第8話:噂の熱と、償いという名の独占欲
「佐伯くんと篠宮さんって、本当に付き合ってるの?」
突然、昼休みの自習室に飛び込んできたのは、クラスの中心人物である女子生徒の声だった。俺と茜は、向かい合って参考書を広げていた手を止める。
教室は静かになり、数人の視線がこちらに集まった。周囲の空気が、急に熱を帯びたように感じられる。
「ち、違うよ!」
茜は顔を真っ赤にして否定した。その反応は、否定というよりも心臓の「ドキリ」とした動きをそのまま表しているようで、かえって周囲の好奇心を煽る。
「だって、いつも二人でいるじゃん。佐伯くんって、誰とも群れないクールキャラだったのに、篠宮さんのことになると、まるで専属の騎士みたいなんだもん」
「騎士」という言葉が、俺の胸に突き刺さる。その表現は、図らずも俺の役割を正確に言い当てていた。俺は、茜の命と未来を守るための、期限付きの護衛役なのだ。
「私たちは、ただ進路の目標が一緒なだけだ。進路指導の一環で、俺が協力している」
俺は努めて冷静に答えた。感情を排した声は、クラスメイトの詮索を鎮める効果があったらしい。女子生徒たちは不満そうにしながらも、すぐに他の話題に移っていった。
茜は、ほっと息をつくと、俺に向き直った。
「ごめんね、佐伯くん。変な噂立てられちゃって」
「気にするな。だが、あまり目立たない方がいい。君の目標は、噂話なんかじゃないだろう」
俺はそう言ったが、心の中はまったく穏やかではなかった。
(専属の騎士? そうだ。俺は彼女の未来を買い取った。だから、彼女の傍にいる権利は、他の誰にも渡さない)
それは、「命の恩人としての責任」という名の独占欲であり、「愛」を隠すための罪悪感の裏返しだった。誰かに茜を奪われる。そう想像しただけで、左手首の刻印が熱を持ち、身体の内側から焦燥感が湧き上がる。刻印の熱は、俺の残り時間が、茜との関係が深まるにつれて、より激しく反応していることを示していた。
昼休みが終わり、次の授業の準備で周囲が騒がしくなる。
「佐伯くん」
茜がそっと俺のシャツの袖口に触れた。
「私、佐伯くんと噂されるの、嫌じゃないよ。だって、佐伯くんが私の隣にいてくれるって、すごく安心できるんだもん」
茜はそう言って、恥ずかしそうに下を向いた。
その言葉は、俺の心に深く食い込んだ。彼女の安心感は、俺の命の譲渡という「償い」から生まれている。彼女は俺の存在が、「未来を背負う者」であることの証だと無意識に感じているのだ。
(ああ、君にとって、俺は命の保険なのか。それでいい。それこそが、俺の望んだ役割だ)
そう理性では理解しているのに、俺の心は激しく痛む。彼女が望むのは「騎士」ではなく、「一人の男」としての愛ではないのか。
夕方、帰宅するため昇降口へ向かう廊下を歩く。茜は、今日の勉強の成果を嬉しそうに報告してくる。
「ねえ、佐伯くん。週末、また図書館で勉強しない? その後、ちょっと遠いけど、星が見える場所に行きたいんだ」
「星?」
「うん。佐伯くんと一緒に、私の未来を見たいんだ」
茜の瞳は、未来への希望に満ちて輝いていた。その瞳には、彼女に迫っていた暗い運命の影は、もう見えない。
俺の胸に、激しい衝動が湧き上がる。このまま彼女を抱きしめ、自分の秘密を全て打ち明けたい。そして、「命の恩人」ではなく、「一人の男」として愛していると叫びたい。
しかし、俺の脳裏には、「10年」という数字がフラッシュバックする。
「分かった。図書館には行こう。星空は、A判定を取るためのご褒美として、とっておこう」
俺はそう答えるのが精一杯だった。
週末の図書館。それは、二人の関係をさらに進める、新たなステージになるだろう。俺の計画は、もはや「彼女を立派な大人にする」という目標から、「彼女の未来に、俺の愛という名の光を刻む」という、危険な方向にシフトしていた。
残り九年と九ヶ月。時間が、容赦なく進んでいく。