ローテート・エクセプテット
シリーズ四作目。これから読んでも読めるようになっています。
Rotate C・S 1
小学校によっては、夏休みに突入したところもあればまだ授業を続けているところもある、その境目となる7月下旬の日。上野公園は駅から動物園や美術館へ向かう老若男女で賑わっていたものの、敷地面積のせいか、混雑というより、ちらほら、というふうに見受けられた。その広大な敷地のとある場所へ向け、関千織は一目散に駆けていく。
ちょうど幾つかの施設の分かれ道となるところに、一人の青年が立っていた。周りには充分な空間があるため、立ち止まっていても邪魔にはなっていない。青年は自らの足元を見下ろしながら、物思いに耽っているようだった。
その青年へ向け、千織は飛んだ。一秒後、千織の飛び蹴りがまともに当って青年のスマートな身体が吹っ飛ぶ、その光景をありありと想像しながら。
「松見瀧弥、覚悟しろ!」
果たして、千織の予想は的中した。……しかし彼女は、その後まで想像してはいなかった。
「オー、ブラボー!」
歓声と拍手とカメラのシャッターを繰り返す外国人観光客、とっさに子供の目を覆う母親、好奇と揶揄の混じった視線で二人を指さす学生らしき三人組。悲鳴というには黄がかった声が、あちこちで弾ける。目撃していた者は多くはなかったが、皆、何らかの反応を示した。
周囲を見回す千織の顔が、羞恥で林檎の色になる。どう見ても季節外れなマフラーに顔を埋める彼女を、半ば引きずるようにして、青年……松見はそそくさとその場を後にした。
「……まったく、少しは考えて行動しろよ、スエキチ」
「……関千織だ」
数分後。逃げた先の、空調の利いたファストフード店の隅のテーブルに腰掛け、松見と千織は向かい合っていた。
細かく艶のある髪に、耳から顎、或いは鼻筋から口元に至る、しなやかでくっきりとした絶妙のライン。顔つきも手指も繊細だが、脆弱さを感じさせない、引き締まった身体つき。華があるわけではないし、表情も姿勢もだらけているが、それでも松見はなかなかの美男子だ。しかし纏っている、正体不明の不気味な雰囲気と、鋭く、そして痛々しげな眼光……目立たないが、その瞳は薄暗く朱い……は人を寄せつけず、また彼自身、他人を遠ざけている節があった。
半袖に薄手のジーンズという服装は、夏物の上下にフリース素材のマフラーを巻いた千織より遙かに季節に合っているが、しかし彼が年中このような格好で過ごしていることを千織は知っている。……いろいろと仕方がないとはいえ、松見に常識や失敗を指摘されると、頭に血が昇ってきてしまう。
深呼吸と店内の空調によって血を鎮めると、千織は話を切りだした。
「蹴ったことは悪かった。けど、常に連絡つくようにしとくのはあたしらの義務だぞ」
「……一体何の用だ。ノルマなら先週の食獣植物の件で終わっただろ」
冷たいコーラを口に運びながら、松見は言う。テーブルの上には湯気を立てるフライドチキンの山があったが、二人とも手をつけていない。
「ああ、今期のノルマは達成した。でも、だからといって仕事しなくていいってわけじゃあない。期限までまだあとちょっとあるし、給料アップのために依頼を受けてもいいと思ってるんだ。てかもう受けた」
「……おまえなあ」
嬉々として語る千織とは対照的に、気乗りしなさそうな様子で松見は溜息をつく。二人ともまだ、チキンに手を伸ばしてはいない。
「俺は暇じゃないんだが……まあいい、どんな依頼だ?」
前半は無視し、千織は端末を繰って画面を見せる。
《何とかしてください。このままでは皆を殺してしまいます》
「……なんだよ、それ」
「ああ、おそらく呪詛の類だと思う」
松見は、今度は深々と溜め息をつく。露骨にやりたくなさそうなその様子に、千織は眉を顰めた。
「松見、おまえ自分の立場判ってんの? いつも他の二人に遅れてるし、組織全体から見て落ちこぼれてんだよ? おまえが無気力なのはいいけど、組まされてるあたしの身にもなれよ。クビになったらもう行くとこないんだぞ?」
「判ってないのはおまえだ、関千織」
瞬く間に空気が冷えた。松見の視線は冴えていて、言葉は静かだ。スエキチ、と普段の不名誉なあだ名で呼ばずにちゃんと本名で呼んだ。だから千織には、松見が本気で怒っていることがひしひしと伝わった。
松見は、腕を組んだ。
「……俺に憑いてる“悪魔”は、少しずつ俺を侵蝕してる。あと数年で俺の自我を乗っ取るか、完全に俺と混ざり合うかする。どちらにしろ俺は、松見瀧弥という人間はいなくなる。それが嫌だから、俺は“事務所”に入ったんだ。この状況を打開し、“悪魔”を引っ剥がす方法を探すために。依頼を受けるたびに危険を犯して“悪魔”を解放するんだから、どうせなら手がかりになる依頼を持ってこい。……それが俺の、窓口担当の役割だ」
「あ……」
二人とも、チキンに手をつけていない。にもかかわらず、その量は減っている。
松見の肩口辺りが僅かに翳っている。そこから突如、黒く細い影のような管が飛び出し、鞭のような風切り音を立ててチキンを攫っては、出たときと同じ速さで松見の身体の内側に持ち帰っていく。松見の肩が不自然に盛り上がり、波打つ。同時に、くちゃくちゃ、と、どこからか低い咀嚼音が聞こえてくる。千織が見ている間にも、それが何回も繰り返される。
数年前、何の前触れもなく、松見は“悪魔”と呼ばれる異界生物に憑かれ、肉体と精神の一部が混ざり合った。以来、普通の大学生だった松見の人生は一転し、あらゆるものを棄てざるをえなくなった。
“悪魔”に憑依される人間は少なくないが、融合する人間は稀だ。故に、“悪魔”と分離する明確な方法は見つかっていない。そしてそれを探すため、松見は怪奇現象を解決する組織“事務所”の一員となった。
古来より、人の世では、人の心が感応し、されど人の価値観や技術では説明のつけられない不可思議な現象が巻き起こり続けていた。それらは異界からの来訪者や、世界の内側で生まれ育まれた妖怪や幻獣、或いは人自身の心が引き起こしたものだった。そして怪奇現象の起こる傍ら、それらに対抗する者達も暗躍していた。……多くは、やはり常人の理から外れる力を使って。
“どこにもない事務所”は、そういった怪奇現象対応の専門家を集めた、わりと新興の組織である。主な活動は、怪奇現象に巻き込まれた一般人から依頼を受け、事件を解決すること。目的は、一般人の保護……ではなく、怪奇現象発生の際同時に生成される、この世界外部からの、或いは架空(本来存在するはずのないのに、確かに存在する。エクトプラズムやアストラルの理論もまた、常人には理解しがたい)のエネルギーの回収である。
“事務所”の依頼担当者達、実行部員は回収したエネルギーの量や質に応じて給料を得る。エネルギー回収の規定に届かなかった者は減給され、成績不振が続くと馘首もありうる。
ちなみに、“事務所”の正式名称は“お悩み相談事務所・異界系”といい、これは“事務所”発生当初はまだ、この世界の内側で発生した怪異より、外側からもたらされた怪異の方がより大量で良質なエネルギーを生み出すと見なされていた故だ。しかし近年の研究により、必ずしもそうとは限らないと判って以来、ある決まった拠点や待ち合わせ場所、サイト、掲示板、そういったものを一切持たない存在であることから、“どこにもない事務所”の名称が広まった。
“事務所”実行部員には一人ひとりに窓口担当と呼ばれる交渉役が宛がわれる。彼らが依頼人や“事務所”の方針を決める上層部と、実行部員の仲介人となるのである。松見と千織の関係がそれだ。千織が上層部や依頼人と連絡をつけ、松見が怪異に対処する。……しかし。
元が一般人だった松見には、怪異に対処する技術も知識もない。ただ憑いている“悪魔”の圧倒的な力を暴れさせ、物理的に攻め立てるだけだ。“悪魔”は悪食なため、怪異の元凶となるものが何だろうと多くの場合、食べてしまう。平らげてしまえば怪異は消え去るが、解き放つたび“悪魔”は力をつけ、松見を侵蝕しようとする。松見にとって、依頼解決は綱渡りなのだ。
“悪魔”を引き剥がすために“悪魔”に力をつけさせる矛盾。しかし松見にとって、“事務所”に身を置く以外、この状況を打開するすべはない。千葉の“鉄心練砲”、東京の“全視全能”など、名立たる“事務所”の実力者達でさえ解決できなかった松見の事情は、“事務所”に日々舞い込む新たな依頼のなかから手立てを見出す以外にないのである。
そのことを思い返し、また自らの浅慮を恥じて千織は項垂れた。
「……ごめんなさい」
珍しく素直なその様子に、松見は目を逸らして、視線を上に下に落ち着きなく動かし、ふと首の辺りをはたいた。“悪魔”はチキンだけでなく紙製のパッケージまで喰い尽くし、トレーまで囓ろうとしていた。
「はあ……もういいよ。それより、さっきの依頼、もう受けたんだろ。詳しく話してくれ」
「受けたっていっても、会う約束を取りつけただけだけどな。今日っていうのも急だから、明日、午後一時に中野で」
「そうか……じゃあスエキチ」
再び、あだ名で呼ぶ松見。
「一つ、頼まれてくれないか」
Rotate K・T 1
清涼な風が身体を包むが、嫌な汗が止まらない。
「えっと……どうしましたか」
「え? ああ、いや、なんでもない」
そう言いながら、そっと、高島カオルは千織を観察する。掲示板で遣り取りしていたときは何となく、もっと年上を想像していたが、実際の彼女は高校三年生のカオルと同じくらいの少女であり、カオルは少なからず動揺した。それも悪いほうに、だ。カオルは詳しくないので、怪異対処と年齢に関係があるか知らないが、どうしても不安になってしまう。加えて、店内でも、しかも夏だというのにマフラーを巻いたままでいることを意識せずにはいられない。おかげで待ち合わせ場所のファストフード店に入ってすぐ見つけることはできたが、不審感は消せないし、隅の席とはいえどうしても周囲の目を気にしてしまう。
そして千織よりさらに不審なのは、カオルの向かいに座る男だった。松見瀧弥。そう名乗ったきり口を開かない。喋ることはおろか、ものを食べるために開いてさえいない。にもかかわらず、テーブルの上にこれでもかというほど積み上げられていたはずのサンドイッチが、明らかに減っている。先ほどから話しっぱなしの千織が食べた形跡もない。もちろん、カオルは食べていない。
「聞いてます?」
「へ、ああ、ごめん」
「大丈夫かそいつ」
店内の空調に劣らない涼しさを持った、東京の空気よりずっと澄み渡った声が、松見の口から漏れた。声に違わず細く、それでいて逞しい体躯を、飾り気のない、それでいてよく似合った服で覆っている。顔のつくりは、同性であるカオルから見ても惚れ惚れするほど整っている。が、それらをぶち壊すほど、態度が宜しくない。依頼人の前だというのに気怠げで、お前が大丈夫かと言いたくなるほど覇気がない。ベージュのソファーに身体を思いきり凭れかけ、頬杖をついた姿はだらしなく、そして傲慢に見えた。
「……大丈夫です、お気遣いなく」
心なしか、言葉が棘を含んだ。
「じゃあ、話してくれるかな。皆を殺しちゃうってどういうことか」
「言葉の通りだよ、僕が皆を殺しそうなんだ」
言いながら、本当にこの二人が状況を解決してくれるのか、不安がむくむくと湧いてくる。きっと、二人が思っている以上に、カオルの事態は危ないというのに。
「うん、じゃあ、順に話してくれる?」
「だから、僕が、皆死んじゃえって思ったら、ほんとにクラスメイトが死にそうなんだ」
「ふざけんなよテメェ」
清涼な風がアラスカのブリザードに変わった。冷蔵庫のなかのほうがまだ暖かいに違いない。
千織がそれまで浮かべていた営業スマイルを顔から毟り取って近くのごみ箱に捨てた。その眼光は鋭く深い色に染まっている。見た目はカオルと同い年くらいだが、既に人生の修羅場をくぐり抜けているのかもしれない。
「順に話せっつったら、時系列に沿って話せってことだろ? フランス外人部隊で習わなかったのかテメェ。あと、さっきから偉そうなんだよ、いつタメで話していいっつった。こちとらテメェじゃなくて起こってる怪異が重要なんだよ、それで上から給料貰ってんの。テメェから貰うものなんざ何一つねーんだから、話せといったらとっとと歌いやがれ」
「言いたいことは間違ってないと思うが、いろいろめちゃくちゃだぞ、スエキチ」
「スエキチじゃねえ関千織だ!」
カオルは毛の抜けきったトイプードルみたいにぶるぶる震えていた。千織のドスの利いた静かな声は恐ろしかった。それに意見できて、さらにあだ名で呼んで平気そうな松見に対し、尊敬の念を抱くほどに。
「じゃあ松見が相手しろよこの☓☓☓☓」
ぶはっ。
「……食欲が失せるようなこと言うなよ。まあいいけどな」
溜息をつき、松見はカオルに向き直る。
「で、いったい何があって、どうして皆殺しなんて発想が出てきたんだ?」
「は、はい」
千織の豹変にも驚かされたが、松見が意外に真面目だったので、カオルのペースは完全に持ってかれてしまった。
高島馨という名前で良かったことなど一度もない。試験のときには画数が多くて手間取るし、「香」「薫」といった漢字に間違えられる。何よりも、女の子みたいな名前という理由から、昔からよくからかわれた。
小学校低学年のときは、新学年に上がって担当教師が替わるたび「高島馨さん」と女子に間違えられ、しばらくそのことでクラスメイトから莫迦にされた。高学年に上がってからは減ったものの、それでも多くの男子から……仲の良い者からはじゃれ合いのつもりで、仲の悪い者からは剥きだしの悪意と共に……「カオルちゃん」と呼ばれ、彼の自尊心を傷つけた。中学生に上がってからも、ことあるごとに「女子みたいな名前」と言われ、しかも周りの男子よりも背が低く痩せていたせいでさらに劣等感は肥大していった。
高校生になって、親しい友人と別々の学校に通うようになったカオルは、同学年の男子数名からいじめを受けるようになった。もともと虚弱な身体つきと、引っ込み思案だが我儘な性格のカオルは孤立気味で、名前のことがちょうど良いこじつけとなった。初めは物を隠される、靴に尖った石を入れられるといった程度だったが、徐々に、机に落書きされる、宿題のノートを破かれるといった具合にエスカレートし、最近では受験のストレスも加わって、それまで陰で行っていた行為を、他のクラスメイトに隠しもしなくなった。
二週間ほど前、何がきっかけかは憶えていないが、カオルは教室で、いじめの主犯格である男子生徒に、封の開いた牛乳パックを投げつけられた。昼休みで、教員はいなかったが周囲には多くのクラスメイトがいた。しかし、まるで琵琶湖に浮かぶ島のなかの出来事を湖のほとりで見ているかのように、カオルと男子生徒のことを気にかけるものはいなかった。
その生徒は大柄で、素行が悪く乱暴者だった。いじめのことを抜きにしてもカオルは彼のことが嫌いだったため、相手にしないでいると、そのことが気に食わなかったのか、男子生徒はいきなりカオルの腹部を殴りつけた。
いままで散々やられてきたが、暴力を振るわれたのは初めてだった。衝撃で、カオルの口から血が一滴分飛び散り、一人の女子生徒の上履きに掛かりそうになった。
「きゃ」
女子生徒は短く悲鳴を上げて飛び去る。
「大丈夫?」
