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地下に眠るもの

作者: おたふく

 駅を出て、徒歩十五分ほどの場所にその建物はある。一見目立たない、風雨に汚れた壁をもつ、古いビルだ。

 健吾は毎晩九時にここを訪れる。何故かといえば金のため。そう、ここは健吾の勤める職場なのだ。

 きしむドアを開けると、健吾は階段を下りていく。地下一階。コンクリートの壁にはひびが入り、天井には無数のパイプがのびている。

 健吾はその奥にあるドアの前に立ち、脇に取り付けられた読み取り機に、カバンから取り出したカードを通した。ピッ。小気味いい電子音とともに、点灯していた赤ランプが緑に変わり、チェックにパスしたことを伝える。同時にドアが開き、中からはブーンと低い振動音がもれてくる。

 殺風景でうらぶれたビルの中とは思えないほど、意外にもそこは近代的で清潔な部屋だった。いや、部屋というより、最新鋭の装備をそろえた司令室といった方が似つかわしい。

 無数のパネルやボタン、計器が並んだ卓が四方を取り囲み、そのいずれもが点滅し、稼動していることを伝えている。

「おはようございます」

 健吾のかけた声に振り返ったのは、卓についていた男性二人。

「よぉ、おはようバイト君」

 にこやかに笑いかける、メガネに坊主頭の中年男性。名を斉藤という。

 もう一人の方は吉田という名で、こちらはうつろな視線を向けるだけで何も言わない。どこかしら骸骨めいた風貌で、全身から気だるいオーラを醸し出している。というのも吉田はここの仕事に、心底うんざりしているからであった。

 健吾は持参したバッグを、隣の小部屋のロッカーにしまうと、卓の前にある空いた椅子に座った。

 ここにバイトとして雇われた、健吾に与えられた仕事は簡単だ。稼動しているマシンに異常が起きないか監視すること。それだけだ。

 基本的にマシンは全てがコンピュータによって制御されており、人の手が介在する余地はない。とはいえ、どんな完璧に作られたものであっても、しょせんは機械だ。常に故障する可能性は否定できない。その万が一の時のために、監視する人間が必要で、それが健吾を含むこの三人というわけだった。

 毎晩夜の九時から翌朝の五時まで、八時間。休むことなく、卓の前に座り、目を光らせていなければならない。

 簡単なようでいて、実際はなかなか、根気のいる仕事ではあった。

 一番の敵は隙あらば襲ってくる睡魔であろう。いくら夜型人間の健吾といえど、多少なりとも動いていたりすればともかく、じっとひとところに座ったまま、モニタやメーターを睨んでいるだけではたまらない。明け方ともなると、ついついうとうととしてしまうのを防ぐのは難しかった。

 実際、眠りに陥って、ハッと顔を上げた時には数十分が過ぎていたなんてこともある。その時は、何の支障もなかったからいいようなものの、ちょうどエラーでも起きたらと思うと笑えない。

 稼動しているマシーンを止めてはならない。それがこの仕事の絶対条件だったのだ。もしそのマシーンが停止してしまったら?

 どうなるか、健吾は知らない。ともあれ、とんでもないことになるのは確かで、その際の責任はとってもらわねばならない。と、就職が決まった時、契約書にサインをさせられたほどだ。

 とはいうものの、仕事を始めてこれまでに、エラーや、その兆候さえも、一向に見られず、斉藤氏と吉田氏の二人も、五年近くここに勤めて、エラーが起こったことはないという。そう考えれば、これはやはり楽な仕事、と言っていいだろう。

 そんな健吾のプロフィールを改めて、簡単に紹介しておこう。

 真田健吾、二十五歳。地方の大学を卒業後、就職をせず、かねてよりのマンガ家を目指すため、単身上京。昼間はマンガを描いたり、出版社に持ち込みに行ったりといった活動をしつつ、夜にはバイトで生活費を稼ぐといった生活を二年近く続けている。そして半年前にこのバイトにありついたという訳だ。

 一日のメインをマンガを描くことにおいている彼にとって、体力を消耗することのないこの仕事は理想にかなうものだった。

 何しろ以前のバイトは大変だった。いわゆるガテン系で、その分給料は良かったものの、終わるとぐったりと疲れてしまい、肝心のマンガを描くどころではなかったからだ。

 それに比べれば、睡魔に耐えることなどたいしたことではない。帰宅して軽く仮眠をとれば、マンガに集中することが出来る。

 健吾は椅子に座り、じっと計器やモニタを見つめた。

 それにしても、自分が監視している、このマシーンとやらは何だろう?

