名前が二つある
第3話 名前が二つある
朝の診療所は、夜より騒がしい。
薬壺の蓋が鳴る音。廊下を走る足音。湯を沸かす鉄鍋の匂い。俺は窓際の寝台で、薄い布を握ったまま座っていた。眠れなかったせいで、目の奥が重い。
戸が二回ノックされる。
返事をする前に、昨日の女が入ってきた。
「入るよ、ソル」
薄茶の髪、インクのついた指、まっすぐな目。昨日と同じだ。
「その呼び方、やめてくれ」
俺が言うと、彼女は一歩だけ止まった。
「……じゃあ、タクミ?」
名前を試すような声だった。俺は頷いた。彼女は小さく息を吐いて、丸椅子を引き寄せる。
「私はミア。あんたの幼なじみ。ここまでは、たぶん聞いた」
「聞いた。信じてない」
「そうだと思った」
淡々としているのに、指先だけが白くなるほど帳面を握っていた。
「じゃあ質問。昔、あんたが私を何て呼んでたか、覚えてる?」
知らない。知らないはずなのに、喉の奥が勝手に動いた。
「……ミー」
口に出した瞬間、自分で凍る。そんな呼び方、今初めて聞いたのに。
ミアの目が揺れた。泣く一歩手前で、踏みとどまる顔だった。
「それ、ソルしか言わない」
「今のは偶然だ」
「偶然で、その音にはならない」
反論できない。代わりに、寝台の縁を強く掴んだ。指先に汗がにじむ。
ルドが入ってきた。盆の上に包帯と小さな瓶を載せている。
「動作確認をする。立て」
「俺は患者じゃなくて——」
「立て」
有無を言わせない声で、俺は立ち上がる。ふらつきは昨日より軽い。
「短剣を持て」
ルドが鞘ごと差し出した。受け取った瞬間、重さが手に馴染む。
次の動きは、考える前に体が選んだ。左足を半歩引いて、刃を斜めに寝かせる。刃こぼれ確認、柄の締め具合、拇指の位置。
俺はそのまま、砥石を探していた。
棚の二段目、小型の砥石、水入れの横。
迷いなく取って、刃を当てる。一定の角度で、五回。水を足して、三回。手首が覚えている。
俺は砥ぐ手を止めた。
「……なんで、場所まで知ってる」
ルドは答えない。ミアが代わりに言った。
「あんたがそこに置いたから」
その一言が、頭の内側に鈍く当たる。俺は砥石を置き、柄を握ったまま俯いた。
廊下の向こうで、男の声がした。
「ソルの腕の傷、あれ小さい頃のか?」鍛冶屋ドムの声だ。
「川で落ちたときのだろ。ミアも一緒にいたって」井戸番ナナが答える。
ミアが廊下へ出て、男たちに短く確認を取る。戻ってきた彼女は、俺の左腕を指で示した。
「ここ。七つのとき、川で岩に引っかけた。縫ったのはルド先生」
視線を落とす。薄い白線。昨日も見たはずなのに、今日は別の意味を持って見えた。
視界にログが出る。
`[COG] MEMORY_LINK=BODY_SIDE`
`[COG] SELF_LABEL_CONFLICT`
「うるさい」
口から漏れた。
「え?」
ミアが顔を上げる。俺は首を振る。
「違う。お前じゃない」
胸の奥で何かが膨らむ。怒りとも恐怖ともつかない、押し潰す圧。
「俺の名前は、俺が決める」
言いながら、自分で空虚になる。決めるって、何を基準に。記憶か。体か。どっちも半端だ。
「俺はタクミだ。そうじゃないと、全部他人になる」
ミアは黙って聞いていた。否定も肯定もしない。しばらくして、帳面を俺の膝に置く。
「じゃあ、これ使って」
「何に」
「記録。今のあんたのことを、今の名前で書けばいい」
表紙には擦れた文字で「ソル」と書いてあった。ミアはその上から布を巻いて、見えないようにする。
「中身は空白のページ、まだあるから」
優しさなのか、諦めなのか、判別できない声音だった。
夕方、ルドが再検査を終えたあと、俺は帳面を開いた。最初の空白ページ。紙はわずかに湿り、指に重い。
名前を書く。
そう決めて、炭筆を持つ。
最初の一画で止まった。
タクミ、と書こうとした手が、勝手に別の線を引こうとする。止める。震える。もう一度。止まる。
白い紙の上に、短い傷のような線が一本だけ残った。
夜風が窓から入る。
その線を見下ろしたまま、俺は初めて思った。
どちらか一つを選ぶ話ではないのかもしれない、と。
廊下の向こうで、看護助手の声がした。
「ルド先生、ソルの母さんが着きました」




