎらせながら、そこへ向かえと体が操作する。一切の意思は無く、水が低きに流れるが如しってやつだ。そしてーーそれに出会った。


 棒のたわみと共に、弾かれるように天空に放たれるつま先。全ての力を効率良く使い、同じ重力を受けているとは信じられない浮き身を見せると、一瞬時が止まったように空中を漂う。そこから緩やかに重力を取り戻した体が、マットに深くダイブして消えた。


 ーー奇跡の放物線ーー


 脳裏に浮かんだ言葉は、いつか見たテレビの実況か? それとも自分由来の創作だろうか? その姿に呆然と見惚れて、わけの分からない思考のまま余韻に痺れていると、マットからバウンドするように飛び出してきたのは、さっき覗き込んできた輝かんばかりの笑顔だった。

 その笑顔につられて頬の筋肉を緩めている自分に気づく。唐突にヤバイ! という直感を得て、振り切るようにその場を後にした。グングンと歩いて、気づけばいつもの通学路、角を曲がれば河川敷に出る。

 やってられるか! と思う、いや、ファック! と叫びたい、もしアメリカ人なら。でも私は日本人だから人知れず寄っていった標識をグッと握って、グラグラと揺らした。でもそれは犬のおしっこを沢山浴びたのか、ちょっとオーバーなぐらいに揺れて折れそうになったので、慌てて揺するのをやめる。

 こんな事でドキドキしてしまうちっぽけな自分。本当に肝が小さい、核が無い人肉ゼリーだ。その証拠に、この体は少し切るだけで真っ赤な果汁がトロトロと止まらないんだ。

 頭の中にある自分と、現実の自分が違い過ぎて、自分で自分に失望してしまう……黄昏時はいつも心が揺れて帰り道は憂鬱だが、今日はそれに衝撃がつきまとい、心音がうるさい。

 こんがらがる頭が熱い、いや体全体が熱を帯びている感じだ。それを認識した時、いつの間にか立ち止まっていた。歩き出そうとしたら、視界には犬が一匹。このご時世に野良犬でもあるまいに、でも首輪は無い。地面に口を付けながら、何かを一生懸命食べている。

「何食ってんだよ、犬」

  思わず言葉が失禁した。失禁、禁を失う、出してはいけない汚らしい言葉を、キツく戒めてられている汚れを排泄してしまう、イケナイ私。イケナイなんて誰が決めたの? という疑問が追いかける、破廉恥な私。

 恥の子供……そう思ってきた。やることなすこと全てが隠匿すべき恥たる存在、自分。混乱して言葉のタガが外れた操作不能のワタシ。言葉すらも私を裏切り、見放す。

 でも奇跡の放物線を描くしなやかなあの子は、私の奇行と奇言を否定もせず、面白がるように笑ってくれた。

 いや、それは自意識過剰だ。単にあの子は変な奴を見つけて反射的に笑っただけだ。

 でもその笑顔には決して否定的でない、むしろ興味と共感のような感情が宿っていた。それは間違いないと思う。決して楽観的ではない、むしろ悲観的な私が瞬間そう理解してしまうほど、彼女の笑顔には力があった。

 それは嘘の無さ。私がどれだけ望んでも決して手に入れる事のできない、素直という美徳がなしえるストレートで、一番強い力だ。

 眩しすぎる、眩しく輝いて胸の中で収めきれないほど大きくなる。占められる、侵される、支配される、満たされる。

 真正面から照射してくる大円に向き合うと、赤光にめまいがしそうになって、足元がグラつく。

 あゝ、何ものにも左右されない私になりたかったのに、永遠にそれは叶わなくなった……喪失感とともに胸に広がるなにか分からない感情。

 夕日に照らされて、街も風景ものっぺりと溶けていく。その時、私は世界と一緒に赤に溶け込んだ、不思議な満足感と共に。





 *****





 彼女は土手に佇んでいた。高校生の頃の通学路、何度も通った馴染みの道は、あの時と全然変わっていない。俺はかける言葉も無く近づくと、物言わぬ背中から少し離れて立った。

 すると微かに聞こえてくる音ーー何だろうか? 虫の音でもないし、イヤホンで音楽でも聞いているのか? もう少し近づくと、シャカシャカというくぐもった音が流れてきた。だが彼女の耳からは線も伸びていないし、Bluetoothで飛ばしている様子もない。

 もう少し近づくと、彼女がスマホを口に咥えている事に気づいた。スピーカーで音を鳴らしながら、それを咥えているのか? 外国語……英語? らしき女性の声が、彼女の舌の動きに合わせてレロレロレロと音色を変える。

 まるでディープキスされるように穢される歌声。それは数年前、ちょうど俺たちが高校生の頃に流行っていた曲だと気づく。それからしばらく時間が流れた。

「何も聞かないんだな」

 乾いた唇をスマホから剥がしながらつぶやく彼女、気づいてたのか。

「言いたかったら言うでしょ?」

 とつぶやき返す。開けっぴろげな河川敷をシャカシャカという音が支配する。それは小さい音だけに余計にうるさかった。

 そうしている間にも日は翳り、ポッカリと開けた河原の空がグラデーションに色付いて、薄雲がひとすじ朱に染まっていく。

「六年……今の私とあの時の私、フィジカルは上がってるけど、メンタルは萎んじまってるんじゃないか? そんな風に思うよ」

 唐突な告白に先輩の弱気が滲む。記録が伸び悩む現状を指しての言葉か? 確かに人生の全てを競技に注ぎ込んでも、どれだけ才能があっても、届かない壁というのは有る。それは努力ではどうしようもない……特に日本人の陸上選手にとっては。

