ぼくも
夜の学校の階段を上がるのにも慣れてきた。スマホのライトを頼りに、軽やかに階段を上っていく。
複製した鍵を刺した時にも、昨日のようなドキドキ感はない。その理由は千秋がいることを確信しているというのもあるが、一番は坂本と千秋が付き合っていたことを知ったからだ。
だから今日は千秋が恋しいとか、恋仲になりたいというような感情の動きがあまりなかった。きっと思い切り走ったことが、面倒くさいことに踏ん切りを着けさせてくれたのだと思う。そんなことを考えながら、僕はドアを開ける。すると今日も一番遠い席に座っている少女が居る。彼女は僕に背を向けていて、僕から顔が見えなかった。
「え」
気が付くと僕の瞳から汗が溢れていた。一粒、一粒と左右からこぼれていく。飯田の汗が未来へのものとするならば、僕の涙は過去のためのものだ。僕が恋焦がれた千秋への涙。彼女との思い出や僕が見ていた美しい姿、太陽のような笑顔。それらに対する気持ちが溢れてしまった。
「千秋!」
僕は気が付いたら叫んでいた。彼女はゆっくりと僕の方に振り向く。千秋も泣いていた。僕よりも多くの涙をこぼしていた。
「千秋に気が付いたのが、俺でごめんな。坂本じゃなくて、ごめんな!」
僕は嗚咽交じりに自分の気持ちを叫ぶ。嘘だ。本当は僕が千秋と付き合っていたかった。僕はそれを悟られないようできるだけ笑って。彼女の涙が一粒でも引き留められるように。これ以上こぼれないように。
「違うの」
千秋は目をこすりながら、首を振った。
「私は、私は!」
千秋は嗚咽で次の言葉をうまく紡げない。呼吸が乱れている。
僕は手を大きく広げて、ゆっくりと深呼吸をする。その動きを見た千秋が僕の真似をする。二人で大きく息を吸って、ゆっくりと時間をかけて吐く。
「少し、落ち着いた?」
「うん、ありが、とう」
彼女の涙も僕の涙も止まらなかったが、しないよりはマシだった。
「私は、坂本君に脅されてたの。だから、仕方なく付き合ったの。本当は、本当は……」
千秋はそこで堰を切ったように、声を上げて泣き始めた。
衝撃だった。しかし妙に納得した。まるで天と点が線でつながったようだ。
――現状私たちは、坂本君が後藤君に対して嫌がらせする理由が分かっていません――
学年主任が言っていたことを思い出した。坂本は好きな人を取られたくなかったのだ。川井の時と同じ。きっとそうだ。
「なんて、言って、脅されてたの?」
僕が聞いても千秋は首を横に振るだけだった。僕の胸の中で坂本への怒りが、沸々と沸いていくのを感じる。僕はさらなる可能性確かめておくことにした。
「千秋、正直に答えて。自殺に脅しは関係してる?」
千秋は泣きながら首を縦に振った。これではっきりした。坂本は千秋を殺したのだ。直接に手を下したわけではないかもしれないが、奴は人殺しだ。奴が千秋を殺したんだ。そのくせ、次は川井にちょっかいを掛けている。
この時僕は奴に心から死んでほしいと思った。怒りの感情はもはや殺意に変わっていた。あふれ出していた過去への思いももう止まっていた。しかし、千秋の涙は止まる気配がなくて、今日これ以上話すことは不可能だと思った。明日、生き返った後に話せばいい。
「明日、僕はまたここに来るよ」
僕は笑って言った。その笑みには明日への心からの期待が込められていた。
僕がドアを開けた時、千秋は僕を呼び止めた。
「待って!」
鼻をすすりながら、千秋は僕に言った。
「私は、陽介が好き。中学生の頃から、ずっと好き!」
僕は想定していなかった言葉に固まった。頭の中で言われたことを二回反芻して、ようやく言葉の意味を理解した。嬉しかった。殺意一色だった胸の中が、すっと晴れていくような気持ちになった。
「ぼくも、千秋が好き」
気が付くと、口からこぼれていた。
彼女が生き返るまで取っておこうと思っていた、僕の正直な気持ち。僕は急に恥ずかしくなって、おもわず視線を外す。
「ふふへへ、嬉しい。陽介、大好き」
変な笑い声に思わず顔を上げると、彼女は昔みたいに輝いて笑っていた。
「でも、もう、私はこの世界に居ないから、私にこだわっちゃダメ。ちゃんと次の恋を探して、私の分も幸せになるんだよ。絶対だからね」
千秋は涙をこらえながら、まるで息子に注意する母親のように力強く、そして優しく、言う。
しかし、幸せな時間は長くは続かなかった。階段の方から足音が聞こえる。先生の見回りが来たようだ。もう時間がないらしい。
「大丈夫だよ。僕は、明日も会いに来るから」
千秋は少し驚いたような表情を浮かべたが、すぐに笑顔に戻った。彼女の笑顔を見据えながら、僕は力強く、約束する。
「……うん、待ってる」
「それじゃあ」
「うん、それじゃあ」
千秋は今まで見た中で一番嬉しそうに笑っていた。
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