異常でもない日常でもない非日常?
その日はなんの前触れもなく訪れた。
いつも通りに朝起きて、いつも通りに歯を磨き、いつも通りにシェフの作った朝ご飯を食べ、いつも通りにメイドや執事に見送られて、登校を済ませる。
普段と違うことと言えば、朝食にあまり同席しない兄がその場にいたことくらいか。なんでもリュー曰く、「昔の親友から話を聞くために今日は自由行動」とのこと。ポリツィアのことは詳しくないがそれでいいのか、と一抹の不安を覚えたのは内緒である。
ともかく、ルウにとってこの一日はなんの変わりもない一日になるはずだった。少なくとも、始業前のHRが終わるまでは。
「おはよう、リリアン」
「……あ、おはようルウ……!」
HRでミツキの話を一通り聞き、一限目が始まるまでは自由となったルウが前の席に座る親友、リリアンへ声をかける。
普段からおっとりとしている彼女は朝に弱いらしく、頭が覚醒していないのかルウの声にも数テンポ遅れてから返事をした。
それ自体は珍しいことでもなんでもないのでルウは気にしない。他愛のない話を振って、授業開始までの数分だけ、話に花を咲かせよう。
廊下が徐々に騒がしくなっていく。そういえば今日はどこかのクラスが移動教室授業でここ二年J組の前を通るのだったか。それも、二クラス。
別にこの教室の前を通る必要はない。だがこの教室の前の廊下の突き当たりには音楽室があるし、別の二年生クラスもこの廊下の並びに設置されているので、仕方ないといえば仕方ない。
何か揉め事が起こらないことを願うばかり、と頭の片隅で思ってしまう。話に付き合ってもらってるのにこんな事を考えてしまうなんてリリアンに申し訳ない、とも。
しかし人間、嫌な予感や考えというものは的中してしまうものだ。
「いってーなぁ……何してくれてんの?」
「ご、ごめんなさい……っ!」
酷くかすれた声と、妙に弱々しい声がした。
それに気づくのは無論ルウだけではなく、ルウと談笑していたリリアンはもちろん、クラスにいる人間の殆どがその声に反応してどよめく。
なんだろう、この既視感。
一瞬そんなことを思うが、よくよく考えればこんなことはこの学園では日常茶飯事だ。
普通科(弱者)が抑圧され、特殊科(強者)が権力を持つこの学園では。
おそらく今回もそうだろう、と、必要ならば風紀委員としての仕事を執行するため、ルウは席を立ち扉から廊下の様子を伺った。
「……やっぱりか」
呆れを孕んだため息がもれる。
廊下ではいつか見たような――それこそ三日前くらいには見たような光景のリフレクト。
沢山の野次馬に囲まれるように、中心部に数人の生徒たち。
その中の一人はやはりというかなんというか、予想通り普通科の生徒で、その他は特殊科――おそらく武闘科の生徒だ。
その普通科の生徒は腰を見事な九十度に折って武闘科生徒への謝罪をしている。あそこまで行くと彼がどれほど謝り慣れているかわかる気がする。
「相変わらずだね、この学園は」
「……ミツキ先生?」
いつの間にか背後にまで来ていた担任に少し驚くものの、含んだ言い方をするミツキに疑問符。
彼は普通科生徒だったのだろうか。しかし今は剣術科の、実技担当でないとは言えど、担任をしている。どういうことだろうとミツキの顔を盗み見てみれば、ミツキの瞳は何処かで見たような暗い灯を帯びていた。
「土下座しろよ、それ撮影して学園中にばら撒いてやるから」
これが特殊科同士の喧嘩なら自分が止めるのに、とルウは歯痒い思いをする。
別にあの普通科の生徒が嫌いなわけではない。ただ普通科が嫌いなだけ。自分の努力次第でどの学科にだって入れたのに、その努力を怠った証であるその学科が大嫌いだ。
この格差は努力しなかった普通科生徒への、報いなのだ。
「本当は僕が止めるべきなんだろうけど」
小さなつぶやきがルウの頭上から降ってくる。小さすぎて、ルウにしか聞こえないだろうその声。
それは確かな憎悪と僅かばかりの期待を散らしながら、ルウの体内で消えていった。
「もうすぐ来るだろうしね、〝弱者の味方〟が」
ミツキの顔に、彼のものとは思えないほど暗い笑みが浮かんでいたのを見たのも、またルウだけだ。
凍りついた空間。一触即発と言った空気に、普通科生徒は震える。
ニタニタと人の悪い笑顔を貼り付ける特殊科の生徒に、ある種の呆れすら感じた。それでも彼らは特殊科の生徒だから、ルウに手を上げるつもりはない。
