表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
異世界転移したはずの俺は、蘇生体だった——帰還条件は千人の犠牲、それでも帰るか  作者: 蒼月よる


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

3/5

名前が二つある

第3話 名前が二つある


 朝の診療所は、夜より騒がしい。


 薬壺の蓋が鳴る音。廊下を走る足音。湯を沸かす鉄鍋の匂い。俺は窓際の寝台で、薄い布を握ったまま座っていた。眠れなかったせいで、目の奥が重い。


 戸が二回ノックされる。

 返事をする前に、昨日の女が入ってきた。


「入るよ、ソル」


 薄茶の髪、インクのついた指、まっすぐな目。昨日と同じだ。


「その呼び方、やめてくれ」


 俺が言うと、彼女は一歩だけ止まった。


「……じゃあ、タクミ?」


 名前を試すような声だった。俺は頷いた。彼女は小さく息を吐いて、丸椅子を引き寄せる。


「私はミア。あんたの幼なじみ。ここまでは、たぶん聞いた」


「聞いた。信じてない」


「そうだと思った」


 淡々としているのに、指先だけが白くなるほど帳面を握っていた。


「じゃあ質問。昔、あんたが私を何て呼んでたか、覚えてる?」


 知らない。知らないはずなのに、喉の奥が勝手に動いた。


「……ミー」


 口に出した瞬間、自分で凍る。そんな呼び方、今初めて聞いたのに。


 ミアの目が揺れた。泣く一歩手前で、踏みとどまる顔だった。


「それ、ソルしか言わない」


「今のは偶然だ」


「偶然で、その音にはならない」


 反論できない。代わりに、寝台の縁を強く掴んだ。指先に汗がにじむ。


 ルドが入ってきた。盆の上に包帯と小さな瓶を載せている。


「動作確認をする。立て」


「俺は患者じゃなくて——」


「立て」


 有無を言わせない声で、俺は立ち上がる。ふらつきは昨日より軽い。


「短剣を持て」


 ルドが鞘ごと差し出した。受け取った瞬間、重さが手に馴染む。

 次の動きは、考える前に体が選んだ。左足を半歩引いて、刃を斜めに寝かせる。刃こぼれ確認、柄の締め具合、拇指の位置。


 俺はそのまま、砥石を探していた。


 棚の二段目、小型の砥石、水入れの横。


 迷いなく取って、刃を当てる。一定の角度で、五回。水を足して、三回。手首が覚えている。


 俺は砥ぐ手を止めた。

「……なんで、場所まで知ってる」


 ルドは答えない。ミアが代わりに言った。


「あんたがそこに置いたから」


 その一言が、頭の内側に鈍く当たる。俺は砥石を置き、柄を握ったまま俯いた。


 廊下の向こうで、男の声がした。


「ソルの腕の傷、あれ小さい頃のか?」鍛冶屋ドムの声だ。

「川で落ちたときのだろ。ミアも一緒にいたって」井戸番ナナが答える。


 ミアが廊下へ出て、男たちに短く確認を取る。戻ってきた彼女は、俺の左腕を指で示した。


「ここ。七つのとき、川で岩に引っかけた。縫ったのはルド先生」


 視線を落とす。薄い白線。昨日も見たはずなのに、今日は別の意味を持って見えた。


 視界にログが出る。


 `[COG] MEMORY_LINK=BODY_SIDE`

 `[COG] SELF_LABEL_CONFLICT`


「うるさい」


 口から漏れた。


「え?」


 ミアが顔を上げる。俺は首を振る。

「違う。お前じゃない」


 胸の奥で何かが膨らむ。怒りとも恐怖ともつかない、押し潰す圧。


「俺の名前は、俺が決める」


 言いながら、自分で空虚になる。決めるって、何を基準に。記憶か。体か。どっちも半端だ。


「俺はタクミだ。そうじゃないと、全部他人になる」


 ミアは黙って聞いていた。否定も肯定もしない。しばらくして、帳面を俺の膝に置く。


「じゃあ、これ使って」


「何に」


「記録。今のあんたのことを、今の名前で書けばいい」


 表紙には擦れた文字で「ソル」と書いてあった。ミアはその上から布を巻いて、見えないようにする。


「中身は空白のページ、まだあるから」


 優しさなのか、諦めなのか、判別できない声音だった。


 夕方、ルドが再検査を終えたあと、俺は帳面を開いた。最初の空白ページ。紙はわずかに湿り、指に重い。


 名前を書く。

 そう決めて、炭筆を持つ。


 最初の一画で止まった。


 タクミ、と書こうとした手が、勝手に別の線を引こうとする。止める。震える。もう一度。止まる。


 白い紙の上に、短い傷のような線が一本だけ残った。


 夜風が窓から入る。

 その線を見下ろしたまま、俺は初めて思った。


 どちらか一つを選ぶ話ではないのかもしれない、と。


 廊下の向こうで、看護助手の声がした。

「ルド先生、ソルの母さんが着きました」


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