その女子生徒と仲良くしている別の女子が駆けよって言った。もちろん、彼女自身の友人に向けて、だ。
「ちょっと男子、ふざけるのもいいかげんにしてよ」
非難めいた口調の、その言葉に、カオルは顔を上げた。
ふざける? この状況がふざけているように、ふざけているようにしか見えないというのか? なんで僕がこんな目に遭わなきゃいけないんだ。僕がいったい何をしたっていうんだ。どうして皆遠巻きにするだけで、助けてくれないんだ。さっきまで我関せずって具合だったのに、自分に被害が及びそうになった途端責めるのか。嫌いだ、皆、僕をいじめる奴らも、見ないふりしてるクラスメイトも、皆皆、大嫌いだ。
皆、死ねばいいのに。
その途端、カオルの頭のなかで、何かが切れた。ぴんと張っていた糸が左右から引かれたように。それはカオルのものではなかった。直感的に、そう思った。例えるなら、カオルを含めた数人の頭のなかに蜘蛛の巣のように糸が張り巡らされていて、たまたまカオルのところでちょうどぶち切れたかのようだった。
そのまま、カオルは意識を失ったらしい。
翌朝、両親に送り出されるままカオルは家を出た。報復を恐れてカオルは、いじめに遭っていることを誰にも打ち明けられずにいた。前日のことも、生徒同士でふざけた結果として扱われたため、教師や保護者にいじめがあったことは伝わらなかった。それに、たとえ両親に打ち明けたところで、一年二年ならともかく、受験を控えた三年生が学校を欠席するわけにはいかない、という理由で、行きたくなくても学校に行かされることは目に見えていた。
教室に入ったところで、異変に気づいた。空気がざわざわと落ち着かない。いじめに加担せず、さりとて仲良くはないが、同じ中学校出身の男子生徒から聞いたところ、カオルをいじめていたグループの主犯格三人が、三人とも事故に遭ったらしい。しかも噂では、同じ日のまったく同じ時刻に、別々の場所で。
三人とも下校途中で、カオルを殴った生徒は車に撥ねられ、命に別状はないが大怪我を負い、あとの一人は歩道橋の階段を転がり落ちて手首を、もう一人は植木鉢が上から落ちてきて腕を、それぞれ骨折したらしい。
このときにはただ、ざまあみろ、としか思っていなかったが、事態はこれだけで終わらなかった。
その日、前日にカオルの血を避けた女子生徒がトイレのタイルで滑って転び、腰を打って病院に運ばれた。それを受け、彼女と仲の良い女子生徒が、カオルに詰め寄ってきた。いったい何をしたの、とあからさまにカオルに否があるかのように責める女子生徒から、覚えがない、といってカオルは逃げ出した。放課後、彼女が化学準備室を清掃していると、突然塩酸の入った瓶が割れて制服の端を焦がした。
それ以降、カオルに危害を加えようとする者は、カオルや他の者が直接手を下してないにもかかわらず、何らかの事故に遭うようになった。それはだんだんエスカレートし、どんな些細なことでも手を切る程度の怪我はするようになった。最近では直接危害を与える者だけでなく、見て見ぬふりをしたクラスメイト全員が、程度に差はあれど、必ず被害に遭っている。
カオルはようやく悟った。初めはいい気味だ、としか思っていなかったが、自分を気味悪く思うクラスメイトの視線を浴び、自分が異質なものになっていることにやっと気づいた。それでも、事故は止まらなかった。
「……それで、このままじゃ皆を殺しちゃうって思ったんです」
「……言いたいことはいろいろあるが」
松見は頭を抱えた。艶やかな髪に、ヒッコリーの撥かと思うほどしなやかに白い指が絡まる。
「まず、話が長い。俺は多分暇じゃないから、長い話はしてほしくない。次に、この事態になったのはおまえが悪い。そして、たとえこの怪異を解決したとしても、事態は何も解決しない」
「……なんですか、それ」
呆れ半分、不愉快半分を込めて、カオルは言う。
「多分暇じゃないってどういうことですか。自分でもわけわかんないのに、おまえが悪いとかいわれても。あと、僕は怪異を解決してほしいんです。事態はそれで収まりますから」
「おまえは何も判ってないな……なんだったか、☓☓☓☓」
「なっ」
カオルの頬が紅潮する。もちろん松見の言葉に苛立ったせいだ。彼がなんとはなしに髪を撫でつける仕草がセクシーだったためではない。
「僕は高島カオルです! あと、僕みたいな目に遭ったことがないあなたみたいな人が、いじめられたこともないくせに判ってないとか、判ってないのはあなたのほうだ!」
「黙れ」
ぴしゃりと言って、立ち上がる。
「外で話そう……スエキチ、昨日頼んだ件はどうだった?」
「ん? ああ」
ちょうど財布を取りだそうとしていた千織が、思い出したように鞄のなかから四つ折りの紙を取りだして松見に放った。
「お前の言ったとおりだった。品川駅に着いた途端、いつもとは違う感じがしてさ、調べてみたら、近くにそれが仕掛けてあった」
「そうか……やっぱり、暇じゃないな」
抗議しようとして、カオルは松見の背中を追う……のを、とっさに止めた。
出口に向けて歩き出した松見の背中から、角が生えた、ように見えた。いや、確かに生えている。角は光沢のない黒色で、大人の手ほどの大きさだった。その表面に、一枚の紙の下にもう一枚紙が入り込んだような、薄く盛り上がった切れ込みが入っている。角の中心よりやや下と、その斜め上に一つずつ。その切れ込みがいきなり、内側から、しゅるり、と解け、中身を曝した。
二つの切れ込みの奥では、焦げたように少しくすんだ、それでいて艶々と赤い何かが燃えている。カオルが見ている間に、下にある光が、横に広がる。さながら、笑うように。そうだ、あの光は口で、もう一つの光は左眼なんだ。けたけたと、音は出ないが笑い声を上げているかのように、角全体が左右に揺れ、そして、
「行儀が悪い」
後ろに回した松見の手に、はたかれた。
赤い隻眼はいじけたように松見を横見した。彼の背中から生えているため、顔を見るのは難しいだろうな、とカオルは思った。……いや、そんなことよりも。
「ちちちっちちっちっちっち、千織ちゃん! 何アレ!?」
「あーあ、もう金ねーや、松見の奴持ってっかな」
千織は立ち上がり、何も載っていないテーブルの上を拭く。そのときには既に、松見の背中からあの不気味な角はなくなっていた。
「……え?」
「どうした、さっさと行くぞ」
そのまま、千織はカオルを置いていくかのように松見の後について行った。見間違いだったのかな、とぼんやり思い、カオルもよろよろと後に続いた。
見間違いではなかった。
店を出て、一行はしばらく歩いた。カオルはどこに行くのか伝えられていなかったが、先ほどのこともあって聞けずにいた。やがて、入ったのはコンビニだった。
どこにでもあるような、何の変哲もない、全国チェーンのコンビニだ。広くはないが品揃え豊富な店内を彷徨き、松見は酒類の並んだ棚の前で足を止めた。おもむろに、一升分の酒が入ったペットボトルを抜きとると、レジへ持っていく。
なんだ、酒が欲しかったのかと、カオルは呆れる。昼間、しかも一応仕事中だというのに、なんて大人だろう。
松見はペットボトルを千織に預けると、店を出、再び歩きだした。二人も後に続く。線路沿いのひとけのない坂道の真ん中まで来たところで、先頭を歩いていた松見が立ち止まり、カオルを振り返った。
「スエキチ、周囲に人は」
「いまはいないみたい……けど、さっさとしろよ」
「ああ」
刹那。
松見が、爆ぜた。彼の左半身が上に、左に、左下に、右に、前に飛び出し、見る見る黒く変わっていく。真っ黒な、光を反射しないそれは、いったい何でできているのか判らない。めちゃくちゃな方向に広がりながら、常時形を変えていく。松見の左半身を飲み込んでいる広い面を中心に、花弁のように細く薄く波打つ触手が、花のように八方向に幾つも伸び、のたうち、まだ伸びている。その様はまるで、厚みのない軟体生物のようだ。
悲鳴は漏れなかった。盛大に叫びだそうとしたカオルの口は、千織の女性にしては硬い手によって塞がれていたからだ。外へ出ようとした空気が詰まり、呼吸の拍子が軽く乱れる。
「声を出すな」
千織の、声もまた硬かった。
松見の身体が変形したというより、松見の捲れた内側の表面も含め彼の体表に張りついているように見えるそれの上に、-の記号のようなものが二つ浮かんでいる。在る、というより、本当に浮かんでいるようだ。フィルムの上に貼ったセロファンの、その上にさらに貼りつけたように現実味がない。いや、カオルがいま見ているものすべて、現実を嘲笑うかのような奇怪な光景だった。
-が裂け、さっき見た大焦熱地獄の焔が鮮やかに甦る。松見の、褪せた朱の左眼を右眼にして、光沢のない黒いセロファンに赤い顔が描きだされる。
「……腹が減ったな」
そんな状態だというのに、松見に気にする素振りはない。
「えーと、なんだったか、高天原?」
「依頼人の名前くらい憶えとけよ。たかは、高島カオルだ」
言った千織も、おそらく途中まで間違えて、慌てて言い直したのだろう。抗議しようにも口を塞がれたままで、目は、松見の身体に広がる黒いものの動きを追って、泳いでいる。
「いいか、カシカル。これは“悪魔”と呼ばれるものだ。おまえらが想像する神話や聖書に出てくる悪魔とは違うものだが、邪悪さと、人に憑くところは変わらない。で、俺は“悪魔”に憑かれた人間ってわけだ」
松見の説明は丁寧だが、全然頭に入ってこない。非現実的な出来事と単語から意識を逸らすため、とっさに、スエキチというのがセキ・チオリを縮めたものだというのは判るが、タカシマ・カオルをカシカルにする意味は何なのか、とか考えていた。
「で、俺を見てどう思う?」
いきなり、口の拘束が解かれた。吐き出しそこねた二酸化炭素が放出され、同じくらいの新鮮な酸素が喉から肺をひりひりと炙る。
声が出せるようになっても、カオルは何も言えなかった。悲鳴はどこかに吹き飛んでしまい、また素直な感想を述べるのは憚られた。
しかしどれだけ秘めようが、
「恐ろしい、おぞましい、気持ち悪い、化け物。この姿を見た奴の反応は、いまのおまえとだいたい変わらない」
その目は、口ほどにものを語っていた。
松見は続ける。
「学校なんかで起こるいじめなんて、大半は理由がねえよ。おまえが標的になったのだってそこに正当性は皆無だ。なにがどうしてとか、どうして自分が、なんて考えても仕方ない。成る、成らないじゃなく、“成ったものはもうどうしようもない”……いや、とにかく、俺にだって迫害された経験はある。おまえの惨めさや寂しさ、どうしようもなさは理解できるつもりだ。寧ろ、おまえの倍くらいの時間、倍くらい酷いことされてると思う」
松見の朱い眼が、細められる。鳥の巣の卵を狙う蛇のようだ。松見の意図は異なるだろうが、実際、彼の半身と化している“悪魔”は、カオルを美味しく戴く気満々に思えた。
確かにそうだろう。松見の事情の前では、カオルにされていたことなど比べものにもならないに違いない。気に食わないとか、何となくとかいう漠然とした理由ではなく、異端、異形、異物として明確に常人とは差別されてきたはずだ。
人は社会的動物だ。群れのなかに属すことに安心し、群れの個体の特徴を持たないものを排除する。そしてそのことに罪悪感を持たない。数が多ければなおさら。
カオルは、判ってない、と松見に言ったことを後悔した。先ほどとは違う理由で紅潮する。それでいて、疑問もまた首を擡げていた。壮絶な過去があったはずで、いまもその状況は変わっていないはずなのに、松見はなぜこんなにも涼しげなのかと。
「友達がいるからな」
カオルの心情を察したかのように、松見がぽつりと言う。
「え、友達って……いまでも?」
「ああ」
なんてこともなさそうに言ってから。顔の右半分だけで、苦笑する。
「まあ、俺に負けず劣らずの事情抱えてたりもするが。けど、確かにいるよ。あいつらが俺を一人の人間として認めてくれて、“此処に居てもいい”って言ってくれるから、俺はなんとかやっていけてる。自分のこと嫌いにならずに済んでる。……もちろん、簡単にはいかなかった。近づいてくる人間より遠ざかる人間のほうが多かったし、俺自身、自暴自棄になって他人を拒んでたからな。けどいまは、あのとき殻に籠ったまま拒絶し通さなくてよかったなって、俺なりに受け入れて、努力してよかったなって思える」
ぼ、と。半紙の上に落とされた墨汁のように。松見の右眼に、血が滲んだ。盛り上がった目の下に溜まったそれは目尻から零れ、頬を伝って垂れていく。顎の先、松見と“悪魔”を分ける境の上でしばらく留まった後。ゆっくりと、落ちていく。ちょうど松見が目を瞑るタイミングに合わせてだったので、さながら血の涙を流しているようだった。
「……誰にだって迫害される可能性はあるし、誰にだって現実は残酷だ。だから、辛くても、何もしなくていいことにはならない。たとえ強くなくても、強くなろうとしなくちゃならない。生きて、足掻いて抗って、とことん頑張った奴だけ、居場所を掴みとることができるんだ。だから……俺にはおまえの怪異を何とかしてやることはできても、おまえを助けてやることは、できない」
“悪魔”が松見に絡みつきながら、膨張したり縮小したりを繰り返す。さながら、身体全体を使って、カオルを嘲笑うかのように。
「頃合いだ、スエキチ」
呟いた途端、ペットボトルが空を飛んだ。
「ええっ!」
カオルは振り返った。千織が、スカートを履いていたら下着丸見え必至のハイキックでもってペットボトルを蹴り上げたのだ。ただ、カオルが振り返ったのは既に蹴った後で、そもそも千織はパンツルックだったのだが。
ペットボトルは宙で回転し、なかの酒はさらにちゃぷちゃぷ華やかに転がった。
その回転が、次の瞬間幾重にも絡みついた黒い管によって止められる。管はものすごい速さで短縮し、その先でファンシーな形の赤い三日月が待ち構えていた。
松見の左半身ごと、“悪魔”は斜め上空に身を乗りだした。二枚に折った厚紙を立てているように、右半身を置き去りにして原型を留めてないとはいえ身体の半分だけ飛び出すというのは、出来の悪い騙し絵のようで実にキモチワルイ。エッシャーに謝れ。
“悪魔”は自身の一部ごと、ペットボトルをばくんと丸呑みした。ドーナツにかぶりつく幼子のように豪快で単調な動き。顔を上向かせ、その勢いで黒い管が口から出てきた。口は動いていないのに、ごりごりごきゅごきゅ音がする。いったい平面のあの身体のどこに収まったのだろう。ぶるりと震えると、フラワーロックのように左右に揺れながら、ゆっくり萎んでいき、松見の胴に貼りついて肌色、服の色になり、管が寄り集まって腕になり、十秒ほどで元通り、松見の左半身となった。
「ふぅー」
盛大に息を吐くと、松見は伸びをしたり腕を回したりして機能を確かめる。
「俺に憑いてる奴は悪食な上に非常に大喰いでな。普段から餌をやってるんだが、一度解き放つと何か喰うまで戻ってくれない。酒をやると機嫌が好くなるんだが、俺だって普段飲めないような高い日本酒が特に好きだし」
松見の口調は、寄生している厄介者というよりペットについて語っているかのようだった。
「「……で」」
カオルと千織が同時に言った。
「ああ、」
松見は少し捲れ上がった服の袖を直しつつ、告げる。
「カシカルの肉には反応したが、それ以外に食欲を示した様子はない。怪異は憑いてるものが起こしてるわけじゃないな」
