誰も知らない痛み
「朝からありがとうございました。今日はとても勉強になりました」
部活の朝練が終わった生徒も教室にやってきて、教室がガヤガヤし始めた時、川井はそう言って机を離した。
「どういたしまして」
僕は自分の席で、担任が来るのを待った。クラスで一番人気の川井と机をくっつけて話していたのだ。もちろん、僕に向けられる他の男子からの視線はいいものではなかった。僕に直接突っかかってくる人は居なかったが、クラスの男子生徒はそわそわしている。
「お、川井おはよう。いや今日も朝練疲れたわ」
僕の後ろのドアから聞き慣れた声が聞こえた。川井は「おはようございます」と会釈を返している。千秋以外での唯一の同じ中学出身者、坂本。坂本は高校に入っても変わらなかった。バレーボール部に所属し、クラスでは学級委員として活躍している。
「あ、そうだ。今度俺の家で勉強教えてよ」
坂本は川井の肩に馴れ馴れしく触れる。川井は僕の方を一瞥し、助けを求めてきたが坂本に関わりたくない僕は見て見ぬふりをした。
「私は人の教えられるほど、勉強ができるわけではありませんので」
川井は肩に置かれた手を払いながら、はっきりと断った。
僕は、自分で何とかできるなら助けを求めないでくれ、と文句を言いたくなったが何も見なかったと言わんばかりに目線を逸らした。
坂本は「そこを何とか!」と頼み込んでいた。僕は川井の態度も坂本の態度も嫌になって、逃げる様にトイレに向かった。
チャイムが鳴るまでは三分程度。少し時間をつぶしてから教室に戻ればいいだろうと思い、スマホをポケットから取り出した。しかし現実はそんなに甘くなかった。
僕を追うようにして、坂本とその取り巻きが男子トイレに入ってきた。
「おい、後藤」
坂本たちはトイレに入ってきたらすぐに、僕を囲んだ。
「学校ではスマホは禁止事項だろうよ。何当然のようにいじってんだ~?」
ニヤニヤと笑いながら、坂本と取り巻きは僕を観察するように見ている。
坂本が川井の事を狙っているのは、見ていればわかる。朝の川井との勉強会を聞いた坂本が僕にプレッシャーを掛けに来たのだろう。だが、坂本は何もわかっていない。僕は川井に相手にされるような男ではない。
「なに、ガンつけてんだよ。うぜえな。宮、やれ」
坂本の言葉を合図に取り巻きの一人が僕の腹に拳を打ち込んできた。
僕は思わず「ぐは」というマンガみたいなセリフをこぼした。
腹を抱えながら、痛みに耐えきれず膝をつく。僕が坂本から嫌がらせを受けることはたびたびあったが、久しぶりの痛みだった。二年生の最初こそ、何度も暴力を受けていたが、最近は目立たない嫌がらせが増えていた。
「これに懲りたら、もうチョーシ乗んなよ」
僕が痛い目にあったら、気が済んだようで坂本と取り巻きは教室に帰って行った。その後ろ姿を見ながら僕は唇を噛んだ。僕がもっと強ければ、坂本に目を付けられなかったはずだ。お腹の痛みはだんだんと引いていく。
妙な感覚だった。僕はこの痛みがまるで千秋を救えなかったことに対する天罰であるように思えた。痛みが引いていくことが、自然の摂理に反した超常現象であるようにすら感じられた。
二年生のはじめの頃、僕は坂本から嫌がらせを受けていることを担任に相談した。
しかし、担任は、優等生である坂本を疑わなかった。終いには、「もっと坂本とコミュニケーションを取れ」と言われた。僕はその時から、担任は信用が置けない人物であり、大人には相談してはいけないのだと思った。
千秋には自分の弱いところを見せるのが嫌で、結局相談できなかった。他のクラスメイトには手放しに友人と呼べるような生徒はおらず、相談できなかった。
坂本はクラスメイトや教師の居ないタイミングを見計らって、僕に嫌がらせをしてきた。千秋が僕から離れていったのは、このくらいの時期からだった。いや、違う。僕が離れたのだ。
――陽介が私の事避けるからでしょ?――
あの時、教室で言われたことは冗談交じりだったはずだ。しかし、的を得ていたのかもしれない。きっと僕は弱いところを見られたくなくて、無意識に千秋を避けた。
「ごめん」
僕はトイレで一人呟いた。
きっと死ぬべき人間は千秋ではなく、僕だった。僕はこの罪を一生背負っていかなければならない。思わず「はあ」とため息が出る。どうして僕は気が付かなかったのか。千秋の強さは僕が一番知っていたはずなのに。
チャイムの音が鳴り、僕は我に返った。そして走って教室に向かう。幸いにも、担任はまだ教室に来ておらず、ホームルールは始まっていなかった。まるで何も無かったかのようにみんなは喋って笑っている。
僕は教室の一番遠い席にある花から目が離せなかった。
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