氷の記憶
高校生の頃に書いていた小説がHDDからでてきたので手直しして投稿してみました。二次創作ではないのですが、勘のいい人であればいろんな作品から影響を受けているのがわかってしまうと思います。そこは素人の処女作として目を瞑って頂けると幸いです。
季節は冬まっただ中。
今日は一月二日、時刻は午後一時。
一昨日から今日の朝にかけて断続的に降り続いた雪によって既に街は白く覆われている。
今朝からは突発的な吹雪のような風は止んでおり、数日振りの太陽の光が空から降り注ぐ白い結晶に反射してキラキラと輝いていた。日光で溶けだした氷はトタン屋根に氷柱を作っている。
「……さむい」
どうしてこんなにつらいのだろうか。
そうだ。この寒さが原因なのだ。
全ては冬という季節が悪い。
両手を必死に擦りながら、少しでも暖めようと吐いた息が瞬く間に白くなった。
長年の経験から気温は氷点下に達していることがわかる。
公園には雪合戦をする子供があり、道路には不細工な雪だるまや雪掻きをする老人の姿があった。
多くの子供が冬という季節を楽しむ中で、例外的に直樹だけは冬が嫌いだった。
ただ、彼とて最初から冬を毛嫌いしていたわけではない。
昔はかまくらの中で祖父と餅を焼いて食べたり、手袋したままでは丸めにくいと言って、手が凍傷寸前になるまで雪合戦をしたこともある。毎年同じことをしていても、飽きることはなかった。
そんな直樹の冬に対する態度が変わったのは十年前に遡る。
湖へ遊びに行ったときに誤って氷の薄い箇所にのってしまい、そのまま真っ逆さまに氷の中へ落ちたのだ。
冬の湖とか海というのは想像しているよりずっと過酷だ。
全身に走る激痛は、まるで剣山の上を転がっているかと勘違いするほどだ。急速に体温が失われ筋肉が萎縮し、泳ぐことも声を上げることもできずにそのまま冷たい水の底に沈んでいくのだ。
その時は運よく近くの釣り人に引き上げてもらったが、低体温症で一週間以上も意識不明の状態が続き、その日より前の冬に関連する記憶が少し曖昧になってしまっている。それ以来というもの直樹は冬に外出することを避けた。何か嫌な記憶が呼び覚まされそうだったから。
今日にしても、親が不在の最中にいつもの昼ご飯の買い置きカップラーメンが切れてさえいなかったら埃のかぶったコートを出してわざわざ商店街まで出掛けるようなことはしなかっただろう。
親には十ニ時すぎに大事な来客があるから出歩くなと言われていたがそんなことは関係なかった。
十ニ時はとっくに過ぎている。大事な来客が誰なのかは知らないが、時間にルーズなあたりからきっとろくでもない人間なんだろうと直樹は思った。それに料理の出来ない彼は昼ご飯のカップラーメン無しではおちおちといつになるかわからない母親の帰宅を待つことなどできないのだ。
もう一度いう。直樹は冬が嫌いだった。
ポケットに入れていた五百円玉は既に指に張り付くくらいに冷え切っていた。
スーパーで特売のカップラーメンを買い終えた直樹は祭りでもないのに妙に騒々しい商店街を通り抜けて近所の通りまでたどり着いたとき、家の前に一瞬人影のようなものを見た。
見間違いかと目を凝らしたが、雪で視界は悪いが確かに誰かがいるようだった。
親が帰ってくるには早すぎる。
大切な来客がくることを思い出した直樹は慌てて歩を進めた。
玄関には女の人が座っていた。
下を向いているため顔は見えなかったが、歳は直樹とそう変わらないように見える。ブラウンの厚手のコートにすっぽりと三角座りをした脚が入っており、肩まである黒い髪には長い間待っていたのか、白く雪が積もっている。
「あの……?」
肩を揺らすと、女の人は頭をゆっくりと持ち上げる。
「あ、おかえり直樹くん」
女性の顔に見覚えはなかった。田舎育ちの直樹には同級生は片手、全校生徒も両手両足の指があれば数えられるほどしかいない。みんな家族のようなものなので顔を忘れたりするはずもない。
「あの……どちらさまですか?」
「高橋真衣。なんだけど……やっぱり覚えてないかなぁ?」
もう一度顔を見たがやはり見覚えがない。こんなに美しい人がいたら忘れるはずがない。
「真衣さん?」
「そう、きみの許婚の」
直樹は真剣に真冬の寒さで耳が凍ってしまったのではないかと心配した。
そもそも許婚の話など今まで一度も両親からきかされたことがない。この辺りにそういった風習があったということは知っていたが、それは五十年以上も前の祖父の代の話のことだ。