「……ということは」
千織が顎に手を当て、小首を傾げる。
松見は服の袖を引いて形を整えた。苦い顔だ。
「……やっかいだな」
Rotate F・K
電車は揺れている。一律に。時折大きな音を立て、それに沿うかのごとく一際揺れるが、それ以外では駅に近づくときと停車しているとき以外、動きに変化がないように思われた。だから、このまま放っておかれたら、居眠りしている人物は永遠に環状線に揺すられ続け、眠り続けるのではないか。実際にそんなことはないのだろうけれど、現に、座席に小さな体躯を預け、あどけない顔で眠り続ける少女は、まったく起きる兆しがなかった。
車内は混み合っている。座席は全て埋まり、立っている者にもあまり余裕はなさそうだ。多くの人が塞ぎ込んだ――実際は違うのかもしれないがそう見える――面持ちで、端末の画面か景色を眺めている。だが、誰しもが黙っているわけではなく、学生らしき集団や女子高生らしき塊、ベビーカーからはみ出した幼児などが、伴う者との会話に花を咲かせていた。しかし慣れきった東京の人間は、それくらいで驚き目を覚ましたりしないのだ。
電車は揺れている。何の変化もなく、敷かれた線路を回り続けている。
だというのに、少女は目覚めた。一見、それまでの電車の揺れと、それからの電車の揺れ、そして車内のざわめき具合に、何の違いも見出せなかったというのに。それ以外に、覚醒を促す要因があったのか否か。とにかく、海麟堂ふすらは睡眠状態から脱した。
ふすらはまだ眠気の抜けきっていない瞳で辺りを見回し、自分が電車に乗っていることを思い出す。そしてなぜ電車に乗っているのか、目的地と待ち合わせる人物を確認して、それからやっと現在地を確認する。
「……次、神田ですか。…………寝過ごしましたね」
なんてことなさそうに、呟く。
本来なら、途中である人物を拾ってから待ち合わせ場所に向かうはずだったのだが、仕方がない。眠っている間に環状線を何周かしたらしく、もうとっくに待ち合わせ時間間近になっている。いまさら引き返す余裕はない。それにどうせ、あの人はふすらの要請を断りはしないのだ。ふすら一人でも、何ら問題はない。
しばらく揺られ、知名度はおそらく日本一であろうターミナル駅へ到着すると、ふすらは電車を下りた。出口を通り抜ける際、両耳の下辺りで結った、明るい栗色の髪がふわりと舞う。
人形のように愛らしいが、人形より遙かに表情豊かな少女だった。髪と同色の瞳は大きくつぶらで、様々な光が瞬いている。パフスリーブのワンピースは純白で、セーラー服のような四角い襟が特徴的だ。それだけだとどこにでもある既製品に見られがちだが、彼女の纏うそれには縁に薄緑の絹のレースがあしらわれていて、歩くたび軽やかなシルエットを作りだす。それでいてどこか“着せられている”感が残るのが微笑ましい。ホームを踏みしめる足にエナメルの靴を履いていて、ところどころ大人びた、いかにも背伸びしている女の子、といった風貌である。中学生ほどの年齢だが歩く姿は行儀よく、そしてある種の威厳を感じさせた。
髪の束をぽんぽん揺らしながら階段を降り、慣れ親しんだ駅構内を、人混みに飲まれないように歩いて八重洲北口改札を抜ける。果たして、彼女を待つ人々はいた。
「ふすらちゃーん!」
「千織ちゃーん!」
ふすらは駆け寄ってきた関千織ときつく抱きしめ合う。いや、ふすらはそのつもりだったが、千織のほうが体格が良いので、ふすらは抱きしめられて覆われる格好になる。
「久しぶり! 元気にしてた?」
「はい! 千織ちゃんも、元気そうで何よりです」
「くうぅ、かわいい!」
「暑苦しいな、それに周りに迷惑だ」
視線を上げると、こちらにも久しい顔があった。とりあえず改札出口から離れ、改めて挨拶する。
「お久しぶりです、松見先輩」
「久しぶりだな、ふらんす。七ヵ月ぶりか」
「ふらんすじゃなくてふすらですよう」
ふすらは口を尖らせる。その仕草もまた愛らしい。
「やっぱふすらちゃんかわいいなー、ふすらちゃんみたいな妹がいたら良かったのに。あたし男所帯で育ったから憧れなんだ、妹」
千織は普段の険しさを失くしてうっとりしている。松見はやれやれ、と髪を掻き上げた。こともなげな所作だったが、この男がやるとどうも絵になる。もっと自分のかっこよさに気を使うべきだわ、とふすらは思った。
「えっと……ご用件は何でしょう?」
「ああ」
松見は千織を見やった。それだけで通じたように、千織はふすらを促す。
「ここじゃ何だし、場所を変えよう。ふすらちゃんも、お腹空いてるでしょ」
「はい」
一行は、駅構内のコーヒーショップに入った。ガラスケースのなかに収められた食品の数々を、松見とふすらは片っ端から注文する。かなりの量の食品をトレーに載せ、空いていた席に腰掛ける。
「で、何の御用でしょうか」
席に着くと同時に、ふすらはサンドイッチにぱくついた。小さな口を休みなく動かし、あっという間に体内に収める。
「一応確認。おまえ一人なんだな?」
松見の背後から撓る黒い影のようなものが伸び、包んでいるビニールごとホットドッグを掻っ攫う。
「むぐっ、ええ」
「あいつのことだし、どうせ原宿か渋谷でぶらぶらしてるんだろうな。いまから呼んでも無駄だろ。まあ今日は打ち合わせだけで、後日空いてればいいんだが」
「今日は趣向を変えて巣鴨にいるそうです」
ミルクのたっぷり入ったコーヒーをがぶ飲みし、二つ目のサンドイッチに齧りつく。
「なんだそりゃ。ほんとに自由だな。実行部のなかでもかなり」
「そうだな」
ふすらの体格に似合わない暴食と“悪魔”の共演を見て、食欲なさげの千織が相槌を打つ。
「っつーか、あいつと巣鴨って、妙にしっくりくるんだが」
「……そうだな」
千織は肩を落とし、諦めたようにゆるゆると首を振った。毎度のことだが、愛らしい外見とは裏腹に、ふすらの食べ方は品がなさすぎる。
海麟堂ふすらもまた“事務所”に所属する窓口担当の一人だ。年齢は見た目どおり、本来なら中学生である。この若さで“事務所”に所属するということは、いろいろ苦労していることなのだが、本人は、少なくとも表向きは、底抜けに明るい。
ちなみに、先ほど話題に上がった人物は彼女が担当する実行部員で、うら若き女性である。普段からこんな夕暮れどきに、危険がないとはいい切れない渋谷周辺などを一人でほっつき歩く人だった。そうするのは、彼女なりの信条もないわけではないが、そもそも“事務所”に所属する者は、帰る場所を持たないのだ。
拠点のない“どこにもない事務所”に所属する者もまた、特定の住処や活動場所を持たない者が多かった。これは“事務所”に倣っているというよりも、そういった者ほど“事務所”に所属する傾向にある、といったほうが正しい。ふすらにも彼女の担当する実行部員にも、そして千織や松見にも、行き場はない。
「う、う、ぐ。ふぉえへ、何でわたしを」
「食うか喋るかどっちかにしろ」
「ふぁい、先輩」
ふすらは食べることを選択した。そうしなければ“悪魔”に奪われると判っていたからだ。
手持ち無沙汰の千織は、ただ自分のコーヒーを眺めている。ミルクと砂糖を加えたふすらのものとは違い、濃いブラックだ。
「ごちそーさま」
ようやく、ふすらは手と口を止めた。まだ彼女の買った食糧は残っていたが、無念、食べきれなかった。まあ、後は何もしなくても“悪魔”が平らげるだろうが。
「じゃあ、本題に入ろっか」
千織が食糧を脇に退け、テーブルの上に紙の地図を広げる。
「実はさ、いまあたしらが受けてる依頼、大捕物っぽいんだよね。で、人禰さんに協力してほしいの」
「別に構いませんが」
「うん、それでね。『形有る』状態にしても事態は解決しない、それどころかもっとひどいことになると思うんだ。けど、そうしないと多分終わらない。だから、一般人の被害を出さないためにもなるべくひとけのない場所で始末したいんだ」
「なるほど」
二人が話しあっている間、“悪魔”は休みなく食糧を取り込み続けた。二人の話を聞いているのかいないのか、松見はただその様子を見つめている。
幾つか場所の候補を上げ、日時を確かめ、移動手段を検討する。特に松見は、ある理由によって、山手線の一定区画に入ることができないので、移動手段には気を使わなくてはならない。
幾つかのことを決定し、確認した後、話すことがなくなった千織がコーヒーを口に運ぶのを見て、ふすらも、早くも小腹が空いたので、再び食事しようと思い立つ。しかし既に、トレーの上は空っぽだった。
「ああ……」
しょんぼり、肩を落とす。
「終わったのか」
「はい。先輩聞いてましたか?」
「ああ、一応な。たとえ聞いてなかったとしても、スエキチが憶えてれば俺はなんとかなるし」
「そうやって人に頼ってれば何でもなんとかなるとか思ってんじゃねーぞ、あと関千織だ」
苦味が強かったらしく、コーヒーをちびちび飲みながら、千織が反論する。その様子を見て、ふすらはちょっぴり羨ましくなった。
“悪魔”が憑く前の松見は知らないが、彼はいつも面倒臭がり屋なように見えて、実は困った人を放っておけない優しい人だ。責任感もあるし、容量も良いほうだと思う。手先が器用で繊細な作業もできるし、博識にして聡明、人望もある。千織は千織で、大切な人や弱い人のために身体を張れる人だ。とても素敵な二人で、その二人が息ぴったりなのはさらに素敵なことだと思う。
ふすらは、自分の担当する実行部員に不満はない。彼女だって尊敬できる素敵な人だ。けれど、彼女がいつも泰然自若、それでいて気まぐれで地に足のつかないふわふわと浮雲のような人であり、世間知らずなふすらと似ているところがあるのに対して、松見と千織はでこぼこだ。お互い違っていて、その違いを判っているからこそカバーし合える。そういった関係には、やはり憧れてしまう。
そんな二人をしばらく眺めた後、思い出して、端末を取りだす。日程が決まったので、担当者に連絡しなくてはならない。いくら離れ雲のような人とはいえ、彼女に予定がないとは限らないのだ。
番号を呼びだす。メールだと気づかれない可能性があるので電話にしよう。
「そういえば、松見」
千織がふと、松見に声掛ける。
「人禰さんの能力が要るのは判るけどさ、あの人には頼まねーの?」
「ああ、あいつか……」
松見は頭の後ろで腕を組み、椅子の背凭れに身体を預ける。
「今回マジアブねーんだろ? だったら彼にも協力してもらったほうがいいって」
松見は顔を上向けて、椅子を前後に揺らしている。
「今回は頼まねーよ」
「……確かに、合同任務っていうか、あの人呼ぶと手柄全部持ってかれるだろうけどさ、一応呼んどいたほうがいいって」
「いや、今回は多分無理だ。あいつにも弱点はある」
「は?」
千織は首を傾げた。ふすらも同じ気持ちだ。
この国で最も人が、それも様々な国籍、人種、思想の人が集う街、東京。人が多いということは、人や文明を狙う異形や、人が作りだした怪奇現象も多いということで。様々な人がいるということは、発生する怪異のバリエーションも様々ということだ。そして、多種多様な怪異に対応するには、松見もふすらの担当も、能力があまりに偏りすぎている。そこで、特例措置として、東京には“万能”の力を持った実行部員が派遣されている。彼の力は本物だ。現にふすら達は、いままで何度も彼に助けられてきた。
万能とは、あらゆる事態に対応できるということ。隙がないということ。だから、松見の言葉が、俄には信じられない。
「えっと……」
「とりあえず連絡しろよ」
「は、はい先輩!」
ふすらは中断していた、担当員とのコンタクトを再開する。電話を掛ける。呼び出し音が一回、二回。
《はいよ》
いつもと変わらぬ調子で、相手が電話に出た。いつもながら、電話の相手も確かめずに出たらしい。
「先生、こんばんは。まだ巣鴨ですか」
《ああ、なかなか楽しいよ。出掛けてみるもんだね》
「そうですか」
《君も籠ってばかりでは身体が鈍ってしまうよ。たまには外に遊びに行ったらどうだい?》
「あのですね」
《そうそう、ふすらくん。せっかく巣鴨に来たのでね、パワースポットとやらに行ってみたのだよ。そしたらこれがまた》
「らちがあかないな」
松見が、ふすらの手から端末を奪い取る。ほんの少し触れた彼の指先は温かく、すべすべして気持ちよかった。
「人禰、俺だ」
《む、松見瀧弥か。久しいな》
「ああ。単刀直入に言う。大きな依頼を受けておまえの協力が要る。三日後の19:30から二時間ほど空けておいてほしい。場所とそこまでの移動については、ふらんすから聞いてくれ」
《ああ、判った。その日なら空いてる……あ、待て、いまそこにふすらくんがいて、千織くんもいるのか?》
「? ああ」
《そうか……いやなに、ただの確認だ。代わるなら、ふすらくんに》
ふすらは感心したように松見を見ている。電話を返してもらうとき、また少しだけ手が触れ合って、ちょっと嬉しくなった。
ふすらが詳細を話している間に千織はコーヒーを飲み干し、トレーを返却した。
支払いは予めふすらが済ませていた。三人のなかで一番経済的余裕があるのは彼女である。
電話を切ると、三人で店を出た。
「じゃあ、花火の日に」
「ああ」
「うう、名残惜しいよう、ふすらちゃん……」
「またすぐ会えるだろ」
餌付けしかけた野良猫のお腹に触ろうとしたら逃げられたかのような、切ない顔をする千織に微笑みかけ、ふすらは改札へ向かった。
Excepted Makkuroi・Nanika
そこは橋の下だった。川ではなく、陸橋の下。夜も更けたせいか、道路があるが車はなく、歩道を歩いているのも一人きり。
歩いているのは一人の女。……いや、女性の恰好をしているだけで、断定はできないが。
黒光りする靴。黒のストッキング。喪服のように黒い、丈の長いワンピース。さながら本当に葬式帰りであるかのように、首の辺りで切り揃えた黒髪に留められた、黒いレース。雨も降っていないのに広げられた、黒い傘。
こんもりと盛り上がった傘は縁に玉状の飾りがあしらわれ、ワンピースもところどころレースで飾られている。葬式ではなく、こういうファッションなのだろう。
人影は歩く、傘を振りながら。それは足音を喪失した動きだった。人同様、音も消えないこの街で、その一個体だけは完全な静謐を体現していた。
聴覚的には動きを感じさせなかったが。視覚的には微かに、移動の跡を残している。歩くたび、細かく白い何かが舞い、零れ落ちる。
レースで覆われた頭部の右側、その奥に見えるものが、歩くたび揺れ、少しずつ形を崩し、ぼろぼろ崩れたそれが地に落ちる。花のように。咲くように。散るように。
気づいているのかいないのか、人影は歩み続ける。ただただ無可逆に、夜に向かうしかない場所を。
「さて」
不意に、声が生まれた。が、路を行く人影の口は動いていなかった。細く低い、どちらかというと男性的な声は、人影の横方向、空気しかない場所か、陸橋を支える柱の辺り、人は立ち入れそうにない場所から、聞こえてきたように思われた。
「そろそろ溜まるだろう。総ての光と音が混沌に還るのだろうか、それとも世界は移行して歯車が巻き戻ることは二度とないのか……いや、“歯車が巻き戻る”世界こそ新世界ともいえるか。とにかく」
