無為な彼岸花
少女の足を止めたのは、鮮烈な赤だった。
目に飛び込んで来たものに、無音の声を上げごくりと唾を飲み込む。
道の曲がり角、機嫌良く走っていた少女の目の前に現れたそれ。九月の末、彼岸の時期に相応しい名を持つ彼岸花。そこかしこに真っ直ぐな茎を伸ばし、火のような花で道を彩っていた。
別名《幽霊花》とも呼ばれることを少女は知らなかったが、その目に入った一輪の異様さを感じることは容易い。
なんせ目の前に俯せに倒れている赤い彼岸花には、身体があったのだから。
紺の和服を着る花は、色の対比も相まってそこら辺に咲いている花よりも一層赤く見える。
大人の身体に大輪の彼岸花を頭に生やした男は、少女の存在に気付き頭をもたげた。
「走らないの!」
少女が口を開きかけた瞬間、後ろからかかったのは母親の声。しかし、少女は一度振り返っただけでまた花に目を向ける。
「お墓でこけたら足を掴まれて引き込まれるんだから」
耳に入る言葉は、いつもならば冗談と聞き流せたが、今は気が気ではない。
掴む腕を持つ者が、ここにいる。
ぞぞ、と腕を這い、背を這い、足を這う鳥肌。
恐怖におののき、一歩後ずさった。
「そこの方」
そして花は、言葉を紡ぐ。
「姿が見えるのですね」
その声があまりにか細く、あまりに優しくて、少女は抱いた恐怖を不安に変えた。
純粋に男を心配する、不安。
「自分は折れた彼岸花」
声を発する、口無き男。
「もうすぐ枯れて、土に還る存在」
地面を押すようにして半身を起こそうとするが、ひどく身体が重そうだった。手を貸そうともう一度足を前へ踏み出したとき、ザリザリと少女の背後から足音が近付いてくる。母親が現れ少女のそばまでやってくれば、遅れて兄と父親も現れる。
「もう、何してるのよ。走る必要無いわよ」
母親は一度少女の頭を小突き、追い越していく。
「あの」
「急がなくていいんだから」
「あ」
そして次の瞬間、少女は理解した。この花は、自分にしか見えていないのだと。母親は、目の前に倒れている男を何の気なしに踏みながら前に進む。続く父親も同じように。起こそうとしていた身体は、またぐしゃりと地面にへばりついた。
「行くよ」
声を掛けられたが、首を振る。
「場所分かる。先に行ってて」
「すぐに来るのよ」と釘を刺し、両親は先へと進む。足元に横たわる男を、容赦なく踏みつけて。
ああ、と嘆くように口の隙間から声が漏れた。痛い、痛そう、避けてあげて……。
「ねぇ……」
「何?」
ポタリと前を行く兄に声を掛けたら、タイミング悪く丁度男の背中に乗ったまま振り返る。どうしようか、とおどおどするがなんと言っていいのか言葉が出てこない。
「花が……」
「花?彼岸花?」
兄は辺りを見回し、遠くへ目をやる。山の斜面にあるお墓。墓石と彼岸花の集う墓場は、異様ではあれ整然としていた。
彼の目には、遠くの赤もよく見える。
「赤いな」
そう一言呟いて、男の上を道にして両親の後を追った。
家族がある程度離れると、慌てて少女は男に駆け寄る。
「大丈夫?痛くない?」
「ええ」
少女は男の背中を払ってやる。踏まれたところを丁寧に、パタパタと。
男は腕に力を入れて再び起き上がろうとするが、先ほどよりも身体は持ち上がらない。少女も手を貸そうとしたが、か弱い力ではどうすることも出来ず、困ったように眉を八の字に曲げた。
ぐったりとした姿。起き上がることも、もう出来ないらしい。
「……ごめんなさい」
少女は家族の代わりに彼岸花に謝った。家族が上を歩かなければ、トドメのように踏まなければ、あるいは。
「大丈夫」
そばにしゃがんだ少女を首だけ少し持ち上げながら花は言う。
「なんせ、自分は本来咲く必要の無い花。こうやって咲けるだけでも嬉しい。こうやって踏まれることさえ、意義を感じる」
「けど痛いでしょう?」
「痛くても。存在があるから、踏まれることが出来る」
変なことを言う花だと少女は首を傾げた。そして引っ掛かったことを訊ねる。
「……咲く必要がないって、どういうこと?」
「自分は種子を作ることが出来ない。ここら一帯に咲く彼岸花の全てが、後世に種を残すことが出来ないのです」
「なぜ」
「そういう風に、出来てしまったから」
彼岸花や染井吉野、身近なところでは種無しの果物などは三倍体という遺伝子構造を持つ植物である。その植物は遺伝子が奇数であるため減数分裂がうまくいかず、種子が実らず、例え実っても芽が出ない。
少女はそれを理解しているわけではないが、花頭の男の言葉通りに受け取った。種子が出来ないのならば花を咲かせて花粉を飛ばし、それを受け取る必要もない。男はそう言いたいらしいのだと。
「なら――」
