第3話 3000回目のエンカウント
4.
雨はまだ降り続いていた。
現在の状況、落ちれば死ぬ。
『ははは』
『ハハハハハハ』
『アハハハハハハハハハハハハハハハハハ!!!』
日本語が通じると見て黒い怪物に懇願すれば、返ってきたのは残酷な高笑いだった。
今の僕を嘲笑う、嘲笑と言った方が正しいだろうが。
『...そうだなァ、ビルの高さは4〜5階程度。ここから落ちれば、オマエは間違いなく死ぬだろう』
「...ふーーッ...ふーーッ...だからっ」
左脚を掴まれ、重力に従い体勢は逆転している。同時に血流も降下し、頭に血がのぼってくる。
『ア。そうかそうか、この状況。早く死なせてくれってことだな』
「違っ...」
弁解するヒマもなく。
怪物はあろうことか僕の左脚を掴んでいた手を離した。
いや、もともと自殺を試みてはいたのだけれど...それでも離すか?普通。
支えを失った僕の身体は万有引力の目論み通り地上に落下する。
一瞬の浮遊感を串刺して、またも"落ちている感覚"が蘇る。
落ちる墜ちる...。
今度こそ誰も僕を引き止める人間はいないだろう、自然と涙が滲んで止まらない。...止めてくれる人間はいなかったのか。
このまま死ぬのか。
「そ...」
無い。
「っ...そんなはずがない、こんなハズはない。そうだ、今日の朝から全部おかしかったんだ」
「テレビに映る化け物、僕の意識、行動...そして何より、今の怪物。全部夢だ、空想だ!そもそもこの世界自体が誰かの妄想で、本当の僕は別の場所にいるんだ!」
「地面に衝突する寸前になって目が醒めるとか、仮に衝突しても全く痛みは感じないとか、今の僕は本当の僕とは全くの無関係で!」
「日常の選択肢の先にデッドエンドなんてあるはずがないし、そもそも普通の僕にこんな展開が待っているわけが無くて、僕がこんな状況になるような要因も全く思い浮かばないし、こうなる伏線も無かったわけで、だいたいこんなの普通じゃないし、だからだからだから全部が全部夢か何かでーー.......」
...ーーコンクリートの地面が迫る!!
ぐしゃりッ!!!!
上記のセリフは単なる耽溺に過ぎなくて。今起こっていることは全部現実だった。
けれど...。
『よォ。目醒めたか』
次の瞬間。
飛び降りたビルの屋上に、僕は再び立っていた。気絶したわけでもなく、瞬きの間に移動したのだ。...?
辺りはなお薄暗く、ぼつぼつと雨が降り続いている。
目の前にはさっきの、黒色の怪物。
「なんで...?」
『......はァ?何で?』
「なんで僕は、...ここにいる?」
さっき、僕はここから飛び降りたはず。
『何を言っているんだ。確かオマエは...』
無造作オールバックヘアーのピエロみたいな黒色の骸骨は、190センチはあろうかという大柄で、不恰好に細身な体を大袈裟に動かして...昼ドラの探偵の真似事をするように。
『さっき見ていた限り、"ちょっと憂鬱な雨の日に自殺を試みたけれど、やはり現実には実行できなかった"...そんな様子だったぞ』
大方投身自殺でも思いついたのだろう、と。そう言ったのはこの怪物だったけれど。
違う、そうじゃなくて。
「それじゃあ、お前は何故ここにいる?」
僕は得体のしれない怪物に問いかける。どうやらかなり流暢に日本語を操るみたいなので、思い切って聞いてみた。
僕がこいつと遭遇したのは、僕がここから飛び降りた後のはず。
それ以前、屋上周辺は完全な無人だった。
まず僕が飛び降りていないと言うのなら、こいつと向かい合うこの状況こそが矛盾している。
『...ハァッ!?』
『...お前、オマエどういう事だ。オレは何を間違えた...!?』
対してこの怪物は、かなりの動揺を見せている。地べたでコウモリがバタつくみたいにわさわさと手を泳がせて。
未知数の相手が慌ているのを見て心理的に優位に立ったのだろうか。僕は質問を追随する。
「僕とお前が出遭ったのは僕がここを飛び降りてからだ。お前の言うように僕が投身をしていなければ、この状態は矛盾することになる」
僕の抱く疑問を明らかにしたところで、怪物の動揺が消失した。
露出した白の歯をギラつかせて、彫りの深い顔に埋め込まれた両眼に鈍く光沢を宿らせたかと思えば。
早口でこう、まくし立てる。
『ハハァッ...なるほどな。オマエが変なことを言うから少し驚ィたぞ。少シな』
『ならば全てを説明するまでだ。しかしその代わり、その対価としてオマエには今後オレへの協力を要請する』
『モチロン、選択の権利は与えてやる...俺は紳士だからな。選択の自由があるのは二箇所。一点、この状況の説明を受けるカどうか。二点目、オレに協力をするかどうか、だ』
『それとこれも先に言っておいてやる。どの選択肢を選ぼうト、オマエはオレに出遭った時点で既に損をシている。ここからは、納得するかどうかの問題だ。選べ、好きな方を』
何なんだ。この、独特の空気感は。
こいつの話す言葉は聞き取れたが、やはり余りにも謎が多すぎる。こいつの存在自体も。
それなら、まずは質問をー...