意を決したらしい普通科生徒が、両手を廊下につけようとする。落ちている音楽の教科書は、彼のものだろうか。
場違いなことを考えながら、じっと見つめた。
やけにスローモーションだ。音も聞こえない。彼の動きが遅いわけでも、野次馬が静まり返ったわけでもなく、世界すべてが遅くなり、音を遮断されたかのように思えた。
そんな世界の中でルウの頭を掠めたのは、たったひとつの純粋な疑問。
――正義って、なんだっけ。
決まっている。強者を守ることだ。
弱者を守るための行為は、正義ではないのだ。この学園でも、この大陸でも。
揺らいだことは今まで一度もない。なのになぜこんな考えが浮かんだのだろう。
震えるあの生徒を見ているせいだろうか。それとも――。
「何してんだよ、エンジュ」
「!」
ルウがいた音のないスローモーションの世界に、突如として響いた。
兄やミツキ、クラスメイトのもののように聞き慣れた声ではない。それでもあの日――三日前からルウの脳裏に焼き付いて離れない声。聞いていて心地よい、しかしどこかに狂気を隠したような、声。
「……ほら、お出ましだ」
ミツキの声につられ、声のした方へゆっくり視線を移す。
水晶の瞳が、いた。
ルウの身体が強張る。彼を目にするだけで、緊張が体内を駆け巡った。
三日前と変わらず澄んだ目をして立っているのは、普通科生徒〝アキラ〟。三日前と違うことは手に白い包帯を巻いていることだ。
彼がエンジュと呼んだ普通科の生徒は、アキラを見て心なしか表情が明るくなっている。
二日前権限を使って彼のことを調べた。普通科きっての不良らしいが、成績優秀。ただし理系科目はからきし駄目。
教員からはその素行のせいで反感を買っているが、同じ普通科生徒からの評判は不良にしては高いとのこと。理由は明記されていない。
なんで、と考えた瞬間、アキラの目がこちらを捉えた。一瞬竦むものの、風紀委員副委員長としてのプライドがそれを表に出すことを憚った。
アキラはアキラで苦い顔をし、そして例のイタズラ猫のような笑顔を描いた。
「よーぉ、偽乳ちゃん。今日もお仕事かよ」
「だ……っれが、偽乳よぉ!!」
イタズラ猫というよりはただの変態か。思わず剣を抜きそうになるが我慢する。
ここで争っても仕方が無い。然るべきところで然るべき粛清を行わなければ、と柄に触れる右手を左手で押さえ込んだ。
「……作り乳のがいいか?」
「つく……っ!?
あ……あんたいい加減にしなさいよ……!!
私にはちゃんと、ルウリット・リンギットっていう名前があるのよ!!」
「はいはい、自己紹介なんて律儀なことで」
このままでは努力虚しく剣を抜いてしまう。ポリツィアの人間になるつもりなのに人殺しなんてしてる場合じゃない、と、それだけで理性を繋ぎとめている状態だ。
ちらと廊下を見れば先ほどまでの騒ぎは一時休戦しているようだ。釈然としない。
「つーか、敬語使えよお前。俺三年だぜ?」
「生憎だけど普通科生徒に使う敬語なんて持ち合わせてないわ」
「あー、そうか。そうだな、お前らは普通科きらいだもんなァ。……ミツキィ」
正直敬語を使わないのは出会った初日に偉そうにしてしまったせいで後に引けないからなのだが、バレていないので黙っておく。
それよりも何故そこでミツキに会話の矛先が行くのか。そして何故普通科生徒ごときがミツキを呼び捨てにするのか。
アキラと話していればいくらでも粛清点は見つかる。今すぐにでも粛清すればいいのだが、残念ながらこの場の空気がそれをよしとしない。
そして何より――いつもより冷たいミツキの表情が、ルウの行動を縛っているような錯覚をしていた。
「暴力沙汰じゃなけりゃ……〝いい〟んだよな?」
「先生をつけてくれるかな、アキラ。
……そうだね。暴力沙汰じゃなければ〝いい〟よ」
何の話? 聞こうとしたのに、声が出ない。
踏み入ってはいけない領域なような気がして、喉が閉まった。
「だけどノワールじゃないなら――」
「わーぁってるっての。俺がそんなヘマするように見えるわけ? センセ」
ノワール。
最近何処かで聞いたような単語に、ルウの脳がフル稼働する。
しかしそれが結論をする前に、アキラは事件の中心へと足を踏み入れた。
その口元は、新しいおもちゃを手に入れた子供のように歪ませて。
「んーじゃあまぁ。
〝粛清〟、してやんよ」
彼の首元で十字架のチョーカーが妖しく煌めいた。