俺は誰だ
第11話 俺は誰だ
東稜から戻った翌日、俺は斧を持っていた。
薪割り台の前。
いつもなら視界に出るはずの補助線がない。角度も力配分も、自分の感覚だけだ。
一打目は刃が外れて丸太の縁を噛み、二打目でようやく割れる。息が無駄に上がる。
`[SYS] ...`
何も出ない。空白の視界が、逆に重い。
裏口の軋む音。ソルの母が立っていた。手には洗い桶。
わずかに迷う顔をして、それでも近づいてくる。
「無理、しなくていいよ」
「無理じゃない」
「顔が無理って言ってる」
その言い方が、前にもあった感覚がある。俺の記憶ではない、体のどこかに残った記憶で。
母は桶を置き、俺の正面に立った。
「話、したい。今日」
逃げる理由はいくらでも作れる。
でも、もう逃げたくなかった。
「わかった」
小部屋へ向かう途中、廊下の角を一つ間違えた。
前なら身体が勝手に選んだ道だ。今は立ち止まって、壁の染みを見て思い出すしかない。
昼、診療所の小部屋。母、ミア、ルド、そして俺。扉は閉め、外の物音だけが遠く聞こえる。
最初に口を開いたのは俺だった。
「全部は思い出せない」
喉が詰まる。
でも、続ける。
「ソルの記憶は穴だらけで、日本の記憶も断片で、どっちも本物みたいで、どっちも完全じゃない」
母の指先が膝の上で震える。
俺は視線を逸らさずに言った。
「だから前みたいな息子には戻れない」
沈黙が落ちる。
ミアが口を開きかけて、閉じた。先に母が息を吸う。
「戻れなくていい」
予想と違う返答だった。
俺が言葉を探している間に、母は続ける。
「あの子の癖、時々ある。言い方とか、怒るときの眉とか。
でも全部ではない。最初からわかってた」
涙が滲む声で、それでもまっすぐ言う。
「それでも、ここにいるあんたを家から追い出す理由はない」
「一つだけ聞く」
母が指先で涙を拭って言う。
「あの子が七つの時、井戸へ落としたもの、覚えてる?」
頭の中は白く、出てこない。
俺は首を振る。
「……覚えてない」
母は目を閉じて、短く頷いた。
「うん。そこは、もう違うんだね」
胸の奥で何かがほどける。
同時に、別の痛みも残る。ソル本人ではない事実は消えない。
ルドが静かに補足した。
「同一性の証明は誰にもできん。できるのは、今日どう振る舞うかだけだ」
ミアが頷く。
「だから昨日、逃げた。だから今日、ここにいる」
俺は手を握って開く。震えはまだ残っている。
でも、言うべきことは一つだった。
「俺の名前を決める」
母が顔を上げる。
ミアが息を止める。
「ソルだけだと、タクミが消える。タクミだけだと、ここで生きた時間を捨てる」
喉を鳴らして、言い切る。
「ソル=タクミって名乗る」
静かな部屋に、その言葉だけが落ちた。
母は泣きながら笑う。ミアは目を赤くしたまま、短く言う。
「うん。そう呼ぶ」
夕方、俺は診療所前の掲示板に自分で通達を書いた。
`当面の責任者名: ソル=タクミ`
筆が途中で止まらなかった。
初めてだった。
日が沈むころ、レイン司祭が一人で現れた。武装なし。
通告書を差し出して、短く告げる。
「本来は拘束継続案件です。ですが実験施設封印の実績を考慮し、監視付き自由行動へ変更します」
「条件は」
「定期報告、無断での高濃度域侵入禁止、再現研究への不参加」
妥当だった。
飲み込める条件だ。
「受ける」
レインはわずかに頷く。
「あなたが誰かの最終判定は、私の権限外です」
そう言って去っていく背中を見送りながら、俺は妙に肩の力が抜けるのを感じた。
夜、帳面を開く。
ページ上部に、今日の名を一度書いてみる。
ソル=タクミ。
字はまだわずかに歪んでいる。
でも、これは俺の手で書いた。
視界の隅に、久しぶりに短いログが戻る。
`[COG] NAME RESOLUTION: IN PROGRESS`