「過渡期なんだと思う、メンタルも鍛えてきたはずだ。でも日々の疲れというものは、実績とともに積もり積もっていくんだよ」

 分かりきった事しか言えない自分に失望するが、それ以外の言葉は見つからない。

「鍛え抜いて一滴の余分も無くしたつもりが、日々の淀みが体を錆びつかせる、そんな事って有るか?」

 悔しそうに告げる彼女は顔を上げると、

「言葉をぎすぎて病んでしまったって」

 と告げた。

「え?」

「言葉を磨き続けて自分を守るつもりが、その毒にやられてしまったって、それで病院に居るんだって。面会謝絶だそうよ」

 茂木花の事か? 先ほど家を訪ねた際に対応した女性は、母親にしては若いから姉だろうか? しつこく食い下がると、少し迷惑そうに先輩の向かった先を教えてくれた。その白い眉間に浮かぶ青筋が脳裏をよぎる。

「それで先輩は何をしに?」

 ここに来た理由が茂木花ならば、病院に行くか帰るかするはずではないか? 他の理由は思いつかない。まあ先輩の事はほとんど把握していないから、なんとも言えないが。

「これよ」

 と言って差し出された便箋には『溶接』と題された詩が書かれていた。これは……いつか見覚えのある文言だな……そうだ、先輩が卒業式に落としていった紙に書かれた一文が、これの書き出しと同じだ。という事はあれの続きか?

「家族からはとても会える段階では無いって言われたけど、代わりにこれを送るように指示されたんだって。しつこく、今すぐにって」

 なるほど、それを受け取ってここに来た訳か。手紙を返すと、それに目を落とした彼女が、

「卒業式の日に、これの書き出しをもらってね」

 あの紙片の事だ。同級生同士だったはずだから、同じく卒業の日にこの詩を渡したという事か?

「一枚の紙を破ってそれだけをもらったの。続きは? って聞いたら、まだ完成していないからって」

「そして手紙が届いたんだね」

「そう、とうとう完成したのかと思ってみたら、日付けは卒業式のあの日だったわ」

 と指し示す紙には、下の方に制作日が記入されていた。

「私は高跳びに、彼女は言葉に、それぞれ埋没するような人生を歩んできた」

 先輩は……確かにそうだ、棒高跳びだけを考える食事、睡眠、仕事、交遊、セックス、なんなら俺は先輩の付属品に過ぎない。

「でも大きく違うのは、私は世間から認められる事ができるけど、彼女は全く評価を受けなかった、受けようとしなかった事。なのに同じように突き詰めた人生を送ってきた事」

 その凄み……先輩と同じくらいの熱量を、評価を得る事も無く込め続けるなんて……生半可な気持ちではあるまい。精神を病んで人生を棒に振るほどの所業に、同じ人間とは思えないほどの信念を感じる。

「それでここに来たの?」

 と聞くと、首を振って、

「わからない、分からないけど、彼女なら何かの答えを、そのきっかけをくれる気がして……でも結局は分からないね。でも会えない代わりにこの時間、この場所に来るように言伝られたわ」

 と言って顔を上げた彼女は、あの時水飲み場で見せた表情をしていた。

「でもかわりに生み出す前の感覚、あの時の二人が共有した、ムズムズするような気持ちを思い出したよ。彼女が傷つきながら言葉を紡いだように、私も全身全霊で跳びたい。もう跳びたくて跳びたくて、うずうずしてるんだ」

 そう言う彼女を見ていると、悔しさとか、雑念とか、その他諸々が沸き立つように最大化して、赤一色になると、スゥッと溶けていった。

 赤に染まって一つになる。共有するのは生みの喜び。一つの事しか出来なくても良い、いや、一つの事も出来なくても良い。ただ一つになる、溶けていく感覚に足元が揺らいだ。彼女の感覚に、俺も溶けていく。

「じゃあ高校に行って、跳ばせてもらえば?」

 と言うと、目を輝かせた彼女は、

「それ、いいね」

 と言って走り出した。

 先輩……単純だなぁ。俺はその後ろ姿を見ながら、今夜のメニューを考える。悲しくなるほど凡人だなぁ。でもどんなにごまかそうとしても、心臓のドキドキは隠しようもなく足を速める。

 俺はのっぺりと夕日に溶ける街に向かい、わざと急ぐでもない風を装って歩き出した。

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― 新着の感想 ―
[一言] ご親切なお返事をくださってありがとうございました。 それと、大切な作品の感想欄に書き込んでしまったこと、お許しください。 エッセイの文章から、そんな繊細な方だとは思いませんでした。相互さん…
2016/07/08 02:07 すみません
[一言] 梅桜さんのエッセイの感想欄で思ったこと書いた者です。(あらしではなく言葉を選んで正直な意見を書いた者です) 相互ユーザーのお仲間の方々が感想欄の感想をあれほど悪く言うのはどういうことでしょ…
2016/07/07 20:18 すみません
[一言] 高跳び好き。 溶ろける~。 今年はTIG溶接の講習受けてみようと思います。
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