悪意のない凶器
「ここはさっきの公式を使って」
僕が川井に勉強を教えていると、段々と生徒が教室に集まり始める。部活終わりの生徒の姿もあるが、まだ坂本は来ていない。
「ああ、なるほど」
「じゃあ今日はこのぐらいにしておこうか」
「はい、ありがとうございました」
川井が僕の席から離れていく。僕はそのタイミングで、トイレに行っておく。昨日はトイレで殴られたため、その対策だ。僕がトイレから教室に戻ると同時に坂本が教室にやってきた。
「川井、おはよう~」
坂本は笑顔で手を振っている。何も知らない人が見たら、彼女に手を振る彼氏のようだった。しかし、川井は手を降り返すことも無く、むしろ、睨みつけるように坂本を見据えた。坂本はクラスで一番のイケメンで、川井はクラスで一番の美人。この二人にただならぬ雰囲気が流れると、教室内の雰囲気もガラッと変わる。
「坂本さん、少しお話があります。大した話ではありませんのでここで結構です。言いたいことは二つです、一つ目、私はあなたへの気持ちをこれっぽっちも持ってません。毎日馴れ馴れしく接しないでください。迷惑です。二つ目、私があなたを好いていないのは、あなたの責任であって、あなたに原因があります。他に好いている人が居るとか、恋愛に興味がないからではありません。ですから、他の人にちょっかいを掛けるのはやめていただきたいです。私の友達が減るので」
川井は指を立てながら、言いたいことをはっきりと言っていく。坂本は何かを察したように僕を睨んでいる。教室内は「今、坂本君振られた?」「恋愛に興味あるらしいよ」とか思い思いの言葉を口にしている。
「お分かりいただけたのなら、どうぞご自分の席へ」
目が笑っていない笑顔を浮かべながら、着席を促す川井に、教室のざわつきは最高潮になった。坂本をあざ笑う者や川井の行動にビビる者、何も反応しない者。反応は様々であった。僕は川井の行動にビビっていた。まるで自分が怒られているような感覚があった。しかし、坂本も黙っていない。
「やだなあ。そんなにつれないことを言うなよ。でも、僕が君のことが好き? っていうのは間違いだから、自意識過剰だよ。もうすこし考えてから発言した方がいいんじゃないかな?」
坂本のすごいところはこんな状況でも余裕があるところだ。しかし坂本に負けないほどに川井も余裕がある。今、坂本と川井の言葉一つ一つに教室内のすべての生徒が注目している。しかし、彼らは緊張するどころか、むしろこの状況に慣れているようにさえ見える。二人はどれだけ、人の見られる人生を生きてきたのだろか。
「あら、心配してくださるのですか? でも大丈夫です。友達は自分で選びますので」
「そうかい。まあ、そうしてくれよ。僕も自意識過剰女とは一緒に居たくないからね」
そう言って坂本は自分の席に向かった。僕はピリピリとした緊張感から解放され、肩の力が抜けていくのを感じた。
隣の席に座る川井には人だかりが出来ている。その人だかりの大半は女子生徒だった。
「坂本君にあんなガツンと言うのすごいね。わたしちょっと感動した!」
「ほんとほんと。あんなに言えるの川井ちゃんしかいないよ!」
川井は「ありがとうございます」と言いながら、受け流している。僕はその様子をみながら、坂本ってイケメンなのにあんまり女子から人気ないんだな、と場違いな感想を持っていた。しかし、僕の疑問は川井に群がっている女子生徒の言葉で解消されることになった。
「坂本君、石川さんと付き合ってたくせに、死んじゃったらすぐに川井さんに手を出すのはさすがにひどいよね」
「ほんとにそう。ちょっと顔がいいからって調子に乗りすぎ。大体石川さんの事もあんまり悲しんでなかったしね。遺書にも坂本君の事は、何も書かれてなかったしね。本当はそこまで仲良くなかったんじゃない?」
川井は一瞬僕の方を見た。しかし、見てはいけないものを見たように、すぐに視線を取り巻いている女子に戻した。
僕は今、どんな表情をしているだろうか。自分にもわからなかったが、きっと枯れていた時よりもひどいものだっただろう。
「大体なんで、石川さんは付き合ったんだろうね。面食いだったのかな」
「そうでしょ。じゃなかったら坂本なんかと付き合わないでしょ」
「この前、坂本が言ってたんだけど、セックスしまくってたらしいよ。ずっと石川さんが求めてきたって」
「ヤリマンだったってこと?」
川井の取り巻き達は笑いながら、千秋のことを馬鹿にする。
嘘だ。そんなはずはない。中学校では坂本の行動をありえない、と言っていたのだ。そんな千秋と坂本が付き合っていたはずがない。それに千秋が……そんなわけがない。彼女は純粋で、いつも、笑顔で……。
僕は吐き気を催して、少し口を手で押さえる。だんだんと視界が歪んでいく。胃酸がこみ上げてくるのを感じる。これはヤバいかもしれない、そう思った時、ドンッという大きな音で僕の意識は現実に引き戻された。
「そんな話、私の周りでしないでください!」
音の正体は川井が机を叩いた音だった。川井の声を聴いて、だんだんと胃酸がもとに戻っていく。
「なになに? 川井ちゃん下ネタ苦手?」
悪びれる様子をなく、川井の取り巻きは言う。川井は眉間に皺を寄せながら怒りの言葉を放つ。
「違います! 人の悪口を私の近くで言わないでください。傷つく人が近くに居るかもしれないじゃないですか? 大体、その情報に信憑性も無いですよね? 悪意のない凶器ほど、怖いものはないんです」
川井が取り巻き達を叱ると、取り巻き達は川井の近くから去っていった。川井は申し訳なさそうに僕の方を見ていた。ぼくは川井の言葉を反芻していた。
「悪意のない凶器……」
最近はずっと、その凶器に切りつけられている気がする。やはり天罰なのだろうか。
ホームルールのチャイムが鳴る。何も知らない担任が笑顔で教室に入ってきた。
「ホームルール始めるぞ」
僕がどんなに傷ついたとしても、世界は回る。時間は進む。
千秋は坂本と付き合っていた、面食いだった、ヤリマンだった。
裏切られたような気がした。僕の知らない千秋を坂本が知っていたという事実もショックだった。ホームルールの担任の話は何も入ってこなかった。
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