少女はおもむろにその頭の赤い花に手を伸ばしながら言う。
「なぜ花を咲かせるの?意味がないのに」
「それは、咲きたくなったから。意味がなくても、そうしたかったから」
「意味がないのに?」
「意味がないのに」
納得出来ない顔で、少女は口をつぐんだ。手は優しく花を触る。存在を確かめるように、繊細な花を愛おしむように。
そんな少女の物憂げな雰囲気を感じ取った彼岸花は、変わらず優しく声をかけた。
「意味がないと、いけない?」
少女は表情を変えず、少しだけ唇を噛む。
「今、こうして花を咲かせるだけの自分が、あなたという人に目を向けてもらえたことも、この上なく嬉しいのに」
彼岸花の男は言う。
「例え、これら全てのことに意味が無かったとしても」
『意味が無い』
繰り返しその言葉を聞いた少女は、長らく秘めていた疑問を男に投げ掛ける。この花ならば、真面目に答えてくれる。根拠もなく、そう確信して。
「聞いても良い?」
「何?」
「あのね、一生懸命、物を作っていたの。そしたら、無意味だから、止めなさいって言われる。そんなことしても意味無いでしょって。時間の無駄でしょって」
つらつらと、自分の言葉でゆっくりと思いを紡ぐ。長きに渡って積み重なっていた思い。花は黙って言葉の一つ一つを逃さず聞いていた。
「ああ、これは無意味なことなんだと思って。途端に虚しくなって、止めたんだ。そしたら、今度はなんで止めたの?って言われて。意味がないからって、自分の口で言ったら悲しくなってきて。そしたら、そう、って返されるだけだったから。訳が分からなくなって、全部捨てた。だからね――」
真っ直ぐに、花を見て少女は言う。
「無意味なことは、必要の無いことなの」
その目は悲しげな憂いを帯びていた。
「違う……?」
名残惜しむように、花を撫でて。
「だから今さっき、走っていたことも意味がなくて必要もないこと、だと思ったんだけど」
意味がなくて、必要もない。
そう呟く少女は、感情を殺した声をしていた。
「けれど、あなたが花を咲かせることに意味がないとは思えない。意味も必要もない、無駄なことだとは思えない」
少女は地面に片手を付き、前のめりになって話しかける。必死に、何かを否定してほしいと願うような言葉だった。
「意味がないことは、必要のないこと?無意味なのは、悪いこと?」
花に触れる少女の手に、自らの手を重ねて男は言う。
「……悪いことでは、無いのでしょう」
感情的な少女に対して、男の声は変わらず静かだった。全てを受け入れて包みこむような、声色だった。
「無意味でも、無価値では無いんでしょう。少なくともあなたにとっては、価値のあるやりたいことだったんでしょう?」
少女は男に見えるように大きく頷く。
「自分はここに倒れ続ける。それも無意味かも知れないけれど、自分にとって無価値な物ではない」
「じゃあ、意味無く咲くあなたと話していることも、意味がないわけではない?価値の無いことではない?」
「もちろん。価値とは自身の中に見出だすものであり、他人の計れるものではない」
男はそう言い切ると少女は安堵の表情を浮かべた。満足のいく答えだったらしい。少女は目を瞑り、ゆっくりと深呼吸をする。
「ならね、お墓参りも意味の無いことじゃない?」
「そうだね」
「お墓に人がいるって思えなくて、行く必要あるのかなって思ってたこともあったんだ」
「そう」
「今日、嫌がらずに来てよかった。あなたに会えてこうして話せたから、よかった」
男は返事をするように微かに笑い、少女も合わせて笑った。穏やかな笑い声が、重なる。
不意に一陣の風が吹き、少女の髪がふわりと遊んだ。
「私は種子が出来ない。故に、来年も今と同じようにここにいるでしょう」
「枯れても?」
「枯れても。球根は残っているから」
そう、と少女は小さなため息と共に相槌を打つ。
少女はそろそろ行かなければいけないと悟った。後ろ髪を引かれる思いがしたが、それでも。
「ご多幸を」
彼岸花の男は、高らかに言う。秋の空に筒抜けるように、通る声で風を切るように。
「また会う日を、楽しみにしています」
男は倒れたまま、少女に手を振る。少女はその手を躊躇いながら指先で触れた。温度の無い、かといって冷たくもない手。ゆっくりと男の指を握る。少女の手は、男の手で握り込めそうな程の小さな手だった。
「またね」
少女は一度ぎゅっとその手を握り、微笑みを渡し、手を離して立ち上がる。
三歩進んで振り返ろうとしたが、止めた。
「元気でね」
それだけを残し、少女は前へと歩みを進める。
両側を赤い彼岸花に挟まれた、先祖の墓へと向かう小道。
秋風の涼しい、晴れた日のことだった。