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第9話:指先の偶然と、図書館の静寂に響く鼓動

週末の図書館は、平日の学園とは違う、張り詰めた静寂に包まれていた。


俺たちは、人目につきにくい二階の奥まったテーブルを選んだ。日光が差し込む窓辺だが、周りには誰もいない。この空間は、残された命と取り戻した未来を持つ、俺たち二人だけの特等席だった。


参考書を広げ、茜は真剣に問題を解き始める。その集中力は、一年前の病に臥せっていた頃の彼女からは想像もできないほどだ。


(俺の代償が、君の未来のエネルギーになっている)


そう考えると、俺の余命が削られる痛みすら、尊いものに思えた。


「佐伯くん、この公式、どうしても覚えられないんだ。いい語呂合わせとかないかな?」


茜がそう言って、少し拗ねたような顔で俺を見た。その仕草は、以前の彼女なら見せなかった、甘えるような表情だった。


「語呂合わせか。……そうだな、『命題解くなら、見つめる君の未来へ』だ」


俺は咄嗟に、心の中で考えていたことをそのまま口にしてしまった。


「え?」


茜は目を丸くする。俺は慌てて咳払いをする。


「いや、違う。覚えやすい語呂合わせは、自分で見つけるんだ。自分の言葉で覚えるのが一番効率がいい」


俺はそう言って、別の参考書に視線を逸らした。顔が熱くなるのを感じた。自分で設定した「命の恩人」という役割から逸脱するような発言は、もう許されない。


茜はしばらく黙っていたが、やがてくすりと笑った。


「ふふ、佐伯くんらしいね。なんだか、佐伯くんといると、全部頑張れる気がするよ」


その時、茜が問題を指さした手が、偶然にも俺のノートに置かれた俺の指先に触れた。


微かな接触。


しかし、その瞬間、俺の全身を電流が走り抜けた。熱を帯びた皮膚の感触が、直接脳を刺激する。指先から伝わる茜の体温は、健康そのもので、力強い。


俺は反射的に手を引っ込めることができなかった。その小さな接触が、俺の心の中の防波堤を、一気に決壊させてしまった。


(愛してる)


その言葉が、頭の中で爆発した。俺の命の残り時間が許されない、計画外の感情だ。


図書館の静寂の中、茜は自分の指が触れていることにも気づかず、真剣に数式を見つめている。だが、その静けさの中、俺の耳には、激しく乱れる自分の鼓動だけが響いていた。まるで、この静かな図書館全体に、俺の愛がばら撒かれてしまったかのようだ。


数秒後、茜は自分の指を動かし、気がつかないまま問題の解説を続けた。俺は、まるで深海から浮上したかのように、呼吸を整えた。


「佐伯くん、聞いてる?」


「……ああ。そこは、そうじゃなくて」


俺は必死に冷静な声を絞り出し、勉強を再開する。しかし、指先に残った茜の体温が、俺の理性を焼き焦がし続けていた。


その日の勉強会が終わり、図書館の外に出ると、午後の日差しが目に痛いほど眩しかった。


「佐伯くん、ありがとう。来週は、別の語呂合わせ、考えておいてね」


茜はそう言って、軽やかに笑った。その笑顔は、俺の残り時間を少しでも長く、この目に焼き付けておきたいと思わせる、抗いがたい力を持っていた。


俺は、自分の役割と愛の間で、完全にバランスを崩し始めていた。指先一つの偶然で、こんなにも深く愛を自覚してしまうなんて。


この愛は、残り十年の償いを、悲劇的な結末へと導くのだろうか。俺の心は、もう制御不能だった。

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