 退屈な仕事中は、いつもそのことを考えずにいられない。というのも、この管理室のさらに地下にある、その巨大なマシーンとやらを、健吾はこれまで一度も見たことがないからだった。

 部屋の奥にある地下二階に通じるドアは、施錠され、バイトである健吾は入ることを許されていない。といっても、社員である斉藤、吉田の両氏にしても、年に一度、定期検査の時に入るくらいのもので、まず、このドアが開かれることはないのだが。

 斉藤氏の話によると、そこは思いの他、広く、清潔な、それこそ宇宙船の内部を思わせるような空間だ、ということだった。

 銀色に輝く床と壁、その中央に巨大なドーム型のマシーンが置かれているというのだ。それはエジプト内、ミイラが眠る王室を思わせる空間だという。

 しかしそのマシーンが何のために動いているのかという点については、斉藤氏もまるで知らない、というより教えてもらえないままらしい。

 都会の片隅、古びたビルの地下で、動き続ける最新鋭のマシーン。想像すると、SF的な妄想が広がっていく。仕事中、眠気に襲われるたびに、健吾はそれで一つ、マンガが描けないものか、と考えることで、それを追い払うのだった。


 時間は亀の歩みのように、ゆっくりと流れていく。何度目のあくびをした頃だろう。それでも時計を見ると、時刻は午前0時を過ぎたばかりで、仕事から解放されるまで、五時間もあった。

 その時だ。にわかに後方がざわつきだして振り返ると、吉田氏が帰り支度を始めていた。すでにジャケットをはおり、肩からショルダーバッグを下げている。

「あれ?」

 疑問符を投げかける健吾に、無言のままの吉田氏。代わりに答えてくれたのは斉藤氏だ。

「奴はこれから夜行バスに乗って、名古屋の実家に帰るんだと。オヤジさんが急に亡くなったそうで」

「えっ、でも」

 不思議そうな表情を浮かべる健吾に、斉藤氏はヤレヤレという風に肩をすくめてみせる。

 なるほど、そういうことか。斉藤氏のその様子に、健吾は納得した。

「じゃ、お先に」

 吉田氏は挨拶もそこそこに、風のように仕事場から去ってしまった。

「やっぱり競馬ですか」

「決まってるだろ。ありゃダメだ。完全にビョーキだよ」

 オヤジさんが死んだというのは嘘だ。二ヶ月前にも同じ理由で会社を休んでいるのだから。ギャンブルに入れあげて、奥さんから逃げられた吉田氏のことだ。おそらく、明日、名古屋で開催される、競馬を観戦しに行くのだろう。

