雨音と幻影
無駄に長いです。
不意に鞄の中で携帯が震えた。急いで鞄を漁って取り出せば、画面には「非通知」の文字。…普段非通知でかかってきた場合は無視して切るのだが、今日はなんとなく電話に出てみる事にした。
「もしもし、」
……ザァ―……ザァ―――…
聞こえたのは雨音だった。激しい雨が地面を叩く様子が脳内を駆けた。一瞬だけ、どちらが現実か分からなくなる。
「ぁ…れ…」
揺らめく景色。混ざり合う色。重なる音。
“今自分は何処にいる?”
怖い。怖い怖い怖い。押し寄せる恐怖の波に飲み込まれる。
カシャン、
携帯が手から滑り落ちた。
途端に現実世界に引き戻される。もちろん雨など降ってはいないし、景色も揺らいではいない。
「はぁ、はぁ…」
いつの間にか自分が大きく肩で息をしている事に気付いた。シャツがうっすら汗ばんでいる。
「何、だったんだ…」
分からない。けど着信履歴には確かに非通知の文字が残っている。もう一度かければ―いや、またあんな風になってこっちに戻って来れなかったら困る。
困るとは分かっていても、もう一度あの感覚を、と思っている自分がいた。
…恐る恐るリダイヤルすると、聞こえてきたのはやっぱり雨の音。と、先程は聞こえなかったはずの声が聞こえた。
『……ぃ……ぇ…』
「ん?」
よく耳を澄ましてみると、それは幼い少女の声だった。何処かで聞いたことがある、様な。何かが引っ掛かる。思い出せそうで思い出せない、何かが。
雨音は徐々に大きくなっていく。それに比例して少女の声も大きくなっていく。微かだった声は確かに僕の耳に届いた。
『…好き……って………言って…』
その瞬間、バラバラだった記憶のパズルが組み合った。
「……遥乃、」
聞こえていた声が幼さを無くし、可憐な女性の声へと変わる。雨音は変わらず激しいままで。
駆け巡る記憶。思い出す出来事。
そうだ、あれは――…
◇
「遼弥くん、」
髪が長く、目鼻立ちがはっきりした少女。家が近所で幼い頃からよく遊んでいた。
「大きくなったら一緒に住もうね!」
「うん!」
こんな事を素面で言い合えるような年頃だった。無垢で何も知らなかったあの頃。…それもいつしか終わりを告げ、僕らは徐々に疎遠になり始めていた時だ。
「遼弥くん、私遼弥くんのこと、好きなの」
好き。遥乃が僕を、好き ?
「その、俺は、」
「いい、それ以上言わなくていいから、一個だけお願い」
好きだ、って言って欲しいの、と彼女は言う。
「え、あの…」
「一回だけで良いの!お願い!」
「……分かったよ」
すぅ、と大きく息を吸い込んでから、遥乃にちゃんと聞こえるように言った。
「…好きだ」
遥乃はにっこりと笑って、一筋の涙を流した。綺麗だった。その後はいつも通り別れて、家路に着いた。はずだった、
真夜中、携帯の着信音がけたたましく鳴り響く。目を擦りつつ電話に出た僕は、凍りついた。
『遥乃ちゃん、事故に遭った、って』
『トラックに轢かれて即死だったらしい』
事故?遥乃が?即死?
何を言っているんだそんなの僕は信じない
『今病院にみんな集まってるから、遼弥も来い』
そう言って電話は切れた。
行ってしまえば、それは遥乃の死を認める事になる。でも行かなければ皆に責められる。二者択一の選択。行きたくないけど行かなければならないジレンマ。相対する感情で僕は板挟みだった。
結局行く方を選んだ。僕を好きになってくれた彼女にキチンと別れを告げる為に。
その後の事はあまりよく覚えていない。思い出そうとすると記憶にノイズがかかったように何も思い出せなくなる。
思い出せないままで、いいと思ってる。
◇
そう、あの電話がかかっていた時には雨が降っていた。遥乃は雨の中、車に轢かれて死んだんだ。
だとすれば、これは、
僕は更に耳を澄まして、音声を拾い集める。
『……遼弥、くん……好、き……な………の』
―またあの感覚が僕を襲った。
揺らめく景色。混ざり合う色。重なる音。
そして見えたのは―……あの日のままの遥乃だった。
「遥、乃…」
雨は止み、あの日の場所に僕と遥乃は立っていた。全てあの日と同じ、だった。
「遼弥、くん、久しぶり」
信じられなかった。死んだはずの遥乃と話しているなんて。
「本当に、遥乃なのか…?」
「うん、本物の遥乃だよ、」
ふわりと微笑むそれは紛れもなく本物の遥乃で。
僕の中で何かが弾けた。
ぽたり、ぽたり、と雫がこぼれたのを皮切りに、涙は止め処なくあふれ出す。
「遼弥、くん…どうしたの?」
心配そうに見つめてくる遥乃に、僕はただ泣く事しか出来ない。言葉を発しようとしても、嗚咽が邪魔をして何も言えない。
涙の原因はきっと一つだけ。遥乃に、嘘を吐いていたこと。
あの時本当は、僕も好きだった、と言おうとした。でも、「それ以上言わなくていい」と遥乃に遮られ、その先を言う事は出来なかった。出来ないまま、会えなくなってしまった。
「はる、の…ごめ、ん……ごめ……な」
