第6話:十年の期限を忘れさせる、君の夢の色
茜は変わった。あの日、図書室で「佐伯くん」ではなく「茜」と呼んでほしいと告げて以来、彼女の瞳には、以前よりも遥かに強い決意の光が宿るようになった。
「絶対、A判定を取るからね。そしたら、佐伯くんは私のことを……」
そう呟く茜の声は、もはや勉強への意欲だけではない、純粋で甘い期待を含んでいた。
俺が提示した「A判定」という条件は、彼女を突き放すための防御策だったはずだ。目標に集中させることで、彼女の恋心を「モチベーション」という枠に閉じ込めたかった。しかし、皮肉なことに、その目標が、俺たちの時間を劇的に濃密なものに変えてしまった。
放課後の図書室だけでは飽き足らず、俺たちは昼休みまで自習室を占拠するようになった。
「ねえ、佐伯くん。ちょっと休憩しようよ。これ、昨日焼いたクッキーなんだけど」
茜が差し出したクッキーは、形は不揃いだが、家庭的なバターの香りがした。
「いらない。早く問題を解け」
冷たく突き放そうとするが、彼女は拗ねる様子もなく、俺の目の前に一つ、そっとクッキーを置いた。
「別に勉強の邪魔はしないよ。佐伯くんが無理してるのは、分かってるから」
「無理なんてしてない」
「してるよ。だって、最近、時々ふっと疲れた顔をするもん。私が病気だった時みたいに」
茜の言葉に、俺の心臓が警鐘を鳴らす。
命の譲渡の代償は、単に寿命が縮むことだけではない。俺の体力、集中力、そして活力が、茜の病状が改善した分だけ、確実に奪われているのだ。最近、急に立ち上がった時に感じる目眩や、夜、勉強中に襲ってくる鉛のような疲労感は、その確かな兆候だった。
俺はクッキーを手に取り、隠すように口に放り込んだ。甘さが口の中に広がる。
「大したことない。ただの寝不足だ」
「嘘だ。佐伯くんは絶対、夜も私の勉強計画を立て直してるんだ」
茜はそう言って、嬉しそうに笑った。その笑顔は、あまりにも無邪気で、あまりにも愛おしい。
茜の存在が、俺の人生の設計図から、急速に「償い」の要素を消し去り、「愛」という言葉で塗り替えていく。俺が彼女に捧げたはずの命の半分が、逆に俺の心を捕らえている。
その日の勉強会が終わり、図書室を出る時だった。階段を降りる途中で、突然、激しい目眩と吐き気が俺を襲った。壁に手をつき、一瞬うずくまる。
「佐伯くん! 大丈夫!?」
茜がすぐに駆け寄り、俺の背中を支えた。彼女の掌から伝わる体温は、以前の茜からは考えられないほど安定していて、力強かった。
「……大丈夫だ。貧血だ。昼飯を抜いたからな」
「もう! 私がクッキーあげたのに! 佐伯くん、本当に自分のことは適当なんだから」
茜はそう言って、俺の腕を掴んだ。その小さな手が、俺の体を支え、ゆっくりと階段を下ろしていく。
茜の手が触れている場所。それは、俺の命の刻印が刻まれた左手首の、すぐ上だった。
(この命は、君のためにある)
俺が差し出した命が、今、病の影から解放された茜によって支えられている。その皮肉な状況と、彼女から伝わる温もりが、俺の心を激しく揺さぶる。
「佐伯くん、無理しないで。私、一人で頑張るから。佐伯くんの体が一番大切だよ」
茜の言葉は、嘘偽りのない、純粋な優しさだった。
俺は、彼女に気づかれないように、左手首の刻印を握りしめた。残り十年を示す数字は、目眩のせいでぼやけて見えたが、確かにそこに存在していた。
この熱は、代償によるものなのか、それとも、彼女の優しさに触れたことによる、俺の心臓の叫びなのか。
俺にはもう、「命の恩人」として彼女の人生を設計する余裕などなかった。ただ、彼女に触れられ、支えられるこの瞬間が、十年という期限を忘れさせる、唯一の救いだった。