「でもいいんですか。ここは常に三人体制でいるように義務づけられているんでしょう?」

 疑問の声を上げる健吾に、斉藤氏は力なく首を振り「ま、なんとかなるだろ。ここに勤めて五年。異常事態が起こったことなどないんだから」と、投げやりに呟く。

 仕事が決まった時には、うるさいくらい、監視に関する注意事項、教育を受けたものだが、実際の現場はあまりにもルーズだった。案外、どこでもそういうものかもしれない。


 二人きりになったところで、仕事内容事態に、大きな変化がある訳ではなかった。やってることはいつもと一緒で、多少、監視する項目が増えるというだけの話である。

 時計の針は深夜の一時を過ぎようとしている。周囲の街はすっかり活動を停止して、辺りは静まり返っている。

 この時間帯が健吾は嫌いではない。しみじみとした孤独が、様々なイメージを与えてくれるからだ。

 健吾はふと今、煮詰まっているマンガのアイディアを思いつき、すかさず想像の翼を広げた。次々と浮かんでくるイメージを繋ぎ合わせ、一本のストーリーに組み立てていく。

 うん、いけそうだ。面白いマンガになりそうだった。早速、夜勤明けから描き始めなければ。

 そんな風に一安心したからだろうか、気の緩んだ健吾は、襲ってきた睡魔をはね返すことが出来なかったのだ。一瞬目を閉じ途端、眠りに陥ってしまった。


 どのくらい眠っただろう。ハッとして顔を上げた時、健吾は我が目を疑った。

 卓の上でチカチカと点滅を繰り返す、赤いランプを見つけたからだ。

 それが点滅しているのを健吾は始めて見た。エラーを伝えるランプ。

「斉藤さん!」

 声を上げて、斉藤氏の座っているはずの後ろを振り返れば、その椅子は空いていた。こんな時に、彼の姿は消えていた。焦る健吾。

 しかしどうしようもない。彼に与えられた仕事は、監視することだけ。後の処理は全て社員の仕事だ。手をこまねいて、点滅する赤ランプを見つめていることしか出来ない。

 全くやきもきする時間だった。五分、十分、十五分が過ぎた頃、ようやく階段を下りてくる足音がした。

「斉藤さん!」

 手からコンビニ袋を抱えている。夜食を買出しに行っていたようだ。

「どうしたんだよ。そんなに慌てて」

「落ち着いてる場合じゃないですよ。これを見て下さい」

 健吾の震える指先が指しているものを見て、今度は斉藤氏が震えだした。

「まさか、そんな」

 斉藤氏は顔を真っ青にして、卓前に陣取った。

「エラーだ」

「早く対処して下さい」

 しかし斉藤氏は何も出来ないまま、代わりに棚に置かれたマニュアルに手を伸ばした。

「まさか実際に、こんな事態になるなんて」

 声が上ずっている。

「入社した時に講習を受けたきり。もう対処法なんて覚えていないよ」

「そ、そんな」

 赤いランプの点滅は、心なしか早まっているような気がする。それはつまり、事態がさらに悪化しているということだ。

「早くしないと!」

 健吾の心臓も今やそれと同じくらいに早まっていた。ひどく嫌な予感がした。あってはならないことが起こりそうな。

「あった。これだと……思う」

 ページを繰っていた手を止めて、斉藤氏が叫んだ。

「そうだ。ここに書かれている通りに操作をすればいい」

 しかし時すでに遅かった。斉藤氏が卓のスイッチに手を伸ばした、その瞬間、床下がドーンという重低音とともに大きく揺れたのだ。

 息を呑み、硬直する二人。

 天井のライトが今度は点滅を繰り返し、そして消えた。停電だ。

「何? 地震ですか?」

「いや違う……。爆発したんだ」

「えっ?」

 健吾は恐る恐る足元を見た。この下に一体何があるというのか?

 斉藤氏に尋ねようと顔を上げた瞬間、しかし健吾は代わりに驚きの声を上げていた。というのも、そこに真っ赤に染まった斉藤氏の顔があったからだ。緊急時の非常用ランプがついたせいだった。ランプによって赤く染まった肌の色。それはまるで流した血を思わせた。