今度は、人影の口が動く。動いているが、声はでていない。口の動きは言っていることと一致するが、別の場所から聞こえてくる。……スピーカーのように。
「もうすぐ溜まる。淵まで溜まる。溢れた想いは川となり、幾千の願いを育むだろう。しかしながら、それは我らには関わりのないことかな? 人の世を変えるのは、いつだって人だ。いまはまだ、我らが干渉してはいけないだろう。いまは、まだ」
聞いている者を焦らすような口調で、声は締めくくる。人影は動じず、ただ歩を進め、白い何かを降り散らす。
だんだんと、人影の、歩道に映った影が地面に沈んでいく。
階段を降り始めたとか、まして地面に溶けていくわけでもない。人影の姿勢も歩調も変わっていない。一律に、坦々と歩いている。その影だけが、変化している。
足元から消失し、代わりに幅を僅かに広げる。まるでカメラの焦点を徐々に近づけていくかのように、影の下が地面に飲まれていくにつれ、上体が大きく、鮮明になっていく。
ついに影は頭頂部のみとなったが、それでもまだ下方が消失し、地面に人影の頭の半分がくっきりと描き出される。細かいレースの合間で、ぼろぼろの何かが千切れ。夜風に舞い上がり、溶けた。
Rotate K・T 2
改札を抜けて、一旦駅の外に出ると、もはや空は黒く塗り込められていた。夏の空には冬にはない星が見える、はずだった。車のライトや建物の灯、それ以外の様々な光のせいで、カオルの目には夏も冬も同じ空に見えてしまう。
松見達と会ってから三日後の火曜日。午後七時二十分。新橋駅の烏森口。ここからモノレール「ゆりかもめ」に乗って、松見達の待つ駅へ向かうよう指示されている。新橋駅で仲間を待たせているから、合流しろ、とも。
カオルは、なぜ三日も待たなくてはならないのか不服だった。本当は、すぐ解決されることを期待していたし、可能だと思っていた。しかし、松見達にとってカオルの周りで巻き起こっている怪異は、思ったよりも手を焼くものらしい。それで、三日も掛かってしまった。
学校で、幸いまだ死者は出ていない。しかし、クラスメイトがカオルのことを気味悪く思い近寄らなくなってからも、彼の周りで怪我は相次いだ。状況が変わっただけで、カオルの疎外感と孤独感、そしてクラスメイトへの憎悪は相変わらずのままだった。
夜遅くまで出掛けていると両親に怪しまれるため、友達の家に泊まりがけで勉強すると嘘を言って出てきた。信憑性を増すために勉強道具を入れてきた鞄は、駅のロッカーに預けておくことにする。
JRの路線が通る建物から外に出て、ゆりかもめの駅へ行く。エスカレーターで上に行くと、全国チェーンのコンビニとコーヒーショップが目に映った。確か、待ち合わせはこの店だ。
コーヒーショップの扉を開けて、……既視感。
狭いテーブルにこれでもか、と積まれたサンドイッチと、その間に押し込むようにして色とりどりのケーキの皿が置かれている。その前に一人の少女が座り、食べる、というより貪っている。
背の高い椅子にちょこんと座る姿は、精巧な人形のように愛らしい。本当に人形だとしたら悪夢だな、と、その食事風景を見ながら思う。周りの客は……いじめられているカオルから目を背けるクラスメイトのように、少女のほうを見ようとしない。確かに公で下品にかっ食らう少女は見ていていい気持ちがするものではないが、他の客の態度もカオルは気に食わなかった。
「……あっ」
と、少女がカオルに気づき、手招きした。まさかとは思ったが、彼女が待ち合わせの相手らしい。
少女は手を止め……それまでが嘘のように上品に、慎ましく、軽やかに挨拶した。
「高島馨さんですね。松見先輩から話は伺っています」
「はあ、はい」
「大変申し上げにくいことなのですが、今回依頼対処のため招集されました実行部員の到着が遅れております。申し訳ありませんが、しばしお待ちください」
中学生ほどの見た目と、先ほどの、家畜の豚の食事風景を口元アップで見たような光景から一転し、少女はどこに出しても恥ずかしくないような丁寧な口調で説明する。思わず、カオルは狼狽えた。
そんな彼の様子を見て小首を傾げると、少女は食事を再開する。テーブルの上のものを、皿まで食らうように豪快に汚穢に平らげると、至福の表情で手を合わせる。ちょうどそのとき、店の戸が開いた。
「すまない、遅れてしまった」
カオルは振り返り、魂を抜かれた。相手にそのつもりはなかったかもしれないが、身体を置き去りにしてふよよ~っと泰山と新橋を六往復くらいした。
黒絹のように細かい髪は艶やかで、真珠を砕いた粉を塗したようにきらきらと、動くたび光が弾ける。肌は白くて張りがある。磨き上げたようにすっきりとした顔には染み一つなく、ほっそりしたラインが首まで続いてしなやかさを感じさせる。切れ長だが優しさを漂わせる瞳は、研磨された黒耀石が嵌めこまれているかのごとく深く、それでいて澄んでいて、ふくよかな唇は桜色で瑞々しい。淡い緑のワンピースに、薄いチュニックを纏い、蝶々のネックレスを下げている。いるだけで場が華やぐような、妙齢の美女だった。
「ああ、きみが今回の依頼人だね。松見達から聞いているよ」
にっこりと、天女のように笑う美女。カオルは自分が文字通り昇華してしまうかと思った。身体から湯気が出ている。固体から気体になってしまう。
女性はカオルの様子に気を配ることなく、少女に向き直った。テーブルの上に積み上げられた皿を見て、溜息をつく。
「またかね、ふすらくん」
「先生こそ、いつも遅刻じゃないですか」
「むむ、それを言われると弱いな」
見た目に似合わず厳しい口調で女性は唸る。が、カオルは気が気ではなかった。ただでさえ少女のせいで目立っているのに、さらに女性まで加わって、店中の目という目、耳という耳がカオル達に集中している。
三人はとりあえず、店から出た。
「あの、えと」
「とりあえず、乗ろうか」
言うと、女性と少女はさっさとゆりかもめの乗車口へ向かってしまう。前にもこんなことがあったなあ、と思いながら、カオルは後に続いた。
改札を抜け、エレベーターで上がると、ちょうど終点に着いた車両が、折り返し豊洲方面行きになったところだった。ホームには何人か人がいて、彼らと一緒に三人も乗り込む。車内は空いていて、三人は向かい合わせの席に座ることができた。
「先輩達が待つ駅までしばらくかかります。なので、少々ご説明を。依頼は通常、一ペアが御相手しますが、今回の依頼は、わたし達と先輩達との合同対応となります。なお、どのような対応を取ろうと、あなたから何か頂戴することはございません」
「ああ、判ってる」
事前に松見から聞いていたとおりだ。
「それで、今回の流れですが、まず先生の能力で……あ、先生の紹介がまだでした。っていうか、わたしの紹介もしてなかった」
なんだか慌てる少女が可愛らしくて、カオルは小さく吹きだした。見ると、女性の表情も和らいでいる。
「えっと、先生は、人禰奏碧というお名前です。能力は形の無いものに形を与えること」
「よろしく、カオルくん」
品良くお辞儀する女性……奏碧。頭を下げたとき、ふわりと花の香りが辺りに広がった。
「よ、よろしくお願いします」
カオルは唾を飲み込んだ。魅力的な異性を前にして、動悸が治まらない。
「あの、形を与えるって、具体的にどういう……」
「ふむ。きみには後で協力してもらわなくてはならないし、教えておくべきかもしれないな。形が無いという状態が、どのようなことか判るか?」
「えっと……気体とかですか」
「それは違う。酸素には酸素の、音には音の形……あるべき型が決まっている。そうだな……例えば、きみはヒトだな?」
「はい?」
「大まかな括りでいえば、人間は皆ヒトだ。そしてヒトはさらに大きな括りでいえば霊長類であり、そして哺乳類だ。このように、万物万事は存在すると同時にある特定の概念や階級にカテゴライズされる。どれだけ例外的に見えようと、それは人間の物差しで見た結果というだけで、ほとんどのものは世界に組み込まれ、必ず何かに所属するようできている。それでも、存在の方向性を決める種、型、それを持たない、世界の理、大きな円環から外れた状態が『無形』ということだ。私の家は代々、そういったものに形を与えて世界に繋ぎ留めることを生業にしている」
「“有形師”というんです。伝統芸能みたいに、その家系に生まれた人はほとんど修行して資格を取ることが決まってるんですけど、それ以外の人がなるのは難しいんです。なかでも、人禰家は著名な家系なんですよ」
「まあ私ははぐれ者だけれどね。家督は弟に譲ったよ」
えへん、と、まるで自分のことのように薄い胸をそらすふすらと、晩ご飯の献立でも考えているかのような顔の奏碧。落差が激しい。
「なので、今日は先生に任せておけばばっちりです! それから、わたしは海麟堂ふすら。関千織と同じく、東京地区窓口担当です」
「えっ。……海麟堂って、まさか」
カオルの顔に驚愕が奔る。関東を中心に国中を牛耳る大企業の名だった。詳しいことは知らないが、政界や財界にもパイプがあるという。
「そう、その海麟堂です。そして、わたしは現会長の孫に当たります」
カオルの顔に貼りついた驚愕が深まり、その溝に疑問の色が流れ込む。ふすらはそれを見て、あまり気が進まないようだが、説明しだした。
「後継者筆頭であった長男、わたしの父が死んだ後、お祖父様はわたしを後継者に指名しました。その意図は判りません。当然ながら、お祖父様の次男、わたしの叔父に当たる方にはそれが不服でした。……しかし」
少女……ふすらの顔には表情がない。ただ淡々と言葉を紡ぐ。
「叔父は、毒を盛ったり、暗殺者を差し向けるのではなく。異世界から呪いの類を呼び寄せ、わたしを消そうとしました。そうすれば証拠が残らないと考えたのでしょうね。命の危機を感じたわたしは先生達、“どこにもない事務所”を頼りました」
「ああ、なるほど」
ふすらの視線の先で、奏碧は話を聞いているのか、窓の外をぼんやり眺めている。夜も深まってきて、景色の大半は闇色に染まっていたが、それでも眺めは良いようだ。
「先生達、当時東京を担当していた十人の方のお陰で、わたしは助かりました。しかし、叔父は、異世界から喚びだしたものを制御しきれず……。海麟堂の家では、わたしが叔父を殺したことになっています。それで、わたしは誤解が解けるまで帰れなくなってしまいました」
「そんな……」
カオルは言葉を濁した。聞いてはいけない話を聞いてしまったことを後悔する。
その向かいで、ふすらは、彼女自身の名前のような、ひらがなの羅列のように柔らかな笑みを浮かべた。
「いまは、お屋敷の外に出て良かったって思いながら過ごしてます。食べ物も娯楽もまるで違っていて、毎日楽しくって仕方ありません。それに」
いきなり、ふすらは横に座る奏碧の腕に倒れかかった。奏碧は不意に掛かった重さに眉を動かしたが、それだけで、邪険に扱ったりしなかった。
「先生や松見先輩、千織ちゃんに、会いたいときにいつでも会えますから」
汁のようなガスのような。何か温かく嵩のあるものが、カオルの胸のなかで弾け、肺を満たした。明らかにカオルよりも年下だというのに、その若さでは到底耐えられないであろう経験をし、それでもめげずに表向き明るく振る舞うふすらが、とても大きな存在に見えた。
「……強いね」
「はい?」
「すごいよ、僕だったら、そんなふうにはできない」
ふすらは、困ったように奏碧を見やった。見られたほうも小首を傾げ、明後日のほうを見る。
と、彼方からなかなか豪快な音が響いてきた。大砲が発砲される音に似ているだろうか。
「始まったようだね」
奏碧が呟く。それでカオルも思い出した。受験や怪異のせいで失念していたが、今日は花火大会があったはずだ。さすがに場所までは憶えていないが、確か浅草方面だったと思う。
カオルは目を輝かせ、窓に張りついた。しかしここからでは見えそうにない。首をきょろきょろ動かしていると、ゆりかもめは駅に到着した。
「ここだ。行こう」
ふすら、奏碧の順にモノレールを降りる。カオルも席を立ち、ふと、今日の流れについて聞きそびれたことに気づいた。不安にはなったものの、何も言わず駅に降りる。
改札を出たところで、松見と千織の姿を見つけた。若いふすらと千織が再会を喜び合うなか、年長組はそつなく挨拶を交わし合う。
「場所はもう押さえてあるのかい?」
「ああ。行こう」
「いや、少し待ってくれ……千織くん」
「はい?」
いきなり呼ばれ、千織はきょとん、とする。
奏碧は千織に近づき、何かを取り出した。千織は口元を押さえ、奏碧の顔と彼女が持っているものを見比べる。幾つか言葉を交わした後、千織は奏碧からそれを受け取り、化粧室に駆け込んでいった。
「なんだ?」
一連の遣り取りの意味が判らない男性陣が奏碧に尋ねる。奏碧は満足そうに微笑んだまま、語らなかった。
すぐに判った。化粧室から戻ってきた千織はあの、いかにも暑苦しかったマフラーを外して、首には代わりに濃青のストールを巻いている。おそらく麻のストールはマフラーよりずっと季節に似合っていた。もちろん、千織と彼女の服装にも。
「わあ」
恥らいながら首元を押さえる千織に、ふすらは可愛い、似合うを連発。
「ほんとに、貰っていいんですか」
「ああ。気に入ってもらえたなら嬉しい」
にっこり笑う奏碧。千織はくるりと回って、真新しいストールの翻り具合を確かめた後、奏碧に向けて頭を下げる。
それから一行は駅を出て、歩きだした。
「人禰、」
どこかへ向かう途中(先ほど聞きそこねたせいで、カオルは目的地を知らない)、松見がさりげなく奏碧に近寄った。
「ありがとな。俺だとああはいかないから」
「いやいや、大したことはしてないよ。ただ、巣鴨で千織くんに似合いそうなのを偶然見つけただけだから」
二人の会話を聞きながら、千織は首元を隠したいのではないか、という考えが浮かぶ。しかし、それ以上考えるのは止めておいた。千織が夏にマフラーを巻いてまで隠したいというのなら、詮索するのは野暮だろう。ただでさえ、今日はふすらの事情を聞きだして、後ろめたいものがあるのだから。
「着いたぞ」
「えっ、ここって……」
駅からそう歩くことなく、一行はそこに辿り着いた。カオルは目の前の空間を見、松見の顔を見上げる。
「ほんとに、ここですか?」
信じられない思いで尋ねたが、松見は頷いた。
そこはある博物館の、駐車場だった。もちろん閉館時間は過ぎているため無人だが、当然、立入禁止だ。
「……ったく、場所探すの大変だったぜ」
「まったくです。広くて、壊してはいけない物がなくて、ひとけのない場所。特に最後の条件に合う場所は、そうそうありませんもの」
「皇居のなかでドンパチやるわけにもいかないし」
「でも夏でよかったです。いま、多くの人は花火に夢中ですもの。ここからは花火は見えません、わざわざ来る人は少ないでしょう」
「えっ、花火見えないの……じゃなくて」
がっかりしかけたカオルは、すぐもっと重要なことを指摘する。
「確かに今日、いまの時間、ここにあんまり人はいないかもしれない。けど、絶対人が通りかからない保証はないし、何よりここ入っちゃダメなとこじゃん。監視カメラだってあるだろうし、建物のなかには警備員さんいるって」
千織とふすらは、慌てるカオルの様子にきょとん、とする。
「まあ確かに、いいか悪いかで言えば悪いに決まってるけど。しょうがねえだろ、新宿とかで“悪魔”暴れさせたら大騒ぎじゃん」