「とりあえず家に入ってください。外にいると身体が冷えちゃいます」
真衣さんを招き入れたリビングは暖房を付けっぱなしにしていただけあって暖かく、直樹の頭に積もっていた雪はたちまち溶けていった。
「うわー、何にも変わってないなぁ」
脱いだコートをハンガーに掛けると、玄関や風呂場を行ったりきたりしながらまるで昔を懐かしむように高橋さんはつぶやいた。細かいところまでじろじろ見ているのは嫁の掃除のあら探しをする姑みたいだった。
厚手のコートの下にはアッシュのカーディガンとベージュのブラウス。薄い色のスカートから覗く脚は透き通るように白く、まるでここが寒冷地であることを何も考えていないような服装だ。
家の中を一通り見終わると高橋さんはソファーに腰掛けた。それに合わせて隣に置かれていたクッションが小気味よく跳ねる。
「あの……高橋さんは何の用事で来られたんですか?」
「もー、なおくんはどーしてそんな久々に再会した生き別れの兄弟みたいな態度をとるかなぁ。前みたいに『真衣』って呼んでいいよ。そっちのほうが…わたしも嬉しいし」
頬を赤く染めると高橋さんは下を向いて固まってしまった。上着の隙間からちょこんとでた手がスカートの端っこをむぎゅーと掴んでいる。
これは冗談抜きで許婚なのかもしれない、と直樹は考え始めていた。
でも直樹は高橋さんのことを覚えていないので「はい、そうですか」なんて具合に許婚になってもらうなんて無責任なことはしたくなかった。
「すみません、俺は高橋さんのこと覚えてないんです。許婚のこともすっかり忘れていて…ごめんなさい」
高橋さんはポカンと口を開けると、
「許婚っていうのは嘘なんだけどね」
「えっ、嘘なの?」
思わず素で返事を返してしまっていた。
「ほら、なおくんが湖に落ちたときのこと覚えてない?」
それなら今でもあの日のことのように覚えている。直樹が冬を嫌いになった忌まわしき事件だ。
「そんなこともあったけど、それがどうかしましたか?」
「あの時なおくんを助けてくれた漁師さん。その漁師さんを呼んだおじさんを呼んだおじさんを呼んだのがわたしなの」
「限りなく赤の他人じゃん!!」
とツッこんだところで直樹はあの日のことを断片的に思い出しはじめた。
「そういえば俺は誰と湖へ遊びに行ったんだっけ?」
高橋さんはにかっと笑うと自分を指差して
「そ・れ・が・わ・た・し」
点数を付けるなら百点満点の笑顔を見て、直樹はまるで稲妻にでも撃たれたかのような衝撃を受けた。十年にも封印されていた記憶の情報が一気に脳の内側から弾けるようだった。
「ま…真衣なのか?」
彼女を下の名前で呼ぶことに抵抗はなくなっていた。
「うんっ」
彼女は再び笑った。
十年前まで真衣は冬休みになるといつも家に遊びにきていた。
どこから来ていたのかは知らなかった。今更になって考えるときっと遠縁ではない親戚だったのだろう。雪が降らない地域にでも住んでいたのか、真衣は空から降り注ぐ白銀の六角形の結晶に目を輝かせていた。
昔は肩ぐらいまでしかなかった髪も今では腰に届くぐらいに長くなっていたし、背丈も直樹と同じくらいはありそうなくらいに高く、それとは対照的に腰回りは強く抱きしめたら折れてしまいそうなほどに細かった。
それから二人は当時の思い出話に花を咲かせた。いつまでも話していられるのではないかと言うほど、二人の思い出は十分にあった。
「たくさん話したら喉渇いちゃったな」
「冷蔵庫にいろいろあるけど、飲みたいものある?」
真衣は腕を組んでしばらく悩むと、
「うーん……麦茶!!」
「あるかぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
直樹は思わず叫んでいた。
「真冬に麦茶が冷蔵庫にあるかっ!」
「えー、だって私が住んでいたところは毎日夏みたいに暑いのに麦茶が売ってないんだよ?それになんでこんなに寒いかなぁ。一月っていったら夏真っ盛りでしょ?」
どうやら真衣は普段は南半球を生活の拠点にしているようだった。例えばオーストラリアでは真夏の十二月にサンタクロースが半袖短パンで水上スキーに乗ってやってくるらしい。「サンタクロース=冬」としか考えられない直樹には想像できない領域だった。
「とりあえず麦茶はありませんから」
それをきくと真衣はしょんぼりしていた。