「大変だ。大変なことになってしまった」

「地下二階には何があるんです?」

「マシーンの中には何かが閉じ込められているらしい。もしかしたら、今の爆発で、その扉が開いてしまったのかも」

「中にあるのは何ですか?」

 しかし斉藤氏はもう、ぶるぶると頬を震わせて、首を振るばかり。

「極秘事項なんだ。オレのような下っぱ社員には何も知らされていない。上層部の極一部の人間だけが、中身を知っている」

 健吾は改めて、自分の仕事であるその監視の対象が、まさかそれほどまでに、重要かつ怖れられるものであることに、改めて戦慄していた。

「とにかくこのままほっておくことは出来ない。とりあえず確かめに行かなきゃ」

「確かめに?」

「そうだ。地下に下りてみる」

 斉藤氏はそう言って、地下二階へ通じているドアに目をやった。健吾が入って半年。まだ一度として開かれたところを見たことがないドア。

「鍵をあけよう。手伝ってくれ」

 健吾としてはもちろん、異論などなかった。


 ドアのロックを解除するには、部屋の壁と反対の壁、離れた場所にあるレバーを同時に、ひねり、回さねばならない。つまり一人の意思では開けないようになっているのだ。

「じゃ、いくぞ。せーのっ」

 斉藤氏の掛け声とともに二人は同時に、レバーをひねり、そして回した。

 ほどなくして、低くブーンとうなる音がして、ドアが開いた。その奥は暗く狭い、下へと通じる階段が覗いている。

「君はここで待っていろ」

 そう言って、斉藤氏は健吾を残して、下りていった。コンクリートを踏む足音が、徐々に小さくなっていくのを、健吾は不安な面持ちで聞くことしか出来ない。

 ギィッ……。地下二階へ通じる重いドアを開く音がした。

 そして沈黙。息の詰まるような時間が過ぎる。

 あまりにも静かだ。それが健吾を、また一段と不安にさせた。まるで外界から完全に切り離されてしまったようだ。

 判らない。地下二階では何が起こっているのか。

 一向に斉藤氏が戻ってくる気配はなかった。不気味な沈黙はいつまでも続いている。

 これ以上、じっと待っているのは耐えられそうになかった。地下へ続くドアを覗き、その下に立ち込める暗闇を見つめた。

「斉藤さん」

 呼びかける。しかしその声は闇に吸い込まれるだけで、答える声はしない。

 嫌な感じが胸に広がり、健吾に行動を促した。階段に足を一歩踏み出していた。恐る恐る下りていく。


 下りるたびごとに、周囲の空気がじっとりと湿っていくのが判った。

 話を聞くかぎり、地下二階の空間には一杯、巨大な機械、マザーコンピュータのようなもので埋め尽くされていると思っていたから、その湿気は不思議だった。コンピュータであれば、何よりも湿気を嫌うはずだからである。

 違う。何かが違っている。

 健吾の頭の中で、また一段と大きく、危険を知らせる信号が瞬きだす。

「斉藤さん」

 呼びかけても、相変わらず返事はない。

 一階ではない、二階分ほどの距離を下りて、ようやくドアが見えてきた。

 青白いランプに照らされて、その鉄製と思われる頑丈なドアはわずかに開いている。中からはぼんやりと白い光りが伸びていた。

 重いドアを押し開けて、中を覗き込む。驚いた。霧に包まれてしまったからだ。しかも蒸し暑い。まるでサウナの中にいるように、そこは蒸気によって満たされていた。

そして何よりも異様なのは、その匂い。生臭い、それは魚の腐ったような臭いだった。

 しばらくして蒸気の向こうに、ボンヤリとその物体が現れた。

 巨大なドーム型の装置らしき物。そこからは無数のバルブが血管のように伸び、広がっていた。

 監視していた物とは、つまりこれだったのだ。

 鉄なのか、ステンレスなのか、はっきりとしない、鎧のような表面。その一部には決して小さくはないひびが入っている。

 爆発によって出来たものだろう。そして一部外れたバルブから、蒸気が漏れているらしかった。

 唐突に目まいに襲われた。視界が揺らぎ、頭の中が一瞬、空白になる。

 膝をつき、手で体を支えた。すると目の前にこちらに向かって伸びている、二本の足を見つけたのだ。

「斉藤さん!」

 蒸気が床下一面を覆っているせいで判らなかった。斉藤氏がそこに伸びていたのである。

「どうしたんです。しっかりして下さい」

 声を掛け、背中を揺すった。怪我などはしていないように見える。

「うう……」

 するとうめき声が帰ってきた。

「逃げるんだ。ここから……早く」

 弱々しく呟く。

「その煙を吸っちゃいけない」

 斉藤氏の忠告に、ハッと健吾は口を押さえた。どうやらここに立ち込めているのが、、只の蒸気ないと気づいて。

 そして改めて、頭がクラクラとしているのを認識した。微かに手足が痺れてきているのも判る。

「この煙は何ですか?」

「判らんが、神経に影響するガスのようだ。俺はここに入ったとき、思い切り吸っちまった」

 それで気を失っていたということか。

 とにかく斉藤氏を引っぱり上げて、ここから一旦上へ避難した方が良さそうだ。

 脇の下から手を通し、引きずりながら狭い階段を上っていくのは大変だった。かろうじて斉藤氏にまだ意識があり、わずかながらも体を動かすことが出来たので、どうにか管理室まで戻ることが出来た。

