母の手、知らない匂い
第4話 母の手、知らない匂い
診療所の待合は、昼なのに薄暗かった。
窓にかかった布が、外の青い光を鈍くしている。俺は入口の手前で立ち止まったまま、奥の長椅子を見ていた。
そこに座っていた女が、顔を上げる。
「ソル」
声が震えていた。次の瞬間、立ち上がって、俺の肩を両手で掴む。細い指。掌は仕事の硬さがあるのに、触れ方だけは壊れ物のように慎重だった。
「生きてて……よかった」
泣きながら笑う顔を、俺は知らない。知らないのに、鼻先に甘い匂いが刺さる。干した柑橘と、灰釜の煙。懐かしい、に似た反射が胸に走る。
視界の端にログが出た。
`[COG] IDENTITY_DRIFT=+12`
`[COG] TRIGGER: MATERNAL_CONTACT`
俺は半歩だけ後ろへ下がった。
「……すみません」
女の手が空を掴んで止まる。指先がわずかに震えた。
「謝らないで。あんたが生きてるなら、それで——」
言葉の後半を飲み込む。ミアが横で唇を噛んだ。
「おばさん、座ろ。急がなくていい」
女は頷いて椅子に戻る。俺も向かいに座った。膝の上で指が勝手に組み替わる。落ち着かない。
「朝ごはん、何が好きだったか覚えてる?」
女が笑おうとして、失敗した顔で聞く。
「……覚えてないです」
「じゃあ、川向こうの道は?」
「わからないです」
「七つのとき、熱を出して——」
首を振る。全部が空白だ。
女は黙った。責める顔はしない。責めないのが、逆にきつい。
「ごめんなさい。あんたを困らせたいわけじゃないの」
「困ってるのは、俺です」
言ってから、言い方を悔いた。ミアが俺を見る。ルドは薬棚の前で背を向けたまま、何も言わない。
待合の空気が重くなる。
俺は視線を落とし、左腕の古傷を指でなぞった。細い白線。自分の体にあるのに、履歴だけが他人のものだ。
ログがまた跳ねる。
`[COG] MEMORY_GAP_PERSIST`
`[COG] SELF_LABEL_CONFLICT`
「……ルド先生」
俺は立ち上がった。椅子が床を擦る。
「事故の場所、正確に教えてくれ。俺が落ちた穴の位置。回収した順番。見つけた時刻。全部」
ルドは振り返らない。
「今は休め」
「休んで埋まる穴じゃない」
声がわずかに上ずる。俺は深呼吸して、言い直した。
「隠すなら、隠す理由を言ってくれ」
ルドがようやくこちらを見た。皺の奥の目は、怒っているというより疲れていた。
「理由は一つだ。見なかったことにしたいからだ」
「何を」
「人間が、人間のまま戻らない現場を」
言葉が落ち、待合が静まり返る。外の風の音だけが遠くで鳴った。
俺は拳を握り、開いた。反論はいくつも浮かぶのに、どれも薄い。
ルドは続ける。
「記録はある。だが読めば楽になるとは限らん。お前は今、生きている。そこから先は、お前が選べ」
選べ、と言われても、材料がない。
沈黙を破ったのはミアだった。
「材料、集めよう」
彼女は俺とルドを交互に見て、言葉を置く。
「遺跡に行く。落ちた場所を見て、ログを拾って、カルテを突き合わせる。いま机の上で考えても、同じところを回るだけ」
「危険だ」
ルドが即答する。
「危険なのは、もう知ってる」
ミアは引かない。
「でも、知らないまま壊れるよりまし。先生だって、これ以上黙ってるのしんどいでしょ」
ルドは目を閉じた。長い息を一つ。
「明日の日の出前に出るなら、止めない。だが条件がある。二人で行くな。入口より深くは潜るな。異常が出たら即撤退」
ミアが頷き、俺も遅れて頷いた。
待合の端で、女——ソルの母が、黙って俺を見ていた。
「行くのね」
「はい」
「……帰ってきて。名前が何でも、帰ってきて」
その言葉に、うまく返せなかった。代わりに、小さく頭を下げる。
窓の外、青い森の奥で鐘が一つ鳴る。夕方の合図だ。
視界の端に、短いログが浮かぶ。
`[COG] NEXT: FIELD_VERIFICATION`