「いや、そうじゃなくて、可能か不可能かでいって無理でしょ!?」
「そうでもないですよ~、ね先生」
「ああ」
ふわり、と、芳しい、しかしきつすぎない爽やかな香りが辺りに漂う。その香を纏って、奏碧が一歩踏みだした。
どこから出したのか、彼女は両の手に一本ずつ扇を持っていた。模様はなく、或いはあっても薄くてよく判らない。奏碧は片手だけで扇を同時に広げると、右手を挙げ、左手を口元に遣った。遠くでどぉーん、どぉーん、と花火の音が聞こえる。奏碧は右手を一旦下げ、左上に掲げる。扇を裏返し、にこり、と瑞々しい唇だけで微笑んだ。乙女のように可憐で、毒婦のように妖艶で、女傑のように高潔。ただ唇を軽く動かしただけだというのに、それだけで、様々な心地好い印象と戦慄がカオルの心の奥底まで駆け抜けていった。
「……できたよ」
いつの間にか、奏碧はいつもの調子に戻っている。笑った後、カオルの目の前で一分近く何かしていたような気もしたが、カオルは憶えていなかった。その間の記憶がすっぽり抜け落ちているというよりは、呆けていて気にも留めなかったのだと思う。何が彼をそうさせたのか、まったく判らないが。
「よし。じゃあスエキチ、念のため見張りを頼む」
「判ってる」
カオル以外の四人は、なんてことなさそうにしている。千織をその場に残し、松見、ふすら、奏碧の順に、入り口に張ってある鎖を跨いで駐車場に侵入。
「って、ちょ、ちょっと」
言いつつ、カオルも鎖を跨いでなかに入る。
「何勝手に入ってるんですか」
いまにも警備員が飛んで来やしないかと、カオルは建物のほうに目を向ける。……しかし。
「……何もない?」
「当たり前だ。人禰が人払いの儀式をしたからな」
「は」
小説やアニメのなかでしか聞いたことのない言葉を聞いて困惑するカオルに、奏碧が説明する。
「『形を与えること』の発展でね。私は、しばらくの間なら、本来ここに無いものを具現化したり、有るものにその形を損なわない程度の性質を投影することができるんだ。この空間の上に“人に気づかれない場所”という性質を上書きした。物理的な形も備わっている者や物には難しいけど、空間なら二十分くらい保つはずだ」
「はぁ」
説明してもらっても、全然判らない。が、ここで何をするのか知らされていないがとりあえず、警備員や通行人を気にしなくてもいいらしい。
「さて」
周囲を見回し、松見がカオルに向き直る。通行人を気にしていたのではなく、何かの覚悟を決めるために見ていたようだった。
「……ええと」
傍らの奏碧が、軽く背を叩いた。
「まあ、肩の力を抜いたらどうだ。緊張していると、その分私も松見瀧弥も大変だから」
「あう……」
さっき説明を聞いていなかったことが悔やまれる。これから何をするのか知っていないため、何の心構えもできない。
「どうぞ」
気を利かせたのか、ふすらが鞄のなかからディレクターズチェアを出して座らせてくれた。
「ああ、ありがと」
「じゃあ、始めるよ」
奏碧は再び扇を取りだし、思い出したようにカオルのほうを向いた。
「カオルくん、いまから君の周りで呪いを振り撒いているものを出現させる。そいつは君に襲いかかってくるかもしれないが、その前に松見瀧弥の“悪魔”が相手するから、落ち着いていておくれ。君が動揺するとまずいことになるかもしれない」
「……大丈夫なんですか」
「……多分」
奏碧は扇を広げる。足を踏みだし、ゆったり歩きながら、手を、腕を、首を振り、回る、仰ぐ、しゃがむ。
昔、教育放送で視ていたドラマを思い出す。鎌倉時代や、古代中国の女性役の人が、オープニングや王宮のシーンで薄衣を纏って、優雅に、蠱惑的に、時に威嚇的に踊っていた。本来は短く単調な動きでも、敢えてゆっくり魅せることで画面から目が離せないようにする。
奏碧の舞は、あのときのそれとよく似ていた。蝶のように軽やかで華やかであり、また真剣試合の真っ只中のように緊迫しながらも礼儀を忘れない。一つひとつの動きにきれがあり、流れる水のように無駄がない。カオルは心が凪いでいくのを感じた。奏碧の動きに圧倒されていて、また魅入られていた。いつまでも見ていたい、と思った。
カオルの口から溜息が零れる。と同時に、何か他のものまで排出された、のだろうか。
すっかり弛緩しきっていた背中に、不意にどろりとした感触があった。粘りのある湿った何かが流れ落ちたかのように。リラックスしていた身体に戦慄が奔り、あっという間に毛穴が閉じていく。
瞬間、真っ黒い何かが頭上を通り過ぎ、その勢いでカオルは前のめりに倒れ込んだ。座っていたディレクターズチェアがかしゃん、と音を立てる。地面に激突する間際、彼の身体を温かくて柔らかい、良い匂いのするものが包み込んだ。
Excepted Tsuyukusa・Kumi
ううう、うううううう~、う、うっ、うえ、えぐ、えぐぅ~、聞いてくださいよ~。僕、僕、ちょっと老舗っぽい、あ、ほんとに老舗かどうかは知らないんすけど、でも、上品で大人っぽいカフェに一人で行ったんすよ~。で、で、ううっ、そこで、コーヒー頼んだんす、コーヒー。知ってますよねコーヒー、あのコートジボワールでよく採れる……って、それカカオっす! コーヒーは違うっす。ブラジルっす。……で、コーヒー飲みたいからコーヒー頼んだんす、当たり前っすよ、飲みたくないのに、頼むのは、うう、そ、そんなことどうでもいいっす。とにかく、コーヒー、僕ブラックの、それも、ぅ、かなり濃いのが好きなんすよ、だからブラック頼んだっす。そしたら……う、うああああああああああぁぁぁぁぁ、て、店員、あっ、あの野郎、「坊やにはまだ早いんじゃないかな」っだと、てめぇ! ……はっ、しまったっす、下品な言葉が出たっす……うううう、うう、ひ、ひどいっす。僕、十八っすよ、もう十八なんすよ、なのに、なのに、なんでカフェであんなこと言われなくちゃならないんすか……ううっ。お客様、なめてるっす、コンビニでも、支払い以外の、会話、タメで話しかけてくるんすよ! 「ごめんね、もう肉まんないの」っとか、それも明らかに高校生のバイトに! 市役所でも「ほんとにあなた十八歳?」って、ってええええぇぇぇ! ……ううっ、ぐす、え、え? じゃあ、身分証、持てって? 僕、学校、行ってないんすよ。……考えたっす、もちろん、考えたっすよ、行ったっす、教習所。でも……
「教官総出でハラスメントおおおおおおおおぉぉぉぉぉぉぉぉ!」
がつん、と大きな音がした。
勢いに任せてぶつけた額の痛みと、腫れた目の周りを、冷たさが癒していく。
「そ、『そんなに背低いと大変だね』とか、『得することもあるんじゃない』とか、み、みんな、何様のつもりっすか! 僕の苦労も辛さも、判ってなんてくれないんす、まあ、判ってもらわなくったっていいんすけど……とにかくっ、乗る度にあんなこと言われたら、誰だって嫌になるっすよ!」
どう見ても十代前半にしか見えない体躯をぶるぶる震わせる。その声には怒りとやりきれなさが込められていたが、しかし、先ほどまでの涙ぐんだ様子はない。顔を押しつけている硬くて冷たい感触と、心の内を思いきり吐露したことで、冷静さを取り戻しつつあるようだった。
日はとっぷりと暮れていた。辺りには昼の喧騒も、人影もなく――生きた人間という意味では――ひとりきり。
そのことを確認するように、顔を上げた。夜の外気に晒された顔もまた、十二、三歳ほど。柔らかそうな黒髪はくせがかっていて、潤んだ目はくりくりと円い。愛らしく、もっといえば庇護欲を唆られる少年だった。……彼が、見た目通りの年齢であるのなら。
もしも外見相応に十三歳だったならば、周囲から可愛がられても素直に喜ぶかもしれない。或いは女性だったならば、実年齢より五年若く見られるのは嬉しいかもしれない。しかし彼はそうではなかった。故に、外見で受ける不当な評価に傷つき、愚痴を言うのであった。
「でね、でね、うううぅ……え、え? 『そげんこっ、おいに言われても』ですって? で、で、でもでもっ、あの人に話したら『おまえは基本天然で何言われても堪えないから、まさかそんなことで思い悩むなんて誰も思わないんだよ』って。……うう、ずすっ、そんなことって、しかも、天然って、なんすか、人を松茸みたいに……ひゃんっ!」
一昔前、ちょうどいま大学生の年齢に達した者が、幼少期に視ていたであろうアニメの主題歌が、蝉の声に混じって鳴り響いた。
「で、電話っす」
慌てて、鞄から連絡用の端末を取りだす。
「はい、九三っす。……え」
少年は瞬きした。長い睫毛がぱさぱさ、と蝶が羽ばたくように上下する。
「はい、はい……あっ、はい。了解っす……はい」
電話を切った、彼の
―――――――――――――――――――――――――暗転
Excepted Dokokade・Darekaga 1
目の前に、床一面に広がっていた。一瞬、血溜まりのように見えた。
よく見ればそれは図形の集合だった。大きな円と、その円周の一部に交わるもう一つの円。その周りに散らばった、アルファベットのような、数字のような多くの文字と記号。コンクリートの床に余すことなく描かれたそれらは、暗い色の塗料で彩られていた。
どう見ても後から描き足されたその色を、指先が撫でる。それは白く、白く……雪というより、骨のよう。
一頻り、古い図形に上書きされた比較的新しい図形をなぞると、指は引っ込められ、持ち主の顎に添えられる。
あどけない少女のような顔のつくり。嫋やかな指が撫で摩る、その仕草は、成熟した女性のそれ。
黒く黒く黒いなかに、白く白く白い光景が、射干玉の夜に浮かぶ月のように、朧がかって冷たかった。
―――――――――――――――――――――――――明転
電話を切った、彼の表情から、ぽっかりと人間らしさのすべてが抜け落ちた。物事に動じる心も、その心の動きを表す標号も、細胞が行う呼吸でさえ、止まってしまったようだった。その顔は虚無だった、故に穏やかだった。硬直がないから、仮面のようでも、デスマスクのようでもあり。そのときだけ、彼は歳相応に見えなくもなかった。
「ふぅ」
息を吐いたときにはもう、色も動きもその顔に戻ってきていた。一秒前のあれは何だったのかと思えるほど、彼は自然な表情で「にひっ」と笑った。
「……まさか、こんなことになるとはね。あの人のしでかしたことの結果でしょうかねぇ、それとも、あの人も僕も、いや、僕の知っているすべての人が、駒にすぎないのか。……とにかく」
彼は凭れかかっていた身体を起こすと、薩摩男児に一礼した。それから踵を返し、広く暗い空間に目を遣る。
「行くしかないでしょう」
歩きだした、彼は
「君、」
呼び止められた。振り向くと、
「こんな時間に何してるのかな? 中学生だよね」
目の前に、警察手帳があった。
Rotate S・H
奏碧はとっさにカオルを抱きとめ、後ろに下がった。しかし、それでもソレの下から逃れることはできない。と、彼女達の頭上を黒い管の束が奔る。黒い束は瞬く間に空間を覆いつくし、ソレと縺れ合う。その隙に、奏碧はカオルを抱えて走りだした。ソレが“悪魔”を折り畳むように身を乗りだし、二人に迫る。
「……くっ」
手に持ったままの扇を振るう。目の前の『形』を捕らえ。躊躇う暇はなかった、“曲げた”。
まるで何かに叩きつけられたように、ソレが二人の前で急停止した。ガラスに激突したように滑稽な形で固まる。
「が、は」
それはスローモーションのように。奏碧の胸が持ち上がった。彼女に抱かれたままのカオルの顔に、温かい液体が飛び散る。白い喉が仰け反り、黒髪が宙に舞う。
「奏碧さん!」
「先生!」
口から鮮やかな赤を吐きだした奏碧に、カオルが縋りつく。駆け寄ったふすらが、彼女の上半身を支えた。
「奏碧さん! 奏碧さん!」
取り乱しかけたカオルの頬に、白い手が添えられた。肩を震わせつつも、奏碧はカオルの顔を撫で、宥めようとする。
「えっ……なん、で、そんな、え」
「私は、大丈夫だよ。攻撃されたわけでもないし」
「そ、そ、そ」
「……先生は、大丈夫です! 自分のするべきことに集中してください!」
ふすらが叫んだ。カオルに向けてではなく、いまもなお“悪魔”を駆使して戦い続ける、松見に。
「奏碧さん、どうしちゃったんですか……」
惑い、身体から力が抜けているカオルに対し、奏碧は宣言通り、見た目に反して平気な様子を見せた。自力で立ち上がると、ハンカチを取り出してカオルの顔と、自身の口元を拭う。
「とっさにね、私達とあれの間の空気、その在り方を捻じ曲げたんだ。空気には空気としての元々の『形』があるから、一時的とはいえそこには歪みができる。そのつけを払っただけさ」
「え、え、わけが判りません」
「きみと私に攻撃が届かないよう、盾にした。『形』を与え、世界の形状を守る“有形師”にとって、『変形』は二番目に重い禁忌に当たる。詳しい仕組みについては省くけど、反動によって少し傷んだ」
「先生、まだ休んでて」
ふすらが、奏碧の服を掴んで軽く引いた。松見の手前ああ言ったものの、彼女とて心配なのだろう。
「……煙草が吸いたいな」
「だめです!」
奏碧はふう、と溜息をつく。彼女にはまだ役目が残っているが、それは松見の決着がついた後のことだ。ふすらの言葉に甘えて、いまは休ませてもらうことにしよう。
Rotate K・T 3
「なっ……」
カオルは声を失った。奏碧の容体が思ったより深刻でないと知って安堵し、やっと背後の修羅場に気づいたのだ。
松見の左半身は“悪魔”と化している。以前見せてもらったときよりも大きい。あのときは大柄な人間二人が並んだほどの大きさしかなかったが、いまは象くらいある。既に松見の身体の原形を留めていないのと、ガムのように広がって相手を包み、捕えようとしているのを見る限り、伸び縮みの利く躰なのだろう。対抗するため、同等の大きさにまで膨らんだようだった。ガムやゴムなら広がったぶん薄くなるが、“悪魔”は質量がないので厚さも関係ない。雲のようにむくむくとした形に広がって、末端を鞭のように伸ばして撓らせ、縒り合わせて巨大な塊を作って殴りつけている。
それが、対峙しているものがよく判らない。いや、たとえ理解できたとしても、知りたくない。
大きさは“悪魔”と同じくらい。つまり普通の人間より一回りも二回りも大きい。全体は筒のような形で丸みを帯びていて、肢のない芋虫みたいだ。蝶のような緑色で葉の質感を持ったものではなく、甲虫や蜂のように土や巣の奥で丸まっているやつだ。それが、現在進行で捏ねられている粘土のようにぐにゃぐにゃとのたくっている。色も粘土みたいに、艶のない、無個性な白だった。
その巨大で醜悪な粘土像みたいなものの表面で、瘤のように盛り上がった、或いは埋め込まれたようになっているもの。“悪魔”に殴りつけられても、抉りとられても、内から内から湧き出てくる、おそらくその巨大なものを構成しているもの。
「――うわああああああああああああああああ!」
気づいた瞬間、カオルは絶叫した。
それはすべて人の顔なのだ。原寸大の人間の顔が何十、もしかしたら百個以上くっ付いている。それは幾つもの顔の集合体だった。表面びっちりに顔かお顔、腕のように伸びた箇所にも顔かお顔。前後上下左右、三百六十度に顔顔顔顔顔顔かおかおかおかおカオカオカオカオ――!