嗚咽交じりの謝罪。遥乃は心配そうな目で、首を傾げた。
「ごめんって、何で遼弥くんが謝るの?」
「僕…本、当……ず……と、遥、乃………好き、だ……た、んだ」
え…?と遥乃が目を見開いた。
「嘘、でしょ?」
瞳が揺れ動き、視線が彷徨う。
「嘘、じゃ…な……ほんと、に…僕、は」
涙と鼻水でぐしゃぐしゃの顔で、僕は叫んだ。遥乃は困ったように微笑み、静かに涙を流していた。
僕の涙はまだ止まってはくれない。
泣いて泣いて泣いて、涙が枯れるくらい泣きつくして、もう時間も分からなくなった頃、空模様があやしくなり始めた。
まっ黒な雲が空を覆い、木々が風に揺れ、擦れた葉が音を立てる。時折ふっと浮上するような感覚を覚え、僕はこめかみを押さえた。
風はどんどん強さを増す。雲の流れは速くなる。僕らは無言で空を見上げていた。
…―ぽた ぽたり ぽたぽたぽた
とうとう雨が降り始めた。それと共に遥乃の姿が、揺らぐ。
「とお、や…く、ん」
(待ってまだ君と居たいんだ、神様もう少しだけ―…)
声が遠くなる。景色が揺らぐ。音が混ざる。雨は次第に強さを増し、景色の揺らぎも大きくなっていく。
遥乃に必死で手を伸ばす。遥乃も僕に向かって手を伸ばす。届きそうで届かない。あと、もう少しなのに。
そして僕の手は届かぬまま、景色が大きく歪み、空間に亀裂が入った。
最後に見た遥乃の顔はあの日と変わらない笑顔だった。
『だ…い、す……き、だよ』
「はる、の…」
聞こえた声が現実かどうかはもう分からない。
…僕の意識は闇に飲み込まれた。
◇
ゆるりと重い瞼を持ち上げると、目に入ったのは白い天井だった。起き上がろうと力を入れると、体の節々がずきりと痛む。
「い、ってぇ…」
どうにか起き上がると、そこが病室であることが確認できた。腕には点滴が繋がっていて、頭には包帯が巻かれている。体中擦り傷だらけで、所々にガーゼが貼られていた。
何故自分はこんなに酷い怪我を負っているのだろうか。
「遼弥、くん…!」
不意にドアの方から声が聞こえたので慌てて振り向くと、そこには遥乃が立っていた。
「はる、の…?」
遥乃は僕の方へと駆けよってくる。記憶の中で何かが蠢く。思い出せそうで、思い出せない。
「もう二度と目を覚ましてくれないと思った…!」
どういう意味なのだろうか。僕は事故にでも遭ったのか?
「なぁ、遥乃、僕何でこんなに傷だらけなんだ?」
遥乃はびくりと体を竦ませた。そして伏し目がちに、独り言のように言う。
「遼弥くんは………私が、告白した日の、夜に…………トラックに轢かれたの」
トラックに?僕が?
「公園から帰る途中で…飲酒運転のトラックが、私の方へ突っ込んでくるのを庇って…!」
遥乃は泣き崩れた。泣き声が何かと重なる。なんだっけ。思い出せない。
ただ僕は泣き続ける遥乃の頭を撫でてやる事しか出来なかった。
ひとしきり泣いた遥乃は、泣き疲れて眠ってしまった。僕はまだ大事な事を忘れている気がする。記憶のピースが欠けている、ような。
何か思い出せるかもしれないという可能性を胸に、僕はサイドボードにあった携帯を見た。
待ち受け画面には、“不在”のニ文字。気になったので着信履歴を見てみる。するとそこには、非通知の着信が二件あった。
震える手で、ボタンを押す。―繋がった。
「……もしもし」
耳元に響く雨音。遥乃の泣き顔。僕の告白。ぐるぐるぐるぐる頭の中を廻って記憶のパズルが組み上がっていく。
そうだ、思い出した。遥乃は、あの時、
「遼弥くん?」
電話の向こうから聞こえるのは、遥乃の声。僕の足元で寝ているのも、遥乃。
………あ、れ?
おかしいなどうして遥乃が二人もいるんだ ?
組み合わさったピースがばらばらに砕けていく。記憶がかき混ざって揺らぐ。忘れていたことと覚えていたことが合わさる。何もかも混ざり合って溶けていく。
「とーや、くん」
もう、何にも分からないや。全部全部混ざって消えてくから。
…―雨音に全てが重なって、僕はそこで夢を見る。一生覚めない夢を。
永遠に、僕は、目覚めない か ら ―― ……… … …
◇
「遼弥も遥乃も、幸せそうな顔しちゃってさぁ…っ」
「何で死んだんだよ…!」
「二人ともこれから幸せになるはずだったのに、」
「運命って残酷だよね」
友たちが悲しみに染まるその真ん中にあるのは、二つの棺。その中で眠るのは、遼弥と遥乃。
真実は一つ。事故に遭って死んだのは二人。
「ホント運悪すぎるよ、飲酒運転のトラックに轢かれるなんてさ」
「しかも告白した日に、だなんて」
「神様は意地悪だよ」
(いくら悲しんでも、もう二人は帰ってこないんだね)
◇
「とーやくん、」
「はるの、」
手を取り合って雲の上を駆け巡る。
夢から覚めないまま、二人は共に在り続けるのだ。
この楽園で。幸せの場所で。
永遠に、二人だけで。
(しあわせなら、それでかまわないでしょう?)
長いだけの駄文を読んで下さって有難うございました。