「海外の麦茶とか緑茶って紅茶よりも甘いんだよ、信じられる?甘いのはお菓子だけにして欲しいよね」
直樹は甘い麦茶も緑茶も勘弁して欲しかったが、それが外国人との味覚の違いなのだろう。
「麦茶がないなら…そうだな、じゃあお雑煮が食べたいな」
「それもない。昨日ならあったけど」
「どうしてお正月にお雑煮がないの!日本人の文化の極みだよ?」
正月は一月一日。つまり昨日の話であり、今日ねだられたってごねらたってないものはないのだ。
「お雑煮が食べたいなら昨日に帰ってくればよかったのに。それとも真衣の国でも正月文化ってあるわけ?」
「神聖なクリスチャンはお正月なんて祝いません」
「それもそうか」
仏教行事であるはずの正月を祝いつつ、信仰もしていないキリストの誕生日であるクリスマスを都合良く祝うという矛盾行為を平然とやってのける国民は世界を探しても日本人くらいだろう。
しかし正月を楽しみたかったのであれば、昨日帰ってこなかった真衣の行動が余計に不自然だ。
「昨日の早朝便のチケットは混んでたんだけど、今日の分はすごく空いてたから……。みんな馬鹿だよね、わざわざ日本で除夜の鐘なんか聞かなくったっていいのに。お正月の午前中に日本に着いたらみんなとお節料理食べられるのに」
なにかがおかしい。除夜の鐘が鳴ったのは一昨日の話だし、真衣はそもそも正月の午前中に着いていない。
「あ!おせち料理は?」
「昨日食べたけど……」
さっきから真衣はどうしてか昨日の話ばかりする。
「どうして昨日に食べるわけ!?おせち料理はお正月に食べるものだよ!」
直樹は壁に貼られたカレンダーを指差して、
「昨日が一月一日なんだけど……」
そう、今日は一月二日だ。
「あれ?」
真衣は鳩が豆鉄砲を食らったかのように間の抜けた顔をしている。顔全体が硬直して、瞬きだけが不思議なくらいに強調されていた。
「あれ!飛行機の日付間違えたかなぁ?ちゃんと確認したはずなんだけど」
「一日と二日を間違えたんじゃないのか?真衣って昔からそういうとこ抜けてたし」
「おかしいなぁ」と言いながら財布の中から取り出した旅行券には、
一月一日午前五時四十五分出航
エセイサ国際空港発ー新東京国際空港行
「ほらほら!合ってるじゃない。アルゼンチンから成田まで五時間で成田から新千歳まで一時間!だから一月一日の十二時に着くはずなんだけど」
先ほどまでの違和感の正体に気付くと同時に、あまりの馬鹿らしさに直樹は頭を抱えた。チケットが安いわけがようやくわかった。北半球というからてっきりオーストラリアかニュージーランドとばかり思っていた。
「ねぇこれって航空会社が一日間違えたの?電話して文句言った方がいいかな」と直樹の周りをちょこまかしていたうるさい真衣の頭をチョップして黙らせる。
「いったーい」
たたかれた場所を押さえてその場に座り込んでわざとらしく痛がってみせる真衣を無視して直樹は話を続けた。
「真衣、日付変更線って知ってたか?アルゼンチンから日本に来るときは日付変更線を西に越えるから途中で一日分日付が進むんだよ。だから今日は一月二日なの」
そんな直樹の説明も傷心状態の真衣にはほとんどきこえていないようだった。
「あ……あはははは」
とりあえず苦笑いしてその場を誤魔化そうという魂胆が見え見えだった。
「ふっ」
妙な雰囲気に堪えきれずに直樹と真衣は顔を見合わせて笑った。
カーペットの上を転がりあって、二人は頭のてっぺんを向かい合わせて大の字になった。
「湖に落ちたあの日、俺は真衣に告白しようとしてたんだ」
直樹は天井に右手を突き出すと、自然にあのときのことを話していた。あの日、湖に落ちて凍ってしまっていた記憶も気持ちもすっかり溶けだしていた。
あの日直樹は友達の誘いを全て断っていた。最後の日に真衣に気持ちを伝えるために。
「知ってるよ」
真衣も手を伸ばして直樹の手を握った。
「今更言われなくても知ってるよ」
「えっ?」
「なおくんは知らないかもしれないけど、湖に落ちたなおくんが助けられた後、泣きながら駆け寄ったわたしに『ごめん。主人公気取りの愛の告白は俺には無理だった』って言ったんだよ。ちゃんとびしょびしょの手紙ももらったしね」
真衣はしわだらけの手紙を胸元からとりだし、直樹の目の前でひらひらと振った。
直樹は自分の顔が急速に熱を帯びていくのを感じた。てっきり手紙は湖に落として永遠に封印されたものだと思っていた。