「し...」
『質問は受け付けない』
...質問は受けない、そう言ったのだ。
自ら状況説明の提案、選択の自由、ある意味の助言...これだけ親切に前置きをしておいて、踏み込んだところには触れさせない。
対等な関係で無い、と言いたいのだろうか。
今朝テレビに映った化け物と異なりこいつは人型であれど...絶対に人間ではないのだろうが、それでも内面的にはかなり嫌いなタイプかもしれない。
『オマエに出来るのは、説明を聞くか聞かないか。選ぶことだけだ』
なんだ、何だ。
急に態度を増長させやがって。
...一度嫌い始めると嫌な特徴がとめどなく、トコロテン式に目につくものだ。
"ナメられてたまるか"、そういう対抗心もあったのかもしれない。
ここから一度飛び降りたんだ...その胆力を持ってしてか、この時の僕はひたすら強気になっていた。
「オマエじゃない、僕は直樹。佐藤 直樹だ。お前の話すことは正直理解に苦しむが....いいよ。全部、説明してくれ」
声は震えていたかもしれない、顔は青ざめていたかもしれない、体は休みなく震えて、全身から冷や汗が吹き出していたかもしれない。
それでも僕は聞く。
ここが多分...平凡から抜け出す唯一の道だと知っていたから。
『...ハハァッ!直樹ィ、いい度胸だ。だが、一度聞くともう引き返せないぞ。それでもいいのか?』
「...良い」
『ほォ〜う。ならばァ説明しよう、順を追ってな』
『まずお前、オマエのことだ。これは流石のオレ様も驚いた』
『オマエには、...隔が憑いていない』
「...何のことだ、隔ってなんだ」
いきなり何らかの専門用語を使うな。それに段々玄人ぶってないか、やつのペースに呑まれているのではないか。
「オイオイ、せっかちだな。気分によっちゃそれも丁寧に教えてやるつもりだったんだ。オマエは素直に、明かされる真実に大驚失色、南無三宝してればいいんだぞ?」
...上っから。
無性に腹がたつのはこの状況の所為だけでは無いだろう。怪物の姿勢も顎が天を突き、まさに僕を見下すように。
偉そうに...自分がまるで、特別であることを振りかざすみたいに。
『隔、これは人間の運命を左右する怪物のことだ。現世の人間のほぼほぼ全てにこいつが憑依してイる。この隔の性質により、そいつの運命が決まるンだな』
『見た目はそれぞれだが、俺みたいなナイスガイ...もとい人型である事は極めて稀だろう。まァその大体がザ・珍獣って感じで、見えると面白いぞ。まァ、お前なら何度かそれを見たことがあるだろうが』
人間に憑依する、怪物。
今朝のテレビ、SNSタレントを思い出す。顔から黒くてドロドロの何かが滲み出ていて、それは明らかに...この世の造形とは思えなかった。
まさか今朝の黒い化け物が...。
...外の雨は、激しさを増す。
「なぁっ、...それって。黒色の...」
『煩いぞ。黙って聞いてろ。質問は受け付ケないと言ったはずだ』
「ぁ!?なんっ...」
ーーー『"何度も"』ーーー!!!
「っ........!!」
それは...これまで感じたことのない恐怖だった。
言わせるな、"何度も言わせるな"と言うつもりだったのだろう。
僕はたった三文字の、意味さえ伝えそびれたような音列に戦慄した...命の危機さえ感じたのだ。
『説明を続ける。その隔だが、人間の欲が余りにも強いと稀に暴走してしまうことがある。本当に...稀にな。そゥなると、人間の持つ運命収束値がデタラメになる』
『運命収束値ってのは、人間の生まれ持った運の値だ。隔が憑いていようと、通常はこの値に従った人生が送られる。まァそうなると、隔は特製の運命変圧器みたいナもんだな。運命収束値に沿って、その場その場に応じた運を発揮する』
『しかし人間の欲望が余りにも強く、普段と異なる行動をし続け運命収束値が不安定な状態にあると、さっき言ったように...隔が暴走することがある』
『人間の欲望の形をそのままに擬似体現し、その本質...不相応な幸福を実現するためにどんな犠牲も厭わない』
『まァ、人間なんて他人のことはどうでもいいってヤツが殆どだろうが。だから強く思うだけで願いが叶うなんて素敵な話だ...そう思うだろう?』
『しかし現実はそゥ甘くない。運命収束値を仮に一本の輪ゴムに例えるならば、自分の欲しいものをその輪の中に入れていく事トする。より輪の大きな輪ゴムを持つ者ほど沢山の物が手に入るが、隔が暴走シ、際限を無視して詰め込んで行くとー...』
『さァ、直樹...問題だ。一本の輪ゴムの内に際限なく物を詰め込むと...どうなる?』
...勿論、決まっている。
その先に何が待っているのか...までは想像できないけれど。
これは誰にでもわかることだ。
やがて。
「やがて...千切れる」
『ハハァッ!正解だ。そうなると、やがて運命収束値は引き千切れる...!』
千切れる、引き千切れる。
この怪物の永永無窮の説明から放たれた、これ以上なく明解な問いに...このとき僕は驚嘆した。
その問いに対する、僕の答えに...驚愕していたのだ。
普段と異なる行動をし続け...運命収束値が不安定な状態にあると...そして、あまりに欲望が強い場合ー...。
僕の目の前に現れた黒い怪物、運命収束値がデタラメに、...やがて引き千切れるー...?
一つの憶測が僕の心臓に、恐怖の鼓動を打ち鳴らしていた。
考えられなくはない、可能性はある、そうであっておかしくない。
「お前...まさか僕の」
こいつが僕の..."隔"...なのか?
僕はこれから、どうなるんだ。