第7話:約束のA判定と、初めて呼ばれる名前の熱
一週間後、全統模試の結果が張り出された。
俺は自分の結果などどうでもよかった。真っ先に茜の受験番号を探す。彼女の努力を知っているからこそ、緊張で心臓が激しく脈打った。その脈動は、左手首の刻印を熱く刺激する。
人だかりの中、茜の番号を見つけた。その横に記された判定を、息を詰めて確認する。
「A」。
その瞬間、体内の緊張が一気に弛緩し、激しい目眩が俺を襲った。壁に手をつき、荒い息を吐く。これは、命の譲渡の代償だ。喜びや安堵といった強い感情は、俺の残り時間を削る。
「佐伯くん!」
すぐに、茜が駆け寄ってきた。彼女の顔は、喜びと興奮で紅潮している。
「見た!? やったね、A判定! 私、本当に取れたよ!」
その手には、自らの結果が書かれた用紙が握られている。その文字は、かつて「未来がない」と絶望していた少女の、努力の結晶だった。
「ああ、おめでとう。当然の結果だ。君はよくやった」
俺は目眩を堪えながら、できる限り冷静な声で答えた。彼女の努力が報われたことに、心から安堵している。これが、俺の償いだ。
茜は、俺の様子に気づくことなく、次の瞬間、満面の笑みを浮かべた。
「じゃあ、約束、覚えてるよね?」
「約束?」
「もう! しらを切らないで! A判定を取ったら、私のことを下の名前で呼んでくれるって!」
俺の心臓が、再び激しく波打つ。避けて通れない瞬間が来てしまった。俺と彼女の間に引かれた「命の恩人」という境界線は、この一言で崩壊する。
俺はゆっくりと呼吸を整え、彼女の輝く瞳をまっすぐに見つめた。その瞳には、俺の余命を示す刻印は見えていない。ただ、純粋な期待だけが満ちている。
「……分かった」
俺は、意を決して、その名前を呼んだ。
「茜」
初めて口にしたその音は、俺の心臓の奥底から絞り出された、熱を帯びた、そして切ない響きを持っていた。俺の人生の中で、こんなにも甘く、重い言葉があっただろうか。
茜の顔は、夕焼け空のように赤く染まった。彼女の瞳は喜びの涙で潤み、その涙が今にも溢れそうだ。
「っ……ありがとう、佐伯くん」
彼女は、なぜか俺の名前を呼んでしまった。その「佐伯くん」という響きは、もう以前のよそよそしいものではない。それは、「愛しい人」の前に立つ、戸惑いと喜びが混ざった、特別な呼び方だった。
「なんで俺の、その……名字なんだ」
俺が尋ねると、茜は首を傾げた。
「だって、私はまだA判定を取っただけだもん。本当に『悠真』って呼ぶのは、私が志望校に合格した時まで、とっておくよ」
茜はそう言って、俺の目をしっかりと見つめた。
「佐伯くんは、私の命の恩人。だから、私にとって『佐伯くん』という名前は、私の未来そのものなんだ。その大切な名前を、私からの最高の贈り物で呼ぶまで、大事にとっておく」
彼女の言葉は、俺の左手首の刻印の存在を知らないからこそ、あまりにも純粋で、あまりにも残酷だった。彼女が志望校に合格する頃、俺の余命はあと八年。そして、その先の人生は、俺の計画の通りに進んでいかなければならない。
茜の瞳に映る、未来への希望の色。俺はその眩さに目を細める。
「分かった。じゃあ、楽しみにしているよ。……茜」
俺はもう一度、その名前を呼んだ。そして、初めて、「十年という期限」を完全に忘れ、ただ一人の少女を愛する「一人の男」としての喜びを感じていた。
茜の「志望校合格」という名のゴールは、俺の命の残り時間を最も大きく削るだろう。しかし、そのゴールこそが、俺の愛を証明する最後の舞台なのだ。
俺は、茜の笑顔を未来へ送り出すため、残り九年と九ヶ月の人生を、すべて捧げ尽くすことを、心に誓った。