それが一斉に、喋っている。
「うざい、きもい、うざい、きもい」「嫌嫌嫌嫌」「汚い、気持ち悪い、気色悪い」「嫌い、嫌い、嫌い、嫌い」「公立じゃなきゃ駄目、公立じゃなきゃ駄目」「まじあいつ、チョーむかつく」「腹減ってねえ?」「まじかよあいつ、チョーエロい」「こっち見んな、ばか」「うるせーんだよ、黙れよクズ」「死ねよ」「死ねよ」「死ねよ」「死ねよ」「死ねよ」「死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね」
幾つもの顔は、適当に作った粘土の塊のような全体同様、個性がなく。目、鼻、口など以外はのっぺらぼうみたいで、誰の顔なのか、知っている顔なのか、判別がつかない。その姿だけでも充分グロテスクだというのに、こんなに多くの顔が集まっていてそのすべてが無表情というのはさらに不気味だった。
カオルはもう少しで失禁するところだった。奏碧とふすらがいなければ、間違いなく漏らしていた。
「な、な、な、な」
それでも腰が抜けて涙が溢れたのは仕方のないことだっただろう。
「大丈夫……ではなさそうだね。ふすらくん、運んでやってくれ」
「はい」
ふすらがカオルの両脇を持ち上げて、戦闘のとばっちりが来ない安全圏まで引き摺っていく。
「な、ななななんあんななああなななあななあ、なんなんですかぁ、あれ!? どっから出てきたんですか!?」
「落ち着きなさい……ごぼっ」
「そそそそ、奏碧さん!?」
依然、口から血を吐きながら、奏碧は煙草を取り出す。口に咥え、撫子の花が刻印されたメタリックピンクのライターで火を点けた。そんなに吸いたかったのか。
「……あれは、負の感情の塊が具現化したものだ。私がイメージに『形』を与えた。物理的に触れるものしか、“悪魔”は喰らうことができないからね」
「負の感情の、具現……」
「ああ」
奏碧は、ふぃー、と息を吐きだす。
「人の純然な意志は、あらゆることを成し遂げるきっかけになり、また力そのものになる。一人ひとりのそれは、せいぜい己の心の動きを変化させることしかできないけど、信念と呼べるようなものではない、ふとした思念さえ、寄り集まれば強固となりうる。それがある一定の質か量に達すると、精神活動の限界を迎えることがある。そこに至っても止まらなかったものは限界を超え、そうなると、心が物理にまで影響を及ぼすようになるんだよ。大勢の人間の思想が集まれば、それこそ世界さえ廻すことができる。一般的に、そういった意志の力の正なるものを祈り、負なるものを呪いと呼ぶ。あれは、きみの周りで怪奇現象を起こしていた呪いを、視認、接触可能にしたものだ」
「呪い……」
“悪魔”と絡みつく、醜悪なものをまじまじと見つめる。それはとてもごちゃごちゃとしていて、形もやりたいことも全然統一されていなくて、ただ、溢れるほどの憎悪だけが伝わってきた。
――あれが、“呪い”。
「効果と対象が問題であって、見てくれは瑣末なことだが……それにしても、でかいな」
「ええ。一人の人間が抱えていたものにしては、最大級じゃないでしょうか」
ふすらのその言葉に、一筋の稲妻のように衝撃が奔った。
「一人の人間……って、まさか」
「そうだ、あれは。さっきまできみのなかにあったものだ」
奏碧は淡々と言った。
「クラスメイトへの憎しみや疎外感、受験のストレスやプレッシャー、その他諸々、きみは常日頃、そういったものを体外に吐き出さずに堪えていたんだろう? 行き場のない、漠然とした心の靄が、溜まりに溜まってとうとう閾値を超えてしまった。それで呪いが発動したんだ。いまは軽いはずだ、ありったけ体外に排出させたんだからな」
確かに、カオルは憑き物が落ちたように肩が軽かった。あれだけ強かったクラスメイトへの憎悪も、いまは不思議と心のなかに見当たらない。……いまの話を聞いていなければ、久々に爽やかな気持ちになれていたかもしれない。
「……じゃあ、なんですか。僕のなかは、あんな汚いものでいっぱいだったと」
「気にすることはない。誰だって腹のなかはドロドロのグチャグチャだ。まさか、自分は、自分だけは清廉だと、信じていたのかい」
紫煙とともに、奏碧は吐きだす。
「一生に一度も悪口を言わない人間のほうが、そうでない人間より珍しいよ。人が人を憎むのはあたりまえのことで、仕方のないことなんだ。だから恥じることはない。それに、大事なのは憎むか否かではなく、人を憎まずにいられない自分の弱さ、醜さを知っているか、どの程度認めているか、だ」
二人が話している間も、“悪魔”と顔の化け物はひっきりなしに戦っていた……ように見える。というのも、“悪魔”は戦うことを目的にしているのとは少し違っていた。長く伸ばした先端で絡み取り、突き刺し、殴りつけて怯んだ隙に口に運ぼうとして躍起になっている。もしかして、いや、間違いなく、食べようとしている。“呪詛の塊”のほうはというと、幾つもの顔が言っていることが統一されていないのと同様、行動も、いったい何がしたいのか掴めない。ただ、出現した以上は食べられるのは御免とばかり、“悪魔”の猛攻を躱そうとしている。
乱戦が、硬直状態になるかと思われた、そのとき。
具現化した“呪詛”の、幾つもの顔が飛び出した。胴体らしき太い筒から突起が蛇のように伸び、“悪魔”に絡みつく。その様は、醜悪なイソギンチャクのよう。しかし“悪魔”はすぐさま収縮し、拘束を逃れ、幾本もの細く尖った末端部を“呪詛”の筒状の胴体に突き刺した。
「……くっ」
松見が形のいい右眉を歪ませる。針のような末端のうち幾らかは胴体を突いた。しかし幾本かは弾かれていた。胴体に浮かんだ不気味な顔が、歯を剥き出し、内まで届くことを拒んだのだ。
「いってーな、何すんだよ」「ふざけんなよてめぇ」「死ね」「死ね」「死ね」「死ね死ね」「死ね死ね死ね」「死ね死ね死ね死ね」
ぎちぎちぎち、刺さった針の先で歯ぎしりに似た音がする。と思ったら、それは本当に歯ぎしりだった。幾つもの顔が、歯を擦り合わせて、黒い針を引き千切ろうとしていた。
無数に伸び分かれた、異常に長い首が、朱が浮かんでいる黒い幕に取りついた。そのまま、前歯で挟んで食いつく。“悪魔”は躰を独楽のごとく回転させて振り払う。それは危機感ではなく憤慨を伴う動作だった。“悪魔”は「捕食」を命題とした存在だった。餌の分際で、逆に喰おうとするとは許しがたい。そう言うかのように、大口を開けて白い顔に齧りつく。首のうち何本かが削り取られると同時に、白い“呪詛”の胴体に取りついていた黒針が噛み切られた。
「……あっ」
いっそ恍惚としているような、低い声がした。松見の耳や、口や、爪の間から、赤く新鮮な雫が滴り落ちている。
“悪魔”は相当御冠のようだ。なかなか飯にありつけない上、飯が自身の躰を傷つけようとしているのだ。宿主の負傷など知ったことか、といった具合で、先ほどにも増して猛烈に攻め立て、突き崩そうとする。初めは引き寄せ、口に近づけようとしていたが、焦れったくなったのか、口のほうから近づこうとしている。触手のような先端と組み合い、絡み合っていた白い首が煉獄の赤に呑まれていく。しかしいかんせん大きさも数も並大抵ではないため、一息で喰らい尽くすことはできず、残った首がばしばしと“悪魔”を叩く。
“悪魔”はさらに一段階近づき、ついに胴体に齧りつこうとした。と、そのとき。
“呪詛”が、小型の竜巻のように高速回転した。言うまでもなく、先ほどの“悪魔”を真似した動作だった。それによって恵方巻を食べるがごとく筒の上部から齧りつこうとしていた“悪魔”は口を引っ込めざるを得なくなり、また同時に伸ばした首の数々が鞭のように“悪魔”を打った。
一瞬、“悪魔”の眼が釣り上がり、口が菱形に広がった。とうとう鶏冠に来たらしい。
“悪魔”は口をぐわぁ、と横に横に拡張。黒のなかの切れ込みじみた赤が、限界まで暴かれる。しかし、筒の幅より遥かに大きいとはいえ、このまま齧りつけば再び回転されて弾き飛ばされるに違いない。“悪魔”はさらに無数の管を生やし、それらを依り集めていく。長さを代償にして太さと威力を持った、人の手のような形に編み上げた。あれで殴りつけられたらさすがの“呪詛”も堪えそうである。
突然、“悪魔”が作ったばかりの手でもって、自らの縁を押さえた。
「……えっ」
その場にいる人間全員の声と心境が重複する。
“悪魔”はそれ自身と松見が結合している部分に手を掛け、そのまま松見の右半身を押しだした。青年は大きく傾ぎ、地面に膝をつく。いきなりのことに呆然としていたせいもあるだろうが……しかし、それ以上に。松見の顔は青ざめていた。こめかみから顎にかけて玉のような汗をかき、目や耳から細く赤い筋が延びている。そういえば、とカオルは思い出す。以前“悪魔”を見せてもらったとき、松見は「頃合いだ」と言っていた。“悪魔”を解放できる時間は限られているのかもしれない。時計が見たい、と思う。奏碧が結界を張ってから、松見が“悪魔”を解き放ってから、いったいどれくらい経ったのだろう。
“悪魔”はただ何となく松見を押したわけではなかった。宿主の身体が横倒しに近くなったことで、大きく開けた口が縦向きになったのである。いまや、ぱっくり開いた口は“呪詛”をすっぽり丸飲みできるほどの太さと、そして高さを獲得していた。
と、ここで“呪詛”が揺らいだ。より一層ぐねぐねとどこか卑猥な動きを繰り返し、無機質な顔が後から後から湧き出していく。それは……「あは」「あは」「あはは」「あははは」徐々に……「くひ」「くひ」「くひひ」「くひひひ」大きくなっていく「死ね」「死ね」「死ねよ」「死んじゃえ」。
「……既に『形』が決まっているというのに。自己改変、いや、成長か」
奏碧はぎ、と煙草を噛みしめる。灰が駐車場のアスファルトの上に落ちた。
「先生、駄目です! それだけは!」
二つの異形に向けて歩み寄ろうとした奏碧に、ふすらが縋りつく。
「奏碧さん、いったい何を」
尋常でないふすらの制止に、カオルは戸惑う。
「あれを消す。『形の剥奪』、しかも自らが形を与えたものを『無形』に戻すことは“有形師”最大の禁忌だが、いや、だからこそ、責任はとるよ」
「え……」
先ほどの光景がフラッシュバックする。宙に舞う黒髪、白い喉、鮮血の赤。あれよりも重い反動を、罰を、受けるつもりだというのか。
「そんな、だめです!」
カオルはふすらと一緒になって奏碧を押し留めた。
「しかし、このままでは松見が危ない。最悪“呑まれる”かもしれない」
カオルは松見を見た。地に膝をついたまま、浅い息をして、止めどなく汗をかき、けれども顔に苦痛の色はない。途方に暮れたように呆、としている。集中力が切れかけているのかもしれない。対する“呪詛”もまた、むくむくと内側から膨らみ、爆弾が投下された後の雲みたくなっているが。それ以上成長したら、大きさよりむしろ恐ろしい『何か』が起こるようで、なかに東京二十三区が入っているかのようにカオルの胸はざわついていた。
火照って汗で濡れた顔に、別の温度が滴った。目の前の光景はカオルが生まれてこのかた生きてきた世界で感じてきた――クラスメイトによる暴力だとか、彼らに対する正体不明の報復とでもいうべき怪異の連続だとか――ものとは別種の恐怖を叩きつけてきた。泣きだしてしまうのも無理はなかった。けれども、心境のままに取り乱したい、取り乱しそうだ、と思いつつ、彼はけして叫ぶことはなく。ただ静かに、泣いていた。
「怖いかい」
優しい声が降ってくる。カオルは頭を振った。
松見が傷ついているのは、カオルのせいだ。奏碧が傷ついたのは、カオルのせいだ。クラスメイトが傷つき怯えたのは、カオルのせいだ。その思いが、叫びだしたくなる状況下でありながら彼を止めていた。
「……申し訳ない、です」
それは心の氷を削って出したような言葉だった。
いままで抱えていた負の感情を吐きだした影響だろうか、カオルはいま、生まれ変わったのではないかと思うほど久しぶりに、自分ではなく他人のことを顧みていた。
「全部、僕のせいなのに、僕じゃない誰かが傷つくなんて……なんて莫迦だったんだろうって、どうしたらいいのかも、全然……」
「それは、少し違うな」
カオルの心の断片を、奏碧は霜でも払うかのごとく一蹴した。
「私がここにいるのは、松見瀧弥がいま戦っているのは、君のためでも、まして組織のためでもない」
“悪魔”は“呪詛”を丸呑みにしようと、上下に広がった口をさらに広げようとする。しかし、“呪詛”もまた、“悪魔”の口から逃れようとさらにさらに肥大していく。
「そうなったから、そして、そうでありたいから」
奏碧は短くなった煙草を携帯灰皿に落とす。懐から取り出した扇で、辺りの煙を払いのけた。
「生まれようと思って、人禰家に生まれたわけじゃない。けど、そう生まれたからには、そう生きてみたかった。それがいま、私がここにいる理由……そして。好きで“悪魔”と混ざったわけじゃない。けど、混ざってしまったからには仕方ない。仕方ない、で諦めなかったからこそ、松見瀧弥はいま、戦っているんだよ」
ぶる。
ぶるぶる。
ぶるぶるぶる。
怯えるように、堪えるように。
“呪詛”が、震えだした。
白い巨体が揺れるたびに、その表面に浮き出している幾つもの顔もまた揺れる。それらはいつのまにか、黙り込んでいた。無言、無音。しかしそのぶよぶよと揺れ動く様自体が、視覚的、感覚的な警報音。
とっさに放してしまった。竹製の扇でぱちんと叩かれ、それ自体は特に痛くはなかったものの、不意に刺激を与えられた手がぱっと広がる。その隙に細やかな女性のシルエットが、蝶のようにすり抜ける。そのときだった。
それは、もう。まごうことなき。もし審査員が見ていたら、それが種目として成り立つかどうかはともかく、満点を連呼しそうな。華麗で鮮やか、無駄のない。文句のつけようのない、どこに出しても申し分のない、飛び蹴りだった。
地面に対してほぼ平行。“呪詛”のほうもまさかそんな方向からやって来るとは思っておらず、完全に隙をついていた。ただ、当たり所がもっと高ければ、とは思う。
千織としては、蹴りの勢いによって“悪魔”の口に押し込みたかったのだろうが。“呪詛”はあまりに巨大化していて、蹴りが当たったのは真横よりかなり下、せいぜい地面から1、2mの位置だった。しかし、胴体部に力を集中させていたらしく、また上から齧りつかれることを警戒していた“呪詛”の下部分は、相対的に弱体化していたらしい。白く膨らみ続けていた醜悪な塊は成長を止め。まるで、足払いを掛けられたかのごとくバランスを崩し地面に向かって倒れ込んだ。とっさのことに向かいかけた奏碧もたたらを踏む。彼女の判断は正しかった。
千織の飛び蹴りが炸裂した瞬間、ついに松見の身体がふらりと揺れ、地に伏した。体力と精神力を使い果たし、意識を失ったのだろう。彼と一体化していた“悪魔”もまた、元あった位置よりも降下する。
“悪魔”はとっさに、倒れ来る“呪詛”の下に広がった。カーペットのように、或いは黒い水溜りみたいに倒れ来る巨体の影を喰って展開すると、瞬く間に一面に鋭利な棘を出現させる。まるで地面が巨大な剣山に変わったようだった。その上に、なすすべもなく“呪詛”が倒れ込む。
「叫」ではなかった。「吠」でもない。敢えて云うなら――「鳴」。
ほんとうに思考よりも感覚が先立つとき、そこにまともな意味を伴った「声」なんて存在しない。
思えば、オルゴールが耳障りである、という人はそう多くない。どれだけ甲高い音を出そうと、それが連続して、意味を伴った一つの「音楽」を作ると、人は安心し穏やかな心地になりもする。歯医者が敬遠されるのも似たような理由かもしれない。削られる痛みもあるだろうが、あのドリルの無機質な回転「音」が心を擦るのではないだろうか。
とにかく、本能的な恐怖、苦痛が襲いかかるとき、「声」の余地はない。あるのはただ「音」だ。
一人。二人。十人。百人。それらすべての口から、喉から搾り出てきたのは、キャーなどという叫びではなく。
それこそ三半規管を抉るドリルの如き、キュイイイイイイイイイイイィィィィィィィィィという音だった。
“呪詛”の胴から、顔から、口から、目から、あらゆる場所から黒い槍が突き出ていた。下敷きになった“悪魔”に、刺し貫かれていた。
じたばたと暴れ、槍を外そうと頑張って、自身の目玉から口から飛び出ているそれを確認し、ようやく“呪詛”は「声」を上げた。
「あ、あ、あ、」「いやああああああぁぁぁぁぁ」「なにこれぇ」「いたいいたいいたいいぃ」「やあ、ああ、なんで私が、僕が、俺が、こんな目にぃ」「死ね」「死ね」「殺してやる」「殺して……え」「え、やだ」「ちょっと」「やめてよ」「あ、いや、や」
ようやく捕まえた白の下……黒が這い上ってくる。
身体を広く薄くし、地面に押しつけられているせいか、先ほどまでの豪快な様はなく。少しずつ、少しずつ“呪詛”を噛み切り咀嚼していく。全身を余すことなく刺し貫かれ、大打撃を受けると同時に完全に縫いつけられてしまった“呪詛”に、逃れるすべはない。“悪魔”もそれを判っているのだろう。一口一口ゆっくりと味わいながら、敢えて小さく噛み取っていき、愛でるように、慈しむかのごとく、消化していく。