「わたしも、好きだよ」
真衣は直樹の頬にそっと口づけをした。十年振りの再会に似つかわしい冷たいキスだった。
「えっ?」
「続きはだーめ。出会ったばっかりの男女がキスするなんて不純異性交遊だよ?」
直樹はあっけにとられたが、
「あはは、確かにそうだな。十年も待たせたんだから、十年かけて恩返ししないとな」
「そんなに待たされたら、わたしおばさんになっちゃうよ」
「そうかも」
二人は無意識に手を繋いでいた。できることならこの手をいつまでも離したくなかった。
「あっ、まだピアノ置いてあったんだね」
真衣はむくりと起き上がるとリビングの端に置いてあるアップライト・ピアノに駆け寄り、細い指で鍵盤を優しく叩いた。
ポーンという軽快な音がリビングに響きわたる。
「ふふっ、ちょっと音がズレてる」
「俺も母さんももう何年も弾いてないから全然調律してもらってないんだ。そこは大目に見てよ」
「よろしい。では…」
真衣は一度深呼吸をしてピアノを見つめると、さっきまでとは別人のように夢中に演奏し始めた。リズムに合わせて身体を揺らしたときに流れる髪も、ペダリングの脚使いも、鍵盤の上を飛び跳ねるように踊る十本の指も、全てがとても魅力的に見えた。
「ブラボー」
演奏が終わると同時に直樹はほぼ無意識に拍手をしていた。そうしなければいけないような気がしていた。
「でも今の曲ってショパンの練習曲10ー3の別れの曲じゃないか。そこはベートーヴェンのピアノソナタ26番第三楽章の再会が適切じゃないのか」
「こらこら、わたしの演奏に文句言うなー。タダで聴けるなんて滅多にない機会なんだぞ」
「ひょっとして真衣ってピアノソナタは何でも弾けたりする?」
「うーん。ある程度有名な奴ならアレンジ入れてもいいなら大体は」
「じゃあベートーヴェンのピアノソナタ14番第一楽章をリクエストしてもいいかな」
これは直樹が最も好きな曲だった。
「月光だなんて、またまた超有名なところを押さえてくるねー。よし、そのリクエストしかと聞き入れた」
再びピアノに集中する真衣だったが、緊張からか不意にくしゅん小さくくしゃみをした。
「どーした?なんとかは風邪を引かないっていうけど」
「あーひどい!何度も呼び鈴を鳴らしたのになおくんが家を留守にしてたからあんなに寒い外で待ちぼうけすることになったんだよ」
「時間通りにこない真衣が悪い」
「ごめんね。でも、それは仕方ないよ。吹雪で飛行機が一時間近く遅れてたんだから。J868便……あんまり何度もコールされるから便名覚えちゃった」
「吹雪と言えば、天気予報を確認しておかないと」
「あっ…」
真衣は何か言いたげだったが、結局何も言い出さなかった。
午後三時のニュースに合わせてテレビをつけてチャンネルを変える。
「わ、わたしちょっとトイレに行ってくるね」
血相を変えて真衣は部屋をあとにする。
「ん?」
ニュース番組は臨時ニュースを告げていた。
スタジオ内が殺気立って慌ただしいのが画面越しにでもわかる。
なぜだか嫌な予感がした。
その予感はすぐに正しいものだとわかった。
「今日午後十二時過ぎ、成田空港発新千歳空港行の大型旅客機が着陸体勢に入ったところを突風にあおられ墜落、炎上し今も消防隊によって懸命の消化活動が行われています。詳細な情報は入って来ていませんが乗員乗客の生存は絶望的だと思われます。また爆発の煽りを受けて笹本静香さんが首の骨を折るなど重傷を負い、搬送先の病院で亡くなられました。なお墜落したJ868便には世界的に有名なピアニストの高橋真衣さんも搭乗しており、―――――――」
続きはきこえなかった。
ききたくなかった。
みんなに自慢できるじゃないか。
俺の許婚は世界的ピアニストなんだって―――――。
「真衣っ!!」
トイレは使われた形跡がなく、玄関には靴もなかった。
家の中にいないとわかると直樹は扉も閉めずに外へ飛び出した。
机の上のよれよれになった手紙だけがすきま風でカサカサと音をたてていた。
こうやって一つの作品を完成させると、自分の語彙力のなさを痛感させられます。頭の中で浮かんでいる景色を上手く言葉にできないのはもどかしいですね。これからも精進したいと思います。
改稿前は直樹が真衣の名前を呼び間違えていたり、真衣がアホの子だったりするエピソードがあったのですが、本作の趣旨と関係ないということで修正、削除しました。