 しかし、かといって、事態はまるで改善などしていない。下からは白い煙が徐々に上に向かって広がっている。

「とにかく、あのガスを何とかしないと」

 床の上に寝かせられた斉藤氏がうめく。

「バルブが外れていた。あれを繋ぎ治さないといけない」

 そう言って、すがるように健吾の顔を見る。

「判りましたよ。僕にやれと言うんでしょう?」

 斉藤氏はご覧の通り、今だ手足が麻痺している状態だ。健吾がやるしかなかった。

「でも、あのガスを吸い込んだら」

「そう。問題はそこなんだ」

 実際、健吾はまだ目まいがして、指先が痺れていた。これ以上吸い込んだら最後、斉藤氏同様、気を失ってしまうだろう。

「そうだ。確かこんな時のために」

 斉藤氏は言って、柱横に設置してある緊急用ボックスを目で指し示した。

「あれを開けてくれ」

 言われた通り、ポリカボネイド製のそれを開くと、ゴーグル、ヘルメット、手袋等と一緒にマスクが入っているのが判った。

「そのマスクをつければ、数十分はガスの中でも耐えられるはずだ」

 健吾はそれを口につけると、下へ下りる決心を固めた。


 これもまたボックスに入っていた懐中電灯を持って、健吾は再び地下二階に下りていった。

 じんわりとした生暖かい空気。そしてガスの白い煙。

 それは確実に量を増し、先ほどより、階段を上に向かって広がっていた。このまま放っておけば、数十分もしないうちに、管理室にまで辿りつくだろう。そして今度は地上へと舞い上がっていくに違いない。

 そうなれば事態は深刻だ。この周辺一体はパニックになるだろう。

 そうさせてはならない。

 そのために健吾は、どうしてもバルブを繋ぎ合わせなければならなかった。

 健吾は例の重いドアを抜け、例の部屋に入った。白いガスに満たされて、まるで雲の中にでもいるようだ。

 思いの外、性能のしっかりとしたマスクをつけているせいか、ガスに対する恐怖はなかった。あとは外れているというパイプを繋ぎ直せばいいだけだ。

 それだけのはずなのに、健吾の胸はザワザワと騒いでいた。彼の中に眠る、動物の直観が告げている。ここは危険だ、と。

 そう、確かにこの部屋には異様な雰囲気が立ち込めていた。何かが潜んでいるような気配。

 ……。しかし、辺りを見回したところで、別に何かが隠れていたり、動いていたり、といったようなことはない。

 気のせいだろうか。

 緊急時、異常な環境下にいるせいで、単に精神の均衡が失われているだけ。そのせいなのかもしれない。

 上で呼びかける、斉藤氏の声が聞えたような気がした。

 そうだ。のんびりしている暇はない。一刻も早く、パイプを直さなければ。

 ドーム型のマシーンから外れているパイプは三本ほど見つかった。確かめてみると大丈夫、ドライバーでネジを回して、つけ直すことは容易に出来そうだ。

 床に転がっていたネジを見つけると、拾い上げ、修理を始める。

 その時だ。また違和感を覚えた。何かに見られているという感覚。

 そんなはずはない。健吾は周囲を見回した。

 ただよう白いガスに満たされた室内。耳の置くがツーンとなるような静寂。

 そこに僅かでも動く影はなかった。

 ……。しかし相変わらず健吾の直観は伝えている。ここには自分以外の何か、がいるということを。

 こんな状態で作業に集中することなど無理な話だった。その存在からは、一種異様な殺意さえ感じ取れたのだ。

 殺意。そうだ。それは訳の判らない。抑えがたい怒りを内に秘めていた。

 この部屋の空気がピリピリと張り詰めているように思われるのは、そのせいなのだ。

 ピタッ。健吾の目が自然と、ある一点に注がれたまま、いつしか離せなくなっていた。

 そこにはこの部屋の主であるところの、巨大なドーム型マシーンが置かれている。

 半径三メートルほどもある、爆弾が半分埋まったような物体。

 つややかな金属質の表面には、ひび割れのように亀裂が入っている。その中の一部が大きく欠けて、覗いている内部。その暗闇から健吾の目はそらせなくなっていた。

 ゾクリ。背筋を這いのぼる異常な恐怖感に全身が凍りつく。

 亀裂の奥、このドームの中の暗闇に、そいつは潜んでいるのだ。

 健吾は確かに、その奥に何者かの、こちらを睨む目を見たような気がしたのだ。

 その瞳には怒りがあった。常人には決して理解不能な、激しい怒り。そしてそれが何故自分に向けられているのか。全てがわからなかった。

 ふと、我に返り、頭を振った。

 馬鹿な。自分は何を馬鹿なことを考えているんだ。こんな非常時に。

 余計な妄想にふけっている場合ではない。今すべきこと。それはパイプを繋ぎ直す。それだけだ。そのことだけを考えていればいい。

 そもそもこんな閉ざされた地下に置かれた、ドームの中に人が隠れているはずがない。

 健吾は頭を振り、奇怪な妄想を振り払うと、再びパイプの方に顔を向けた。

 その時だ。

 ドン! 鈍い衝撃音が鳴り響いた。

 ドン!

