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第5話:熱を帯びる視線と、計画外の「呼び名」

季節は緩やかに移り変わり、教室の窓から吹き込む風に、微かに夏の熱が混ざり始めた。図書室の冷房が効いた静かな空間は、私たち二人だけの小さな秘密の場所に変わっていた。


茜は、医療系の参考書を広げながら、しかし視線はノートに描かれた難しい数式ではなく、その数式を解説する俺の手元に注がれていることが増えた。その熱を帯びた視線は、もはや「優秀な家庭教師への尊敬」の枠を超えている。


「佐伯くん、この問題、自分で解ける気がしないな……」


茜はそう言って、深くため息をついた。その言葉は弱音というより、俺の気を引くための、甘えた合図のように響く。


「大丈夫だ。公式を当てはめるだけだ。君ならすぐに理解できる」


俺は冷静を装い、茜のノートにペンを走らせる。だが、彼女の視線が俺の左手首の袖口に一瞬向けられた気がして、心臓が跳ねた。刻印を隠すため、夏になっても俺は長袖のシャツを着崩すことはない。その不自然さが、いつか彼女に疑念を抱かせるだろう。


「佐伯くんは、いつも完璧だね。成績も、進路の計画も、それに――」


茜は言葉を切ると、そっと顔を上げた。


「……それに、優しさも。でもね、佐伯くん。たまに、とても寂しそうに見えるよ」


俺の呼吸が一瞬止まった。寂しさ。それは、俺が命の譲渡という「償い」を選んだ時から、常に抱え続けている孤独そのものだ。十年後に一人で消えるという運命を知っている者だけが持つ、未来への絶望。


「そう見えるなら、俺の表情が硬いだけだ。君の進路がかかっているんだから、当然だろう」


冷たく突き放すような言葉を選んだのは、彼女にこれ以上深入りさせないためだ。彼女が抱くべき感情は、俺への愛ではなく、未来への希望だ。


しかし、茜は諦めなかった。むしろ、その言葉は彼女の決意を固めたようだった。


「じゃあ、寂しそうに見えなくなるように、一つ提案があるんだけど」


茜はそう言って、目の前に広げられた参考書をそっと閉じた。彼女の指先が、テーブルの上で緊張しているのが分かった。


「……何だ?」


「えっとね、その、私のことを下の名前で呼んでくれないかな?」


茜は顔を真っ赤にして、俯いた。図書室の静寂が、その言葉の熱を際立たせる。


「篠宮、何を言い出すんだ。俺たちはただのクラスメイト、そして勉強仲間だ」


「違うよ!」


茜は顔を上げ、ほとんど叫ぶような声を出した。周囲の利用者が一斉にこちらを見たため、茜は慌てて口元を押さえる。


「……ごめん。でも、違う。佐伯くんは、私の命の恩人で、私の未来を設計してくれる、一番大切な人。私だけが『佐伯くん』って他人行儀に呼んで、佐伯くんだけが私のことを『篠宮』って呼ぶのは、ずるいよ」


彼女の瞳は潤んでいた。その切実な訴えは、「命の恩人」という安全な枠を、彼女自身が壊そうとしていることを示していた。


俺の左手首が、警鐘のように激しく脈打つ。刻印は、熱を持ち、まるで俺の心を焼き切ろうとしているようだった。


(駄目だ。この関係を、愛に変えてはならない。俺の死が、彼女の人生を壊してしまう)


しかし、同時に、俺の心の中には、**「茜」**と呼んでみたいという、抗いようのない熱が湧き上がっていた。


「……分かった」


俺は、絞り出すような声で答えた。


「ただし、条件がある。俺が呼ぶのは、君が次の模試でA判定を取った時だけだ」


それは、「恋の約束」ではなく、あくまで「未来の設計図」という名目の「取引」だった。これで、彼女の行動を再び「勉強」という枠に戻せる。俺はそう自分に言い聞かせた。


茜は、一瞬驚いた後、顔を輝かせた。その笑顔は、太陽のように眩しい。


「絶対取る! 待ってて、佐伯くん!」


彼女は再び俺の名字を呼んだ。しかし、その声は、もう以前のような遠慮がちな呼び方ではない。それは、「愛しい人」への、挑戦状にも似た響きを持っていた。


図書室を出ると、初夏の夕焼けが、空を濃いオレンジに染めていた。その色は、まるで燃えるような茜の恋心のようだった。


俺は、計画外の「呼び名」という燃料を、自ら二人の関係に投下してしまった。この火は、俺の残り十年の命を、どこまで燃やし尽くすのだろうか。

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