「松見!」
千織が倒れ伏している青年に駆け寄った。我に返ったカオルもそちらの方へ向かう。
二人で抱え起こすと、松見は「う……」と小さく唸った。千織が名前を呼びながら、肩を叩く。ふすらもやって来て、縁にレースのついた水色のハンカチで彼の顔の血や汗を拭った。
“悪魔”が“呪詛”を喰らい尽くすのは時間の問題だった。もう終わったものだと、油断していた。
再び、“呪詛”が「音」を上げた。それは断末魔の咆哮というよりも、決死の覚悟で捕食者に立ち向かおうと、或いは逃れようとする最後の気合のようだった。扇を広げた奏碧が、とっさに四人との間に割って入る。
白い管が飛び出した。“呪詛”の胴体の半程から一本の首が伸び、瞬く間に巻きついて、絞めた。……“呪詛”自身を。
その様に、意識のあるもの全員の目が丸くなる。「え」という拍子抜けした声を上げた者もいた。皆、“呪詛”の真意を、図りかねていた。そうしている間に、首は胴体の上部付近をぎちぎちと容赦無く締め上げる。圧迫された顔が歪み、鬼の形相を浮かべている。首はさらにきつくきつく締め上げ、円を窄めていく。
やはり、粘土のようだった。括れに括れた箇所の上が、ついに千切れ飛んだ。“悪魔”が巻きついた首に齧りつく紙一重の差で、分かたれた“呪詛”はその場を離脱した。
誰のか判らない舌打ち。悪態。
初めからこれが狙いだったのだ。己が一部を捩じ切ることで、最後の一片まで喰らい尽くされるのを回避したのだ。
飛んでいった、幾分小さくなった“呪詛”は、一度駐車場のアスファルトに落下した。しゅるしゅると二本の首が飛び出て、踏ん張りをつける。そのまま地を蹴って、跳んだ。弧を描いて駐車場の外に出、着地と跳躍を繰り返して、北西へと逃げていく。
不思議なことが起こった。一瞬追いかけ、しかし留まった……“悪魔”と、奏碧が。異形と人間が、まったく同じ素振りをしてみせた。
「奏碧さん……」
“呪詛”が消えたほうを見つめる奏碧と、依然うなされている松見を交互に見ながら、カオルは途方に暮れていた。
“悪魔”はしばらく悔しそうに北を眺め、そして振り返った。暗い闇のなか、燃える篝火に捕らえられ、突然だったこともありカオルは竦み上がってあー、だのひゃあ、だのみっともない声を上げた。
ヘリウムガスが抜けていく風船のように、“悪魔”は急速に萎んでいった。ぺらぺらの海苔みたくなり、ゆらりゆらり揺れながら収束し、人の形を作っていく。黒い左半身が徐々に白くなり、赤みが差し、人の肌らしさを取り戻していった。
「松見、松見」
「先輩、しっかりしてください」
白梅香、或いは藤のような、要するに花の、それも和風な香りが辺りに降りしきる。奏碧が松見の傍らにしゃがみ込み、つい先ほどまで“悪魔”と化していた左腕を取る。脈を採り、汗で湿った髪を払って額に手を当て、熱を測る。そしてそのまま、
「お疲れ様」
疲れきった青年の、頬を撫でやった。
「……って」
「……さすがに消耗しているな。唯一の救いは“悪魔”もまた消耗していて、松見を侵略する余地のないことだ。いまは休眠に入っている。……松見のほうも、しばらくは休ませてやろう」
「先輩、大丈夫でしょうか」
「疲れているだけだ、いずれ目を覚ます」
「よかった~、ねえ、千織ちゃん」
「うん……」
「あの」
「ん? どうしたね、カオルくん」
「いや、なんでこんな落ち着いてるんですか! 逃げられちゃったんですよ、これからどうしたら」
「何だ、そんなことかね。それほど気にしなくてもいいだろう。今回の目的はきみの“呪い”を祓うこと。私があれを引き離したことで、それはもう達成されていたんだよ。あれと“悪魔”が戦ったのは、成り行きに近いな。もちろん、予想はしていたが」
「いや、そうじゃなくて。あれ、いま、野放しじゃないですか! もし人が襲われたりしたら……」
「ああ、なるほど」
奏碧は小首を傾げてみせた。年齢にそぐわないあどけない仕草だが、なかなか可愛らしい。
「……問題ないよ。遅かれ早かれ、果てる」
◆ ◆ ◆
“呪詛”は逃げていた。ソレが逃走を意図しているのかは判らない。その表面に貼りついた幾つもの顔はそれぞれ好き勝手なことを喚き、飛び出た幾つもの首は闇雲に伸び、お互いに絡み合ってしまっている。それでも、ソレがとにかく先ほどいた場所から遠く、より遠くへ向かっていることは確かだった。あの黒い管から、鋭利な槍から、末端から齧り取られていく恐怖から、一刻も早く離れたがっていた。
逃げた後、何をするのかは判らない。ソレは是非もなく本体から切り離され、形を与えられ、この世に現れた。何のためにそうされたかなど、知る由もない。何をすべきなのか、何がしたいのか、判らない。……しかし、溢れるような、「衝動」は、ソレのなかに初めから在った。
すなわち、「周囲にあるものすべてを呪え」という、ある人間の願いが。
そして、それが願いである以上、“思い”の塊である“呪詛”は、為さなくてはならない。それこそが、あらゆる思いに込められた力、その使い途なのだから。
ソレは思いの塊だった。何としてでも願いを叶える、という、その目的のために生じ、消費されるためのものだった。言い換えれば、それだけでしかなかった。
“悪魔”から逃れようとするあまり、より近く、より強いものへの警戒をする機能など、あるはずもなかった。
薄衣を捲るように。深く深く、奥の奥なる場所が打ち震える。……何かが迫ってくるのだ。
微睡むように緩く、揺蕩っていた『それ』が、ふるふると小刻みに割れる。水琴鈴のように柔く包まれた音が、『それ』を込めている殻を、また『それ』自身を揺らし鳴いた。
……不浄が、近づいてくる。
警告、勘、そういったものすべてに勝る報せ、『真実』がそう告げていた。……故に。
ある『絶対』が、目を覚ました。身を起こした。
万物は他者と比較されることで成り立つ。あれよりも高い、低い、毛深い、硬い、脆い、小さい、明るい、弱い。言い換えれば、世界は『相対』によって存在している。あらゆる人間は、そしてあらゆる異形は、その甚大な階級のどこかに組み込まれることで自己を確立する。だからこそ、上には上がいる。下には下がいる。どれだけ強大に見えるものでも、それより上に在るもの、或いは相性の悪いものに当たれば砕け散る。……そして。
あらゆる『相対』は、『絶対』の前では塵に等しい。
『絶対』は絶対の強さ、ではない。上の上、頂上に位置するものではない。それはただ作用する、だけだ。
ありとあらゆる『相対』とは異なり、条件を持たない、他者の影響を受けつけない、純然で単純な、つまりは機構。
ここに在る『絶対』に限って云うなら、それは『清浄』だった。不浄、不潔、不純……それを「許さない」だけのシステム。プログラム。あらゆる例外を受けつけない“仕組み”。
環状線の一定区域にそのようなものが敷かれているなど、東京に住むほとんどの人間は知らない。
『それ』はいま、不浄を感知した。だから対処した。
感想もなく、大義もなく。あたりまえのように、機能した。
焔。火柱。否、それは光。純然たる煌きの渦。
二筋の光が撚り合わさり、遺伝子の如き二重螺旋となって噴き上がる。刹那のうちに上空に達し、千の、万の、億の、兆の、京の、該の、秭の粒が一丸となって、燃やす。溶かす。蕩かす。蒸発させる。灰燼に帰させる。
あべこべに地から伸びるヤコブの梯子のように天を割る光の柱。審判というのは大げさか。芥を掃除するように、あっさりと。完膚なき……文字通り、その存在をなかったことにするように一欠片まで、容赦なく、“呪詛”を消し去った。
◆ ◆ ◆
突如。彼方で、白い火柱が噴き上がった。
ちょうど“呪詛”が逃げていった先。場所は、おそらく田町辺りだろうか。
存在感、というには生ぬるいほどのプレッシャー。圧巻、圧倒的。絶対的といっても過言ではない。現れると同時に周辺一帯を支配し、そこに在るということを知らしめた、何か。大いなるものに内から暴かれるような緊張と外から撫ぜられるような感動が混ざり合って畏怖に替わる。
畏れはあったが怖れはなかった。それは人間に対しては飽くまで慈悲深く、寛大で、神々しくあった。
直感的に判った。それは在るのだ。見える、見えない、触れる、触れない、ではなく。太古の昔から永劫の果てまで一貫して、在り続けるもの。世界そのものの一片。それが何なのかまでは判らなかった。計り知れない。知ったことか、と思う。カオルなんぞにかかわらず、それは在るのだ。
「あ、ああ、ああああああああああああ」
先ほど二体の異形が暴れ狂っていた様を目撃していたときよりも衝撃は大きかった。しかし反応は陳腐だ。どれだけ言葉を尽くしても、全身で表そうとしても、それと出会った感動の末端さえ捉えることは不可能だ。
火柱のように見える塊は空に浮かんだちっぽけな、それと比べれば取るに足らない、本当に卑小な何かをわざわざ呑み込むと、痩せ細り、粗くなり、薄くなり、闇に溶けて消え去った。
出現していた時間は、そう長くはなかった。せいぜい十秒ほど。しかし、カオルには一時間にも感じられた。
「……ううっ」
低い呻き声がして振り返ると、松見が目を覚ましていた。
「大丈夫かい」
「ああ……」
青年は上体を起こし、右手で頭を支えるとしばらく首を振り、思い出したように周囲を見渡した。
「奴は」
「問題ない。あと少しのところで逃げたが、消えて無くなったよ。お膝元に侵入したらしい」
「そうか……」
松見は息を吐き、駐車場に大の字に倒れこんだ。
「お膝元……」
呟いたカオルに、奏碧が説明する。
「“事務所”に属する者にとって、首都圏における七つの“規格外の怪異”、通称“七不思議”。あれはその最大のもの、“環状線の悪魔”だ。山手線の原宿、渋谷……浜松町、新橋沿いの区間は、不浄なもの、邪悪なもの、歪なものの立ち入ることができない絶対領域なんだよ。それでも侵入したものは例外なく消去される。悪魔、と呼ばれてはいるが、あれは松見に憑いている“悪魔”より遙かに強大で高位な存在だ。“事務所”上層部でさえ制御することはできない、世界の法則の断片。『絶対』の機構。そういったものを、人は神と呼ぶ」
「……神様!?」
「ああ」
奏碧は先ほどまで白い柱が上がっていた方角を見遣った。
「しかも、人間の信仰や理想、“祈り”によって生じた存在ではない。初めからこの世界に備わっている仕組み、『実在の神』だ。まあ、あれに限って言えば『清浄』を旨とするものだし、余程のことがない限り人間は滅したりしない。“悪魔憑き”には注意が必要だがね」
そう言って、奏碧は松見を見やった。地べたに寝っ転がった青年は、傍らの女性を見上げて、呟く。
「……あとは任せた」
「判っている。……おいで、カオルくん」
手招きされ、カオルは言われるままに松見達から離れ、奏碧と向かい合った。
「あの、なんでしょうか。もう僕のなかの呪いはなくなったんですよね」
「ああ。きみのなかにあった負の感情は一掃したよ」
ならばなぜ、と落ち着きなく周囲を見回す。
「きみも、薄々判っているんじゃないかね。このまま戻っても、日常が好転するわけじゃないと」
カオルは言葉に詰まった。
確かに、もうカオルの周りで怪我や事故は起こらないだろう。しかし、カオルがいじめられていることも、不気味がられている状況も、何も変わってはいないのだ。たとえカオルが「もう何も起こらないよ」と言ったとしても、周囲が近寄ってくるとは考えづらい。それどころかより集団のなかでの孤立を深めることだろう。いままでなら、それを何か他のもののせいにもできた。しかし、カオルは知ってしまった。自分もまた呪われた「被害者」ではなく。呪っていたのは自分自身だったと。
「……僕は、どうすればいいんですか」
「私に聞かれても、答えようがないよ。きみは、どうしたいんだい」
夜風がさやさやと、二人の間を通り過ぎた。
「クラスメイトに怯えられていたい? クラスメイトにいじめられたままでいい? それとも、許し合って、判り合って、仲良くしたいかい?」
「……」
風が、黒髪をはためかせる。
「……私の場合、生まれたときから“有形師”になることは決まっていたし、進路はどうあれ自分でも気に入っているから、そんなに酷くはなかったが。それでも、人と違うことは私を孤立させた。私が異端だったからじゃない。自分は異端だ、と思っていた私の卑屈さが、周囲にも伝わっていたんだ」
奏碧の声は低くまろく、そして暖かかった。
「松見の場合、“悪魔”が憑いたのは望まないことだったけれど。松見自身にも、どうしようもないことだった。けど、あいつはそれで終わるような奴じゃなかったよ。周囲も自分も、傷つかないように距離をとりはした。が、ずっといじけて、大人しく“悪魔”に喰われようとは思わなかった。何とかしようとして、調べて、相談して、いまだって努力してる。自分からは、自分にくっついている“悪魔”からは、目を逸らしても逃げられるものじゃなかったから」
「……何が言いたいんですか」
「つまりはね、いつ危機に直面するかなんて予め判るものではないし、誰かに代わってもらえるものでもない。過ぎ去るのをただ待つだけでは、そのときにはやり過ごせたとしても、何も良くない。次もまたやり過ごせるとは限らない。そのことから目を逸らし続ける限り、何回倒してもまた、きみは呪いを生み続ける」
奏碧の、足下が、水で満ちているようだった。まるで湖の上に立っているかのように、彼女を中心として、硬いアスファルトの上に、波紋が生じる。
「きみは、ふすらくんを強いといったけど、そうではないよ。強い強くないではなく、強くなろうとしたか、その姿勢が大事なんだ。強い弱いは素養ではなく結果だ」
波紋の縁が、カオルの爪先に触れた。そのまま広がって、薄く遠く、離れていく。
「……嫌なことがあったからって、他人を排除することばかり考えていても救いなんてないんだ。確かにクラスメイトを排除すれば、きみを迫害する者はいなくなったかもしれない。だがね、それではきりがない。もしこの先嫌なことがあるたびに相手を消していけば、きみの世界は狭く閉じていくばかりだ。だからといって、逃げても……自分を排除しても、何も解決しない。どこかで割りきって、自分にとって世界はこういうもので、自分の理想はこうで、そのためにこうしなくてはならないって、少なくとも一つは頑張らなくては。周囲を変えたければ、自分を変えるしかない。……私はきみではないから、それを決めることも、教えることもできない。けど、手伝うことはできる。きみの進路に、形を与えよう。言葉にしなさい。きみにとっての、願いは何か」
「僕は……」
波紋に撫ぜられた箇所から、解けていくように。カオルの身体が軽くなっていった。
「 、 」
優しく、ぽん、ぽん、と。言葉を置いていくように、口に出した。
奏碧は横ではなく、縦にした扇を振るった。まるで目前の幕を分け開くように、闇を払うように。その途端、今度はカオルを中心として波紋が開いた。その波紋は曖昧な色をしていて、形も円ではなく歪で、ふるふると頼りなく震えていたが。それでも、その光景は彼の内に刻み込められた。
「目で見えなくても。触れなくても。それは確かに、形に成ったよ」
カオルは何回目かの感謝を繰り返した。
今回の依頼内容は、「カオルの周囲で起こる怪異を解決してほしい」というものだった。怪異の正体は神の手によって消え去り、また怪異を生み出していた根源も片づき。ようやく、奏碧は安堵の息を吐き、新しい煙草を咥えた。
ライターの火が暗い駐車場を照らし、一拍置いて、白い煙がたなびきだす。
立ち上がり、伸びをした松見が、千織とふすらを伴って二人の元へやって来た。
「人禰、お疲れ」
「きみもね」
満足げに煙を吐きだす奏碧を見て、松見は思い出したように呟いた。
「江東区って、路上喫煙禁止じゃなかったか……」
「そ、そうだったか。いや、はは……」
奏碧は目を逸した。……まあ、喫煙以前に、駐車場で、違法侵入で、もういろいろやらかしてはいたのだが。
狼狽える様が可笑しくて。カオルは声を出して笑った。するとふすらもふふふ、と笑い出し、つられて千織も笑い声を挙げ、気恥かしくなった奏碧と、松見にも伝染した。少年はとても久しぶりに、誰かと一緒に、心の底から笑い合った。
Rotate C・S 2
ニュース速報 JR品川駅~田町駅間に光の柱が出現
集団幻覚か
※画像はイメージです
「あちゃ~」
千織は端末の画面を見て頭を抱えた。あれだけ派手に出現すれば、さすがに多くの人に目撃されると覚悟してはいたが。思ったよりも早く、大々的に話題になってしまっている。つくづく、情報社会はすごい。とても便利で、……すごく住み難い。
環状線に根を張る存在に限らず、『実在の神』の御業は多くの場合、人間の暮らす世界に影響を及ぼさない。神々は、此処とは異なる層にいるのだから。卵の殻にいくら落描きをしたとしても、黄身や白身、カラザに変化が現れないのと同じだ。