 ドーム型のマシーンが揺れていた。

 ドーム内で何かが起こっているのは確実だった。

 ドン!

 誰かが内側から、表皮を殴っている?

 まさか。信じられない。しかし信じたくなくとも、何かが、このドーム内にいるのは疑いようもなかった。それは今、外側へ出ようとしている。

 閉じ込められていた何かが、その怒りにまかせて、外へ飛び出そうとしている。

 もしそうなったら、果たしてどんなことになってしまうのか。

 ドン!

 再度、大きな衝撃音とともにドームがゆれ、ピシッ……。亀裂が大きくなるのが判った。

 見るからに頑丈そうな表面だ。普通の人間の力では、到底壊すことなど不可能であるのは明らかな物質である。

 それを叩き割ろうとしている。そして現実に、それは割れようとしていた。

 ドン!

 亀裂がさらに大きくなった。表面の一部がかけらとなって落ちた。

 何かが内部でうごめくのが判った。そいつは生きていた。

 ライオンやゴリラ、クマ。そういった獰猛な猛獣だろうか? ゴリラなど本気で力を出せば、何十万馬力の力を発揮することもあるという。この表面を破壊することは可能かもしれない。

 只一つはっきりしているのは、人間の力では無理ということだ。

 ……。

 ぞっとした。というのも、大きくなった割れ目から、ギラリとこちらを睨む、中の物の瞳を見たからだった。

 健吾は確信した。それは猛獣ではない。

 その憎悪に燃える瞳には、明らかに知性の光りが宿っているのを認めたからだ。

 何だ、何者なんだ? 健吾は今やすっかり、恐怖の虜になっていた。冷静ではいられない。いられる訳がない。

人間並み、ひょっとしてそれ以上の知性を有し、加えて猛獣のような怪力を持っている。そんな存在が許されるのは空想の中だけ。映画やマンガの中だけだ。

 しかしそれは健吾の前に実在していた。

 ドン!

 今もなお、ドームを叩き壊そうとしている。

 もはやパイプを直しているような状況ではなかった。ここから逃げなければ。

 しかし足が動かなかった。恐怖に足がすくむという言い方が、真実であることを身をもって実感した。金縛りにあったようだ。心が焦るばかりで、まるで体が言うことをきかない。悪夢のようだ。

 実際に健吾の足が動いたのは、それから

何秒もかかった。何度も深呼吸をし、自己暗示をかけて、無理やり気を落ち着かせることで、ようやく体の自由を得たのだ。

 といっても完全ではない。ぎこちない足どりで、実を引きずるように階段をゆっくりと上がっていく。

 ドン!

 後方から響く、不気味な壁を壊す音に、何度も実を震わせながら。


「どうした?」

 管理室に戻ると同じ場所に寝転がっているままの斉藤氏が声を掛けてくる。

「うまくいかなかったのか?」

 無言で、恐怖にすっかり青ざめている健吾に異変を感じ取ったのか、にわかに斉藤氏の表情も色を失いはじめる。

「パイプを直すどころじゃないです。大変なことが起ころうとしている」

 健吾は下で見たことを話し始めた。

「マシーンの中から何かが出ようとしているだって?」

 信じられないといった調子で、斉藤氏は首を振った。

「そんなことって、あり得ないだろ」

 当然の反応だ。働いていた職場の足下で、人知を超えた何者かが眠っていたなんて、容易に信じられる話ではない。

 ドン!

 しかしそこでまた、一際大きな衝撃音とともに床が揺れ、二人は顔を見合わせた。

 ともあれ、信じる、信じられなに関わらず、そこに何かがいて、外へ出ようとしていることは、目をそらすことの出来ぬ、現実なのだ。

「もう、俺達の手にはおえない」

 斉藤氏は悲鳴に似た声を上げ、這いずりながら、先ほどのファイルを開いた。

「本部に電話しよう」

「本部?」

「ああ。もう本当に、俺達の手で対処のしようがなくなった時の最終手段なんだ」

 ドン!

 再び大きな音と床の振動。

 確かに、こうなったらもう、手の打ちようがない。

 デスク上の電話で斉藤氏は、そのファイルに記載されている番号をプッシュした。

 バキン、バリ、バリ、バリ……。

 地下ではこれまでの叩く音とはまた違う、物を引き剥がすような音が響いている。

 一方、斉藤氏は通じた電話の向こうにいる人間に、この事態を伝えていた。

「ええ、そうです。地下のドームから何かが……。はい、外に出ようとしてるんだ。……あれは何ですか? えっ? ちょっと、はい、わかりました」

「どうです?」

 健吾の問いかけに斉藤氏は納得いかないように首を曲げ、口を開いた。

「一応この状況は伝えたけど、ドームの中に何がいるのが、聞いても答えてくれない。とにかく、応援隊を派遣するから、それまで待機してろってことだ」

「待機って……」

 健吾は絶句し、不安そうな面持ちを、地下へ通じるドアに向けた。

 今や、ドアの隙間から白いガスが入りこんでおり、この管理室を埋めるのも時間の問題だ。そして例の何者かは、すでにドームを破って外に出ている可能性がある。今も階段を上り、ここへ向かっているのだとしたら。

 斉藤氏も同様のことを考えていたらしい。顔色はますます青く、瞳は恐怖のため、焦点を失っている。

 ズッ、ズッ……。

 聞える。何かが階段を上ってくる。

 二人は顔を見合わせた。そしてゆっくりとドアの方に目をやった。

 地下のドーム型マシーンに眠っていた何者かは、やはりここへむかっち得る。

「に、逃げましょう斉藤さん。ここにいたら危険だ」

「それは出来ない。職場を放棄することは、社員としてあってはならない。俺は本社の応援が来るまでここにいる。そうだ。アルバイトの健吾君は逃げなさい」

 意外にも斉藤氏の会社にたいする忠誠心が強かったことに、健吾は戸惑いを隠せない。そう言われると、さすがに健吾としても、一人で逃げるというわけにはいかず。

「……僕も残ります」

 そう言わざるを得ない。

 恐怖。はっきり言って、今すぐにここを逃げた方がいい。本能はそう告げている。

 しかしまた、同時にそいつが、どんな姿形をしているのか、この目で確かめたい。そんな好奇心もあった。

 階段を上る、その音は徐々に大きくなっていく。そしてまた異様な匂いも強くなっていった。

 肌を粟立たせるような、生臭く、獣のようなその匂い。

 ドア一枚を隔て、その向こうに存在してえる、何者かの気配を二人は感じ取った。

 圧倒的な恐怖感。もはや一社会人としての責任感など、その恐怖の前には跡形もなく消し飛んでしまった。どす黒い邪悪な気が、目に見えるように迫ってくるのは判るのだ。

 ひいっ。

 小さく、喉の奥で悲鳴をもらしたのが、自分なのか、それとも傍らの斉藤氏のものなのか、それすら健吾には判断出来なかった。

 まだ四肢が麻痺して、歩くことがままならない斉藤氏を助ける考えすら浮かばなかった。自己防衛することだけしか頭にない。それほどまでに、かつて感じたことのない恐怖だった。

 ドアを開け、ビルの出口へ向かう階段を駆け上った。後ろで「待ってくれ!」と哀れに叫ぶ斉藤氏の声を聞いたような気がした。

 しかし健吾は振り返りもしない。他人をかまっている余裕はなかった。

 ドアが見えた。外へ出る。真夜中だ。まだ外は暗い。そのはずだった。しかし上空に白く強い光りが見えた。それは上空からこちらに落ちてきていた。

 流れ星だろうか? それにしてはあまりに巨大すぎる。

 ゴオオオオオオオオオオオッ。

 耳をつんざくような轟音。

 あれは……ロケット?

 そう思いついた瞬間、目の前は白くなり、何も見得なくなった。健吾の意識は消えていた。永遠に。

 辺りにとどろく轟音。


 了

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