故に、今回の騒動は人々の目に認識されはしても、画像映像には一切映らないし、その他の証拠も何も残らない。人々の生活に影響を及ぼすこともない。もしかしたら顕現している間、それがとても高位の存在だと感じ取った人がいて、その人の信教に多少変化を与えるかもしれないが、多くの人にはあの光の柱の正体も出現の因果関係も理解できないに違いない。数日間は憶測が飛び交うだろうが、すぐ飽きるだろう。当事者としては、そう願いたい。
何回目かの溜息をつき、端末を仕舞う。すると、前を行く青年の姿はずいぶん小さくなってしまっていた。
「待てよ、松見」
言いながら追いかける。松見の足取りはしっかりしているようで、その実頼りない。まだ先ほどの戦闘での消耗が回復していないのは明白だった。
心配と戸惑いを胸に、千織は慣れ親しんだ背中を追う。付き合いが短いわけではないのに、彼の意図が判然としない。
今日のカオルの宿を手配し、有明で奏碧達と別れ。そのままどこかで休むのかと思いきや、電車を乗り継ぎわざわざこんな遠くまでやってきた、その意図が。
「松見」
ようやく追いつき、名前を呼ぶ。立ち止まるどころか、返事さえなかった。
「松見」
再び呼びかける。しかしまたも、松見は何の反応も示さず歩き続けるばかりだった。聞こえていないことはないだろう。敢えて無視しているとも思えない。千織は回り込んで、彼の前に立ちはだかった。
「松見ったら」
さすがに立ち止まった彼の顔を一瞬、見て。そしてそのまま、その一瞬が凍結した。
夜の暗さと灯の明るさの間で浮かび上がる端麗な顔は蒼い。擦り傷の周りにこびりついた乾いた血のような色の瞳は光を失くし、伏せられている。疲れて余裕を失くしているようにも、何も考えていないようにも見て取れた。邪険にするようでもある。無垢な子供が、怯えるようでもある。……それはまるで、誰だろう、と言いたげな。
千織は、膝から崩れ落ちそうになった。松見が、知らない人にでもなってしまったように思えた。ついに、意識を“悪魔”に乗っ取られてしまったのかと、恐ろしくなった。
「ふぁ」
突然、凍結していた時間が動き出した。松見の頬がゆるゆると動き、一つ、小さな欠伸が漏れた。
「ん、なんだ、スエキチ」
「……関千織だよ」
いつもの対応をする。緊張が解け、思わず笑みが零れる。安堵していた。ここにいるのは、いつもの松見だ。彼女の悪友であり、相棒である松見だ。
一人でにやけている千織に不審そうな一瞥を投げ、松見は再び歩き出した。依然行先を告げられてはいないが、千織もついていく。歩きながら、ふと思い出して声をかける。
「でもさでもさっ、やっぱり今回、意地を張らずに助けを呼ぶべきだったよ」
「は」
「だってそうだろ? 初めからあの人呼んどけば、もっといろいろ手っ取り早かっただろうし、神を起こすことも、神にエネルギーを奪われることもなかったし。それに……」
「ん」
「……人禰さんが怪我することもなかったし、な」
言いながらちらりと、青年の指先を盗み見る。そこには、先ほど立ち寄った薬局で買ったばかりの包帯が巻かれていた。今日の戦闘で傷ついたのは奏碧に限った話ではない。しかし、それを言うと松見はますます強がるに決まっているのだ。
普通に平和に過ごしている大勢の人々には想像もつかないような奇怪で波乱に富んだ人生、もう一つの世界の在り方、それが千織の首にいまも巻きついている。しかし、そんな彼女ですら、万能である実行部東京担当エースは遠く感じる。歩んできた人生の重みも肩書も、すべてが。
しかし松見にとって、彼は友人の一人にすぎない。松見の事情を理解し、また松見も彼の境遇を受け止めている。だから松見は、たとえどれだけできることに差があるとしても、彼とは対等でいたいのだと、千織は知っていた。
「ああ……」
が、
「そうだな、人禰に何かあったら一大事だもんな。ただでさえ少ない美人の知り合いだし。大したことなくてほんと良かったよ。スエキチみたいに四六四十喧嘩してる奴ならともかく」
「なっ……」
松見が千織に対して遠慮がないのはいつものことだ。そして、それに千織が腹を立てるのも、いつものことだった。
「ふんっ、あの人がいれば、松見だって無理せずに済んだだろ」
結局、言ってしまった。案の定、松見の眉が、僅かに跳ね上がる。
「……スエキチ」
「そもそもあの人がいたら、松見やることなくなってて、見てるだけだったかもな」
「それは違う」
その言葉を引き出した千織は、満足そうに松見の顔を見る。しかし、予想に反し、拗ねている様子ではない。本当に、千織の言ったことは事実に反している、と、それだけ指摘しているようである。
「前にも言っただろ、あいつにも弱点はあるって」
「ああ、言ったな」
話の主導権を失い、ただ相槌を打つ。てっきりあのときも、意地を張ってああ言ったものだとばかり思っていた。
松見は歩を止めた。その肩口からすっと、黒い蔓のようなものが飛び出す。“悪魔”は人々の間を縫って急速に前方へと伸びていく。あまりに唐突で大胆な行為に、千織は呟いた。
「……おいおい、なにやってんだよ」
Excepted Dokokade・Darekaga 2
隣にいる友人と、家族と、恋人と話し合う人々。或いは端末を通して遠くにいる誰かと話し合う。皆、先ほど品川駅と田町駅の間辺りに上がった光の柱についての確たる情報を欲して、不安と興奮に支配されていた。
熱に浮かされたようになっている人々の隙を、小さな影が通りすぎる。密集した人々の、その誰にもぶつからない絶妙の間隔と瞬間を縫って進んでいく。が、通り抜けた後、白いものが散って人々の袖や肩を汚してしまった。白い何かは服の生地の上で小刻みに振動した後、人の動きに合わせてあっさりと、屑のように落ちていった。
からん、からんと音がする。小さな影の足下で。小さな足に履かれたぽっくりが、歩くたび地面と触れ合って音を立てる。話すのに忙しい人々の間で、それは響かない。けれども、聞こえる。それでも、聞こえる。
ふわりと紅と金が揺れた。稚い体躯に被さるような着物の、長い袖が、歩くたびひらひらと舞い踊る。それは人々の、誰にも触れない。誰からも触れられない。
ふあさ、と軽く縁が持ち上がる。雨もないのに差された唐傘は、人々の間にあっては邪魔でしかない。しかし何故か気にする者はなく。ぶつかる事もなし。
白が散って路に落ちた。頭の左右の高い位置で結い上げ、さらに巻き込んだ髪、幼児向けの愛らしい髪型の隙間から、箸で啄いた豆腐のようにぼろり、と何かが吐き出される。
(((((総裁)))))
声が花開く。漣のようにざわざわとしたエコーがかった、複数人が輪唱するようなそれは、雑踏のなか注意しないと聞きとれない。
(((((総裁)))))
「聴こえて、いますよ」
小さな人影――ぽっくりを履き、紅地に金糸で橋の刺繍の入った着物を纏い、みずみずしい肌とつややかな髪を持ち、傘に加え、俯きがちなので風貌は窺えないが、せいぜい十一、二歳といった背丈の、おそらく少女が呟いた。
(((((ご存知とは思いますが)))))
(((((東京担当の者が、『清浄』を起こしました)))))
「えヽ、判っております。巷は、大騒ぎです」
傘を回し、人影は眼前の人々を見遣った。光の柱はカメラに映らず、出現していたのは十秒にも満たなかったというのに、興奮冷めやらない様子だ。
「……それで、誰です。特に、咎めませんが」
(((((松見・関組と、人禰・海麟堂組です。後に、改めて報告が上がるはず)))))
「……松見、とは」
(((((侵犯したのは、“悪魔”ではありません)))))
「そうですか、宜しい」
見た目に違わず稚い、愛らしく張りのある声が、その口元から漏れでた。
(((((それで、総裁のほうはいかがでしたか)))))
人影に話しかける者はない。されど、人影が独り言を言っているふうでもない。電話ではなく、遠くから呼びかけているわけでもない。飽くまで対話の体を崩さず、どこからか、届いてくる。
「えヽ、此方もすべて手筈通り。先ほど、確かめてきましたが。あの男はよく、やってくれました」
着物の袖と裾を靡かせ、人影は歩む。人々の話している、見ている話題には関せず、といった具合だ。
「此方から仕事を振ることで、他の“七不思議”から目を逸らさせ。それにより、大きな収入源を守ることができ。人の想念を喰らう存在を見せつけることで、我ら“事務所”の目的を履き違えさせ。“脳畑”を穏便に、閉鎖できました。一石三鳥、今回は巧くいって。良かっ、た」
(((((さすがは、総裁)))))
満足げに、傘が揺れた。
「彼にはまだ、気づいてもらっては困るのです。彼だけに、限った話ではありませんが」
(((((飛ばしてやったらどうです。相馬イズミのように)))))
「それも、考えました。しかしこれ以上、東京を手薄にするわけにもいきません」
(((((ところで)))))
「あヽ、そろそろ期が熟しますか。もうそんな時期とは私も、歳を取るわけです」
傘からはみ出た口元が、あどけない笑みを形作る。
「そう云えば、まさに彼が備えていますよ。……結局、“脳畑”に悪戯した者の足取りは掴めませんでしたが。結果、彼に東京の現状に気づかせ。其方へ目が、行っている様子」
(((((はい。ですから既に、九三には指令を)))))
「ま、あ」
人影は、わざわざ区切って感嘆した。故意なのか、それとも癖なのか。おっとりとした、それでいて拍の狂っているような話し方を、飽くまで貫いている。
「良いこと、です。いまはまだ、彼らは彼らなりに動くべきときでしょう。いずれ纏まる、そのときまで。……え、え」
一律に歩みを進めていた人影が、つと仰いだ。髪の間から一際白いものが飛び散る。
「ひとりぼっちを失くすために、我らはあるのですから」
からりからりとぽっくり鳴らし。傘を揺らし、袖を振り。話しながら歩き、見ながら進み、聞きながらぶつかる人々を、人影は通りすぎる。端末を繰る腕を透かし、胴を擦り抜け、何事もないかのように歩み続ける。
擦り抜けられたほうも、気づかなかったとでもいうかのように傍らの友人と会話を続けていた。しかしその胸元には確かに、白い汚れがこびり付いていた。
Rotate T・N
そこで、春秋冬朋尋は眼鏡を外した。思わず眼を瞑ってしまう。通行人がこの、道端で立ち止まったまま眼鏡を手に持って顔を顰めた若者を不審げに見ながら通りすぎているが、当然彼には見えていない。
恐る恐る、開く。眼鏡を掛けている間には入ってこなかった多くの情報が、視神経を通して脳を苦しめる。軽く頭を抑え、ついでに、口元から鼻にかけて、顔の約半分を覆っているマスクも外してしまう。他の季節ならともかくこの時期だと、通気性の悪いマスクは蒸れて仕方がないのだ。
何度か瞬きを繰り返す。爽やかな風が裸の頬を撫でて気持ちが好い。汗で濡れた黒髪がさらり、と揺れた。
十代と二十代の間、少年というよりは青年よりだろうか。男性にしてはやや薄い体躯に、夏らしい薄手の上下を纏っている。服に関しては特に突出するような点はなく、まだ若いというのにお洒落には無頓着のようだ。顔立ちは悪くはないが、どちらかというと地味で、さらに最低限の手入れしかされていない。本当に、ありふれた格好の、どこにでもいるような人だった。とても魔法使いには見えない。
瞬きを繰り返し、見たいものに焦点を合わせていく。朋尋の眼には、普通の人には見えないものが総て視えている。概念、思想、寿命……何もかもが。
【やっぱり】
その瞬間、世界が反応した。彼の周囲にある物体と非物体の総てが身構えたのが、眼を通して伝わってくる。マスクを外していたのを思い出し、慌てて装着する。
「んんっ」
マスク越しに出た声が、意味のない音になっているのを確認し、独り言にさえ注意しなくてはならない我が身に、溜息をつく。彼の魔法は、声で発動する。効果の切り替えができない上に、眼と組み合わせることで危険な事態を招きかねない。だから彼は普段、マスクと特殊な眼鏡を掛けることで自らの能力を封じている。
夜も深まった頃だというのに、道に人が絶える様子はない。つくづく、東京の人は眠るのが遅いな、などと考える。黙々と道を往く人。連れ立って喋くりながら笑い合う女性達。危険な歩きスマホを敢行する若者。それらと、車の灯、建物の光、電車の燈などを、ぼんやりと眺める。人と、人の営みは、一人ではないと……この世界の一員なのだと、安心させてくれる。
先天的な魔眼。それを緩和するため選んだ魔法の道。喋るだけで周りを傷つけかねない力。すべて仕方のないことだった。けれども、それらは彼と周囲との間に壁を作り、隔絶した。……世界が彼を拒み続けたのか。彼が自ら遠ざかったのか。おそらく両方だろう。元から社交的なほうではなかったのと、独りでいた期間が長すぎて、いまでも、人付き合いは難しく、煩わしいとさえ感じてしまう。
独りは苦痛にならない。けれど、孤独が好きなわけではない。……ひとりは、寂しい。
人と交われない彼にとって、人々や景色を遠くから眺めるのが楽しみだった。憧憬や興味から始めた行為ではあるが、いつしか「見守る」こと自体が目的になり。誰にも拒絶されず、拒絶せず。一人でいられて、独りでなくいられる場所から、特に意図を持たずただ穏やかに、ずっと人の営みを観測し続ける。いまでも遠くから眺めることが好きで、ときどきわざわざ高いところに上ったり、駅のホームに出たりしてまで観ようとするのだ。……そういうときの彼は気まぐれすぎる上にだいたい端末の電源を切っているので、“事務所”の窓口担当は捜索に苦労するのだが。
もう、寂しいとは思わない。少ないけど友達もいるし。
だからこそ……朋尋は、人々の間に視えるものを睨みつけた。それは、彼の眼には黒のような灰色のような、或いは白や薄青、たまに緋やドドメ色の、重たくどろりとした澱のように映る。他の人には見えていないが、朋尋の眼には、それが上に沈んでいく様子も、はっきり視えている。
一瞬、マスクが内側に窄み、それから広がった。思ったよりもずっと、限界が近づいている。朋尋には、どこまでできるか判らない。が、それでも、できることがあるのであれば少しでも足掻いてみたい。東京という街のために。そこに住む友人や、知人や、顔も知らない無力な大勢のために。眼、魔法、言葉。どうしようもならないことだった、けれど、この力が朋尋に備わったのには、何か意味があるはずだから。そうであると、信じたいから。
移動するべく、彼は眼鏡を掛け直した。平均的な人間の視野僅か120度程度に、世界中の情報を詰め込んだのではと錯覚するほど複雑だった視界から色と線と形と……言葉では表現できないあらゆるものさえ消え失せる。目の前は依然多くの人々が行き交うが、相対的に乏しくなった視界を確かめ、
そこで、朋尋は動きを止めた。否、止めさせられていた。
脚は動く、肘も。だが、目元に遣った両手ごと、顔の下半分が何かによって拘束されている。マスク越しに頬を動かせるだけ動かす。口周りを中心に顎から首にかけて、革帯のように長く幅のあるものが巻きついているらしい。走りだそうと試みるが、革帯らしきものは後方から伸びて、或いは引かれているらしく、体勢を変えることはできても移動は無理のようだ。必死に目を動かすが、首を捻ることは叶わず、おそらく背後から彼を縛っているものの正体を見ることができない。それに……。
「眼で視ることができない攻撃……つまり、背後や真下などの死角からいきなり口を塞がれればなすすべがない。そうでなくても、認識よりも速く動くものや視野に収まらないほど大きなものには通用しない。つまり今回の“呪詛”は完全にアウト。ただでさえ、憎悪や嫉妬といった負の感情を視るのは眼に負担が掛かる……だったよな」
背後から、悠然とした声が近づいてくる。
そう、たとえ見ることができても、視られなければ意味がない。そして、声を出すことを封じられてしまえば、もはや彼に打つ手はない。現代にいる魔法使いの多くは、魔法を過信する傾向にあり、その威力や修得数に反比例して身体能力が低い。理由は異なるが、朋尋もまた身体を鍛えてはいない。いまの彼はただの、どころか平均以下の筋力しか持たない青年にすぎない。
しかし、朋尋は緊張こそすれ、恐怖してはいなかった。朋尋の弱点を、しかも眼の特性についてさえ的確に知っている人物は、彼自身が打ち明けた数人に限られている。そして、彼を拘束しているものの正体……こんなものを扱う人物の心当たりは、一人しかいない。
どうして、数少ない友人の一人であるあの男が彼にこんな仕打ちをするのか……それはこれから判明するだろう。
「二ヶ月ぶり、元気にしてたか、トモヒロ」
ドライアイスよりもひやりとした、それでいて低く耳に心地好い声が、朋尋の背中を叩き。次いで、肩に重みが載る。首に逞しい腕が回されていた。
後ろから、聞き覚えのある少女の声がした。……おいおい、なにやってんだよ、と。
少女が先ほども同じ言葉を呟いたこと、けれどもそのときとは込められた意味が異なることを、朋尋は知らない。
〈了〉